可愛い子には飯を食わせよ!

黄鱗きいろ

第1話 カニをお食べ……。

 鍋の端から蒸気が小さく噴き出ている。鍋の蓋は閉まりきらず浮いてしまっている。その隙間から見えるのは真っ赤に色づいた蟹の足だ。


「……まだか?」

「まだだ。もうちょっと待ちなさい」


 ちゃぶ台の向かい側に座る六歳ほどに見える少女――サーシャがうずうずと体を揺らしながら尋ねてくる。ぴしゃりとそれを制してやると、サーシャはほんの数十秒は大人しくしていたが、やがて鍋とこちらを交互に見ながら再び尋ねてきた。


「まだなのか?」


 その問いに今度は沈黙で答える。

 確かに蟹はもうそろそろ煮える頃かもしれない。だけど白菜がまだ怪しい。白菜がとろとろになるまで煮なければ、きっとサーシャは食べないだろうから。


 サーシャは箸をぎゅっと握りしめると、膝立ちになってこちらに体を乗り出してきた。


「ええい待ちきれんぞ!」

「もう少ししたら煮えるから、座ってなさい」


 視線だけを向けて言ってやると、サーシャはぐっと言葉に詰まって腰を下ろした。そして頬を膨らませると、こちらを恨みがましい目で見つめてくるのであった。


「……この鍋奉行め」

「おお、難しい言葉を知ってるな」

「サーシャをなめるでない。この日本に来て数十日、情報収集を怠った日などないわ」

「ふーん。で、情報源は?」

「お昼の情報番組じゃ!」


 へぇ。希代の吸血鬼様がお昼の情報番組を。

 思いの外、日本での生活を楽しんでいる様子の使い魔に、笑い出してしまいそうになるのを堪えながら鍋を見つめ続ける。


 ここで笑ってしまっては、鍋ごと台無しにされることが必定だ。このわがままなお姫様はそういうところがあるのだから。


「なあ、まだなのか? サーシャは腹が減ったぞ? 食前酒代わりにお前の血肉をいただいてもいいのだぞ?」

「いいから座ってなさい。あと五分だから」

「五分もか!」

「五分だけだ。それとも三百年を生きる偉大なる吸血鬼のお前がたった五分を待てないのか?」


 言い返す言葉が浮かばなかったらしく、サーシャは大人しく鍋を睨みつけ始めた。

 それから待ち続けること五分。鍋の蓋を取って中身を確認してみると、蟹の合間に敷き詰められた白菜はとろとろに溶け、他の具にもしっかりと火が通っているようだった。


「よし、完成だ」

「やっとか! ほれタケルよ、早うサーシャの器に盛るがいい! サーシャは待ちくたびれたぞ!」

「はいはい、仰せのままに」


 かわいい子猫ちゃんのついたプラスチックの茶碗を差し出され、俺はその中へと蟹鍋を取り分けていく。白菜、きのこ、春菊、豆腐、それから大きめに切られた殻つきの蟹。好き嫌いをしないようにバランスよく取り分け、俺はその茶碗をサーシャの目の前に置いた。


 サーシャはパッと目を輝かせたが、すぐに手をつけることはしなかった。俺が自分の茶碗に取り分け終わるのをしっかりと待って、それから視線で早くするようにと主張してきた。


 俺は両手を合わせ、それを見たサーシャも満足げに両手を合わせた。


「いただきます!」


 予想通り、サーシャが最初に手を伸ばしたのは鮮やかに色づいた蟹の足だった。


「知っておるか、タケルよ。蟹というのはな、関節でこうぽきっと折って中の身を引きずり出して食べるのが通なのじゃ」


 お昼の情報番組で食べていたのを目にしたのだろう。そうやって一般的なテレビでよくやる食べ方を自慢げに披露する吸血鬼様に、口角が上がってしまいそうになるのを堪えながら「へえ、そうなんだな」と相づちを打つ。


 サーシャは機嫌良さそうに鼻を鳴らすと、蟹の関節を折って、中身を取りだそうとした。――しかし、殻の中からするっと出てきたのは、白くて細い蟹のスジだけだった。


「な、なんでじゃ。テレビじゃ確かにこうやって……」

「あー、ちょっと貸してみなさい」


 呆然とするサーシャの手から蟹を取り上げ、足の中程でぽきっと折ってやる。すると殻の中から赤と白の身がするりと出てきた。


「こうやって足の途中で折ってやったほうが出てきやすいんだよ。テレビのあれはそうだな……達人がやってるんだよ。職人技ってやつだ」

「そ、そうなのか……いや、知っておったがな! サーシャに知らぬことなどないのだがな!」


 適当なことを吹き込んでやると、サーシャは焦った様子でそれに納得していた。そんなサーシャに蟹と一緒にカニスプーンも手渡してやる。


「殻の奥に残った身はそれで食べるといい」

「ほう、これはまた便利な……」


 サーシャはしげしげとカニスプーンを見つめた後、手渡されたむき身の蟹を持ち上げて口の中へと吸い込んだ。そのままもぐもぐと咀嚼しながら、話しかけてくる。


「しかしタケルよ。蟹鍋というこれはその、なんというか……」


 サーシャは途中から無言になり、ゆっくりと蟹を噛みしめ、ごくりと飲み込んでから、ばっとこちらを見上げてきた。


「美味いの!」

「それはよかった」


 切って煮るだけの簡単なものとはいえ、料理の味を褒められるのは悪い気はしない。俺は鍋の中に残っていた一等に大きい蟹の足をサーシャの茶碗の上に置いた。


「ほらまだまだあるぞ」

「おお、おお……!」


 その大きさにサーシャは目を輝かせ、先ほどの俺の真似をして足の中程でぱきりと蟹を折ると、その中から出てきた身を口の中に入れて満面の笑みになった。


 そこから先は二人とも無言で蟹鍋を食べ続けた。時折、差し出される茶碗に、蟹以外の具も盛って手渡していたのだが、具に染み込んだ蟹のだしをいたく気に入ったのか、サーシャは好き嫌いをすることなく、綺麗にそれを平らげていった。


「ごちそうさまでした!」


 手も口もべたべたにした状態で、サーシャは満足げに手を合わせる。


「手と口の周りちゃんと洗うんだぞ。かゆくなるからな」

「分かっておるわ! 子供扱いするでない!」


 洗面所に駆けていくサーシャを見送って、俺は残された鍋を見る。サーシャが寝静まった後、こっそり〆の雑炊を食べようかと思いながら。

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