紙とペンと紙とペン
石井(5)
紙とペンと紙とペン
大地震が東北を襲ったその年、私は関西の大学に進学し、そこで怪物と出会った。
こじんまりとした文芸サークルだった。同期は私と怪物の他に数人いた。
私を除いた他の数人と同じく、怪物の見た目はふつうの陽性の女の子だった。私だけ根暗で、なかなかサークルに馴染めなかったがそれは別の話だ。
怪物だったのは、その文才だった。
怪物の書くものはすべてが不出世の才気に満ち溢れていた。
部誌は年に四回発行される。彼女は毎回短編を寄稿した。突発的な同人誌にも、誘われれば絶対に断らず、他の寄稿者を圧倒する作品を寄せた。
怪物の書くものはすべてが怪物的だった。書き飛ばした新入生勧誘ビラのコラムさえ、私たちの目を焼き尽くすほどのまばゆい輝きを放っていた。
第三十七回メフィスト賞を受賞した『パラダイス・クローズド』その有栖川有栖の推薦文を借りれば、『何が怪物をそうさせるのか、黒光りする拳銃を片手に、ワナビを打ち倒そうとする生意気な新入生が現れた。われらのぬるま湯、絶体絶命のピンチ』
そんな怪物は、よく私とつるみたがった。
彼女の書くものはどっしり腰の座ったストーリー小説、一方の私が書いていたのは幻想文学と逃げを打った意味不明な展開の羅列だった。出来など雲泥の差。月とすっぽん、
唯一の共通点は、小説を書くときに紙とペンを用いる、ただそれだけ。
みんなパソコンを使っていた。彼女と私だけがキーボードの代わりにペンを持ち、ディスプレイの代わりにノートを睨んでいた。
ただそれだけの共通点なのに、怪物は凡人に興味を示した。
――ねえ、なんで紙とペンなの?
最初はかっこつけだった。
――私も。ほら見て(ここで彼女はノートにペンを走らせる真似をした)。かっこいいでしょ。
私は彼女のノートを見た。真っ黒だった。最高の一文を求めて何度も書き直した痕が大部分を占め、わずかな余白も後の展開やキャラクターに関するメモによってびっしりと埋まっていた。
私は自分のノートを見た。
真っ白だった。
――
どこが、と私は問い返す。
私は怪物ではない。周りからの評価を恐れて、形にならない文章をつらねて逃げているだけだ。ゼリーを切り刻み、批評することは誰にもできないだろうから。
――だって、誰にも真似できないじゃん。あーあ、私も果南みたいなの書きたい。
とってつけたようなお世辞は、私には皮肉にしか聞こえなかった。
怪物だって友達が欲しかろう。だが凡才とは話が合わないので、とりあえず友達ごっこ用のサンドバッグとして一番
実際、私は与した。表面上は、彼女と友達のように振る舞った。
部誌を読んだ出版社に声をかけられ、怪物は在学中にデビューした。売り文句は『怪物級の新人現る!』みんな考えることは一緒だ。
彼女は精力的に作品を発表し、すべてが順調に売れた。金銭事情まで知っているのは、これで奨学金を借りずにすむ、と無邪気に喜んでいたから。
プロになってもしばらく、怪物は部誌に寄稿し続けた。だが、それは子供の砂場を大人が踏み荒らすようなものだった。
サークルの空気は
少しずつ彼女は部室に来なくなり、やがて私とも会わなくなった。
卒業してから彼女は本格的に専業作家となり、いよいよ大作家の名を欲しいままにした。ベストセラーを連発し、日本文芸を語るにおいて外せない作家の一人として名をつらねた。
名声に呼応して彼女の才能もさらに花開いた。作品を重ねるごとに筆致は精彩を増し、その物語はわかりやすくも本質的な奥深さを見せた。あの怪物にはまだ伸びしろがあったのか、と思わず感心したものだ。
そう、私も最初の頃は彼女の小説をたまに読んでいた。それは自傷行為だった。自らの手首を薄く切り、その痛みに自堕落な快楽をわずかに見出す。彼女の作品はどれを選んでも、凡人の私の心を斬り裂くに足る刃を持っていた。
今も顔を上げると、記者部屋のテレビで情報番組が彼女の新刊の発売を告げている。
私はパソコンに視線を戻した。
大学を出た私は地方の新聞社に就職した。小説家になりたいなどという気の迷いはすでに失せ、こうして日々、パソコンに向き合って理路整然とした原稿を打ち込んでいる。
読む文章はもっぱら自社の原稿か、他社の新聞紙。小説など新聞の連載欄で見かけるだけ。それすらも読み飛ばす。
数年前、ある文芸誌で彼女が連載を始めた。
それは彼女の中学時代の話だった。唯一の小説書き仲間だったコトちゃんという女の子との日々を綴った、自伝的な青春小説。
だが私を含め、あのサークルにいた全員が気づいたはずだ。
コトちゃんとは私のことだった。
紙面で語られていたのは彼女の中学時代ではなく、彼女と私の日々だった。
その小説の中での私は幻想的な才能を持ち、彼女を導いていた。
そこでは私こそが怪物であり、彼女が凡人だった。
私はそのとき初めて、有名になっていく彼女を心のどこかで誇らしく思っていた自分に気づいた。それは彼女の作品を読むことで感じた自傷の愉悦に、一滴だけ含まれた健康的な喜び。私は唯一好いていた。彼女の決して嘘をつかない正直なところを。
嘘まみれの連載を読んで、私の心を薄く斬りつけるだけのはずだった刃はその心のどこかにまで深く達し、私は彼女の作品から遠ざかった。
もはや怪物は彼女ではない。余白の多い私のノートに私の小説のキャラクターをいたずら書きした彼女や、気乗りしない飲み会の帰りで憂さを晴らすように延々と小説について語り合った彼女や、一回生の終わりに私の小説だけをまとめた短編集をプレゼントしてくれた彼女はもうどこにもいない。
だから、近くの書店で行われる
書店は怪物の新刊を携えた人でごった返していた。
私はぶつからないようにしながら行列をくぐり抜けた。
ようやく見える。政治家みたいな垂れ幕の下で、次々手渡してくる単行本にサインする女性の姿。
だが、それは彼女ではなかった。
見知らぬ顔の女が、彼女の小説に彼女のペンネームをさらさらと書いていた。
気づかないうちに、足が進んでいた。
咎める声を無視して人を押しのけ、私はその女の前に立った。
周りから注意する声が聞こえてくる。
私はただじっとその女を見下ろした。
隣の席で呆気にとられていた編集者は何かを悟って立ち上がった。
ちょっとこちらへ、とバックヤードの方へ腕を引かれる。
挽城さんのお知り合いですか、と尋ねられ、うなずく。
彼女はゴーストです。男は言った。
男はバックヤードにあった挽城天音の新刊を私に渡した。
ページを開く。それなりの文章だった。
だが、そこに彼女の才能のきらめきは一片も感じなかった。
男は語った。
数年前のことだった。あるときを境に、彼女は作風をがらりと変えた。抱えていた数本の連載と一本の書き下ろし、すべてが以前からは想像もつかないような原稿になった。
すべてボツにされた。
面白くなかったんですよ。男は言った。挽城天音のネームバリューがあっても出版できない酷い代物でした。
唯一あの……『コトちゃんとわたし』の連載だけは載ったそうですが、いや、あとは全滅。
以降、彼女が書く小説はすべて不条理が支配し、ことごとくが出版社に拒絶された。
そして、彼女は忽然と姿を消した。
新たな作風が受け入れられないことに絶望したか、もう一生分稼いだと小説を見限ったか理由は不明だ。
露出もなく、業界内でも最低限の付き合いしかない彼女の失踪は噂にすらのぼらなかった。
だが、挽城天音という金を産むガチョウをあきらめきれない出版社はゴーストライターを立て、せっせと小説を書かせている。いずれ『挽城天音』は数人の作家の共有ペンネームだったことが発表されるという。
何人もの手による合作、競作。
たしかに、それを世間が納得するほど彼女は怪物だった。
私はネットオークションである文芸誌を落札した。
彼女の書いた最後の小説。絶筆となった『コトちゃんとわたし』の最終回。
それはただ突飛な展開だけが続く、自己満足的なものだった。
幻想的、というより猥雑なイメージが羅列され、入り組んだ文章は迷路のように読みづらい。大災害の後の廃墟を歩くようなものだった。彼女の才能は見るも無残に砕け散り、あとには悲惨な瓦礫の山しか残っていない。
たしかに『わたし』が書いたという体裁の劇中作でなければ載せられなかっただろう。
どうしてこんな作品のためにすべてを犠牲にしたのか――
『わたし』の短編は掲載ページぎりぎりまで続き、そして最後に一行だけ『わたし』の独白があった。
――わたしもコトちゃんみたいになれたかな。
私は思い出した。
唯一好きだった彼女の部分。
決して嘘をつかない、正直なところ。
――
――だって、誰にも真似できないじゃん。あーあ、私も果南みたいなの書きたい。
彼女は本気で思っていたのだ。
私が怪物で、彼女が凡人だったのだと。
辞意を伝えると、上司は私を別室へと連れて行った。
理由とか、何かあるのか。
その質問に私はうつむいて首を振った。
上司はため息をつき、首を揉んだ。
なら、辞めてから何やるか決まってるのか。
私は答えた。
「紙とペンを買いに行きます。友達を迎えに」
紙とペンと紙とペン 石井(5) @isiigosai
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