恋愛小説に『恋』をして

Nico

第1話

 逃げるように店を出た。夜の都会を抜ける三月の風は、まだ冷たい。タバコに火をつけ、コートの前を閉じる。すぐに後ろのドアが開き、賑やかな声が追いかけてくる。

「おい、皐月さつき! 次行くぞ、次!」

「俺はいいよ」

「なんだよ、ノリ悪いなー」

 同期の田上たがみが悪態をつくが、次の瞬間にはそんなことは忘れてしまったように上司のご機嫌取りをしている。俺は静かにため息をつくと、少しうんざりした気持ちで皆と反対の方向に歩き出した。


「森山くん」と背後から声がする。「帰るの?」

 隣の課の冴島さえじまさんだった。俺より三つ上の彼女は、穏やかでにこやかで、ありきたりな表現で言えば、太陽みたいな人だった。

「明日、朝早いんで」

「そう。じゃあ、駅まで一緒に帰ろう」

 どうやら冴島さんも二次会にはいかないらしかった。


 金曜の二十二時の雑踏を二人で並んで歩いた。冴島さんは、やはりにこやかに先日明らかになったばかりの四月の人事異動について話をしていた。俺も冴島さんも内示はなく、それぞれの部署で、俺は三年目を、冴島さんは五年目を迎えようとしていた。


「森山くんは行きたい部署とかないの?」

 駅前で信号を待っている時に、冴島さんがそう尋ねてきた。

「特にないですね。しばらく今のままでいいです」

「じゃあ、やりたいことは?」

「……やりたいこと、ですか?」

「そう。夢とか」


 夢。そう言われて俺の頭に浮かんだのは、書きかけの小説のタイトルだった。一瞬、冴島さんに言ってみようかと思ったが、おそらく求められている回答ではない気がしてやめた。

「冴島さんはあるんですか? 夢」

 答える代わりに、質問で返す。

「私? そうね、絶賛探し中かな」

 そこで信号が青に変わり、一斉に動き出す人の波に俺たちはさらわれた。


 駅に着くと、冴島さんは「じゃあね」と笑顔で手を振り、逆方向に向かう電車に乗るために、ホームへ続く階段をゆっくりと上っていった。


 帰りの電車の中で、LINEが届いた。高校時代の友人からだった。

『今年は来れる?』

 同窓会に、だった。毎年五月の連休中に行われていて、今年も一週間前に案内が来ていたが、まだ返事をしていなかった。おそらく今年も行かないだろう、と他人事のように考えている自分がいた。結局、大学で地元を離れて以来、俺は一度も参加していなかった。

『飛行機が取れたら、行く』と返すと、すぐに『山梨に空港はない』と返ってきた。


 同窓会を敬遠することに、明確な理由があるわけではなかった。大学の時はまだ高校時代を懐かしむような感傷はなかったし、それ以上に目の前にある生活に忙しかった。バイトと部活と夢を追うことの合間に、授業に出た。そう、あの頃はまだ夢中に夢を追っていた。

 就職すると、途端に時間と精神的な余裕がなくなった。バイトと部活と授業と夢を追うことはセットだったみたいに、そのすべてが自分の生活から消えた。夢を追う時間くらいはあったはずだが、気づけば、俺は目の前の生活で手一杯になっていた。

 高校時代を懐かしむのに十分な時間が流れていたが、俺はあの頃の自分に、夢を追いかけていたころの自分に触れることに、なんとなく臆病になっていた。


 家に帰ると、真っ先にパソコンの電源を付けた。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、栓を切る。ブラウザの「お気に入り」から、ここ最近毎日アクセスしているページを呼び出す。小説の投稿サイトだった。

 夢を追うのをやめたことにも、再び始めてみようと思ったことにも、これといった理由はなかった。なんとなくやめ、なんとなく再開しただけだった。俺にとって、夢とは結局その程度のものだったのかもしれない。


 「新着小説」の欄に見慣れたペンネームを見つけた。


――あ、新作、書き始めたんだ


 そして、彼女はいまネットの向こう側でパソコンの前に座っている。「3分前」と記された投稿時間がそれを示していた。小説のタイトルをクリックする。


 缶ビールを飲みながら、彼女の綴った文章を目で追う。情景描写に富んだ表現で、若い女性の恋を描いていた。憧れと希望に満ちた若い女性の恋が叶わぬことを、俺は知っていた。彼女の書く小説は、いつも淡々と悲しい結末に向かっていく。その抑圧された文体に、彼女の爆発しそうな感情が込められている気がして、俺は彼女の小説を読むことをやめられずにいた。


 缶ビールがなくなるよりも前に、その日彼女が書いた文章を読み終えると、俺は「応援する」のボタンを押した。




第2話へ

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888890745/episodes/1177354054888903349

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