徒歩3年

マツモトキヨシ

徒歩3年(お題:紙とペンと距離)

 砂丘の上に登ると、地平線の彼方にファミマが見えた。目じりに食い込むゴーグルを持ち上げ、眼前の景色をにらむ。ファミマを除いて一面が砂の海だ。日差しはそう過酷でないが、砂の照り返しで目の奥が痛んだ。

 坂をのぼったのと、それから仕事が捗らない苛立ちでさっきから心拍数が上がりっぱなしだ。「クソッ」毒づきながらスーツの内ポケットをまさぐり、会社支給のスマホを取り出す。地図アプリで現在位置を確認すると、GPSが郵便局の前にいる己の姿を指し示した。

「ええい、使えない」私はスマホを足元の砂に叩きつけた。郵便局の前を通ったのは実に昨日のことだ。

 地図の上では郵便局とファミマは隣り合せだ。が、実際にファミマに辿り着くのには半日を要した。ここでは何もかもが遠い。たまに馴染みのある場所を見つけても、ほんの1時間も歩けばすぐ砂に埋もれて見失ってしまう。歩く間は遭難者が行き倒れていないか、ずっと目を皿のようにして探していた。

「これは死んでるかもだなー」

 改めて丘の上から周囲を見回してみたが、人影は見当たらなかった。食料の入手が容易なコンビニ付近で足踏みしていると思ったが、当てが外れたか。バックパックからミネラルウォーターを取り出して口に含む。まめな補給がここでは鉄則だ。そうでなければ長くは持たない。

 ひとまず職場に報告を入れたいところだ。かがんで足元を探るが、砂に挿した手はいつまで経っても先ほど捨て置いたはずのスマホに触れない。

「あれ?」

 立ち上がって下を見た。ない。スマホが。控えめに足で砂を蹴ってみる。サラサラとしぶきがあがるが、肝心の探し物は見当たらない。ありえないことだが、スマホが砂になってしまったかのようだ。

「そんな」

 私は手当たり次第に砂を蹴りまくった。するとそのうち、「があっ」つま先が人の顔を蹴り上げた。見れば砂が隆起した箇所から、人の顔が突き出ている。

「おいおいおい」私はポジションを変えて、胴と思わしき個所をもう一度蹴ってみた。「うぐっ」全身が砂に埋もれているが、人で間違いなかった。それも生きている。遭難者だ。

 体の上から砂を取り除けてやる。「宇頭さん、大丈夫ですか。立てますか?」少年は制服姿だった。学校帰りに姿を消したという情報の通りだ。呼びかけられた彼は薄目を開けて、頭の先に視線をやった。「そこに……鞄が」そこにはもう一つ砂の山があり、中から学生鞄と思しきものの端が覗いている。「質問に答えて」私は繰り返し言った。

 返事がないので肩を貸して宇頭の上体を起こしてやる。衰弱しているが、どうやら立てないこともないようだった。差し当たっての目的地はファミマだろう。半ば引きずるようにして彼を連れていく。

「鞄を持って行って」宇頭が途切れ途切れに言った。「……お願いします。大事なものが入ってるんです」

 そんな場合ではないのだが。私は砂の中から鞄を引っ張り出してやった。宇頭は安堵の表情を浮かべて目を閉じた。体にかかる重みがずしりと増す。私は難儀して彼をコンビニまで運んだ。覇気のない店員の声が私を出迎えた。


 宇頭を二階のイートインスペースに運び、作りの簡素な椅子に座らせてやる。たらふく水を飲ませ、ついでにエナジードリンクも買い与えた。宇頭は見るからにひ弱そうだったが、世の13歳の男子がどれほど頑健なのか私には見当もつかなかった。メガネはヒビ割れ、制服は砂まみれだが、あいにく最寄りの服屋まで歩いていくと1週間はかかるだろう。我慢してもらうしかない。

「少しは落ち着いたかい?」

 私は下で買ったウェットティッシュを差し出しながら、憔悴しきった様子の宇頭に尋ねた。

「正直言ってまだ全然……」

「うんうん。まあ今のうちにまともな景色でも見ておくんだね」

 私は窓の外に目をやった。そこには車や人の行き交う、当たり前の道路がある。その先には立ち並ぶビルの群れが。ファミマの向かいに建った旅行代理店の窓ガラスには、隣の郵便局が映っていた。見渡す限りの砂など、ここではパンフレットの中の風景でしかない。宇頭もまたどんよりと曇った目でそちらを見ていた。

「あの……普通に外には出られないんですか?」

「出られるよ。でも今は無理だ。少し我慢しないと」

「少しって言うとどれくらいでしょう」

「ま、半年から一年ってところだね」私はスーツの内ポケットをまさぐった。「原理を知りたいだろ?」スマホを探したが、どこにも見当たらなかった。「あー」私は宇頭の持っていた鞄を指さした。「紙とペン。ある?」

 宇頭はボールペンと片面印刷のプリントを差し出した。見ればテストの答案だった。

「それでは失礼して」

 私は何も書いていない面の両端に、それぞれ点を一つ書いた。そしてそれを宇頭に差し出す。

「頭の体操。この二つの点を最短の線で結ぶには?」

 私はなるべく教師を思わせるような笑みを浮かべた。宇頭は心ここにあらずと言った顔つきで、私の方をじっと見ている。私はひとまずその反応に満足することにした。

 やがて彼はおずおずとペンをとり、プリントを横にしたり縦にしたりした後、二つの点を直線で結んだ。「こうですか」そしてプリントを私の手に返す。

「いや、ちょっと違う」私はプリントの両端を軽くつまんだ。「正解は、こう」

 プリントを折り曲げ、点と点がぴったり重なり合うようにしてやる。これが最短距離。つまりゼロだ。私は再び教師の笑みを浮かべた。宇頭はぼんやりした表情を浮かべていたが、これも私は満足することにした。

「それでね、時たまこういう風になってる空間がある。一つの点から他の点に向けて真っすぐ進んでいるつもりでも、実際は離れた点同士をゼロ距離でワープしていて……」

「僕は下校路から他のところへワープしてたんですか?」

「いや、違くて」

 私は折りたたんだ紙を開いた。点から点へ、始めに宇頭が書いた線をなぞる。

「本来ゼロ距離で行けるはずの点と点を、我々は間を省略せず進んでるわけ」

「そんな……」

 彼は足元に置いた鞄を見た。

「本来ならぴったりくっついてるはずの個所がそこら中にある。そこを皆は普通に歩いてるんだけどね、我々だけ遠回りしちゃうんだ。そういう人結構多いんだよ」

 とまあ、中学生の頭で理解できるのはせいぜいこの辺りまでだろう。私は紙とペンを宇頭に返した。彼はまだ困惑げだった。

「あの、僕、プリントを届けなきゃいけないんです……」

 宇頭がぽつりとつぶやいた。

「は? 何?」

「同級生の境田さんが体調不良で休んでて……僕が家まで届けないと」

「それは……」私は頭を掻いた。それはぼんやりしすぎだ。「君はすぐ家に帰らないと。ここから家まで――(私はこの辺りの伸長空間を思い浮かべた。普通の地図だとここから宇頭宅までは1.6kmといったところ)330kmある。20日以上歩くんだ。寄り道してる暇はない」

「帰った後はどうするんですか……?」

「ま、しばらく屋内で療養だな」

 期間は控えめに見積もって1年。完治までは4年と見るのが良い。特に若年での発症はぶり返さないよう、後々までケアしていく必要がある。

「でも、境田さんの家はここのすぐ近くだし……」宇頭はなおも食い下がる。

「近くって? 方向は?」

「えっと……駅前のマンションなんですけど」

 私は頭の中で空間地図を広げた。ファミマを出て西へ。薬屋のヒロまで600km。そこからスーパー田中まで2000km。途中には遭難者ミツハシの回収不能と判断された遺体があり、目印代わりになる。そこから駅にかけては少ない補給でのアタックの連続だ。これを総合するに「無理だ。歩いて3年かかる」

「3年も」

「そうだ。よせ」

「でもプリントが……」

「諦めるんだ」私は宇頭の目を見て言った。「プリントはその子が学校に来た時でいいだろ。私から教師に連絡しておく」

「でも」宇頭はおもむろに鞄を持って立ち上がった。そしてそそくさと下へ続く階段に向かっていく。

「待った。どこ行くつもりだ」

「でも」でもじゃねえっての。私は階段を駆け下りていく宇頭の後を追った。何が起きているかはわかっている。相手は受け入れがたい現実を前に錯乱しているのだ。このままだと大変なことになる。

「おい、止まれ……止まれっての」

 階段を降りて売り場に出た。見渡しても宇頭の姿はない。見失った! 

「クソッ」自動ドアをくぐって店の外に出る。途端に砂埃が舞い上がり、顔を打った。頭に上げたままにしていたゴーグルを下ろして周囲を見渡す。が、宇頭の姿はない。私は呆然と立ち尽くした。脳裏に我が課の悪夢的不祥事の記憶――学生時代ワンダーフォーゲル部で鳴らしたというミツハシさんを一人で家に帰らせ、揚げ句餓死させた――が蘇り、消えた。

「偶然だねー」自動ドアが閉まる寸前、背後から甲高い少女の声が聞こえた。店の中に戻ると、死角になっていた商品棚の陰で宇頭が制服姿の女子と話していた。鞄から用紙を取り出して、女子の手に渡す。彼女は宇頭のくたびれた様子を見て笑っていた。

 宇頭が丸一日かけて彼女の家を目指している間に、彼女の方は学校に復帰した。そういうことらしい。話を終えた境田は宇頭に手を振ると、自動ドアをくぐって街の雑踏に消えた。宇頭は私の前に戻って来た。

「境田さん、たまたまここにいたんです」

「そっか。用事は済んだの?」

「はい。プリント、渡せてよかったです」

 責めるのもどうかと思い、私はひとまず頷いておいた。これから彼の家を目指して歩く間、宇頭とはずっと二人きりになるのだ。人間関係は良好にしておきたい。

「それじゃ、帰ろうか」

 私と宇頭は連れ立って歩きだした。コンビニの自動ドアの先には、横断歩道と点滅する信号が見えていた。境田の出たところはそこだ。が、我々がひとたび建物の外に出るとそれは瞬く間に砂埃の中に掻き消え、一面の砂漠に変わった。その何もない道のりを、私たちはとぼとぼと歩き始めた。

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徒歩3年 マツモトキヨシ @kiyoshi_matzmoto

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