エピローグ「ジョーの指輪物語」
長い夢から目覚めたような気がした。
「ジョーどうしたの?」
「俺はジョーグフリートだ」
「わかってるわよ。でもジョーの方が呼びやすくてあたしは好きだなー」
マリアだ。
マリアが笑ってる。
そうだ。終わったんだ。あの悪夢のような転生地獄がやっと終わったんだ。俺は勝ったんだ。俺はマリアを救えたんだ。
「マリア!」
彼はそう叫ぶとマリアを抱きしめた。
「な、ななな、なにすんのよっ!」
真っ赤になったマリアが慌てて彼を突飛ばす。
だが、彼は久しぶりに見るマリアの顔を見つめる。
あれだけ長い間生き続けた自分であったが、それでも愛する女の顔は忘れることはなかった。
マリアだ。
間違いなくマリアだ。
彼は感動していた。
が、しかし。
「何?」
怪訝そうな表情で問うマリアに違和感を抱いた。
なんだ?
この不安感と既視感は何だ?
彼女が「何?」と問い、自分は──
「いや、なんでもねーよ」とそっぽを向く。そうすると、彼女は──
(「変なの」と笑ったんだ)
すると。
「変なの」
そしてクスッと笑った。
ジョーグフリートは絶句した。
それからは再び悪夢に逆戻りしたような気分だった。
どうやら彼はマリアが死んでしまう数日前に戻ったようだった。
すべてが経験したことばかりの連続で、彼は焦っていた。このままでは同じ運命しか待っていないからだ。
(何とかしなければ…このままではまたマリアは死んでしまう)
彼は座るのにちょうどいい岩に腰かけていた。
今はマリアはいない。少し離れた場所に流れる川に水を汲みに行っている。座っている場所から同じく少し離れた場所に森があり、これからその森を抜けて近くの宿場町に行こうとしているところだった。空を見上げる。今は所々に雲が点在するだけで、雲の切れ間には鮮やかな青空が垣間見えた。良い天気だ。こうやって空を眺めていると、あの不思議な転生経験が夢だったような気がしてくる。そして、これからマリアが死んでしまうことなど本当に起きるのだろうかとまで思ってしまいそうだ。だが、もうすぐだ。次の宿場町だ。
「どうすりゃいいんだ。どうすりゃ運命を変えられるんだ…」
彼は一生懸命考えていた。
最悪の運命を変える手立てを。
ジョーは頭を抱えて思い悩んだ。
(何か…何かないか…)
「………」
髪の毛をガシガシとしていたジョーの動きが止まった。何か手立てを考えついたのか。
「そうか…記憶にある自分の言動と違うことをすりゃいいんじゃねぇか?」
たちまち彼の目が輝いた。
「そうだ、そうに違いねえぞ!」
その時、ちょうど水を汲みに行っていたマリアが戻ってきた。
何か叫んでいるジョーに「どうしたの?」と声をかける。
「マリア、引き返すぞ」
「えっ?」
慌てるマリアに構わず、ジョーはすっくと立ち上がると、マリアの手を取り、そのまま歩き出した。
「ちょっ…ちょっとジョー?」
「とにかく俺についてこい」
「え?」
「ついてくればいいんだよっ」
「……うん、わかった…けど、急にどうしたの? これからどこにいくの?」
ズンズン歩き出したジョーに困惑した声でマリアは聞いた。
「どこでもいい。このまま別の宿場町に行くぞ」
勝手気ままな旅であるから、それは別にどこの宿場町でもいいわけだが、マリアとしてはここ数日の彼の言動に戸惑ってもいた。何だか今まで一緒に旅していた彼とは違うような気がして。ただ、それでも一方ではやはり彼は彼だという思いはある。まるでちょっとよそ見をしている隙に、彼だけが急速に頼りがいのある大人になったかのように感じたのだ。
(ジョー…)
マリアはジョーの横顔をそっと見つめた。
やはり変わった。
彼は今までの彼ではない。
ますます愛おしいと彼女は思った。
そう思って彼女は顔を赤らめた。
立ち寄るはずだった宿場町から少し離れた場所にあるその宿場町は、ここら辺でも有名な温泉地だった。長逗留する人々が多い町として観光などで栄えている。そのため、人々の行き来が多く、この辺の宿場町でも一番大きな町でもあった。大通りには様々な土産物屋や飯屋や宿屋が並び、とても活気づいた雰囲気が通りを歩く二人にも伝わってきていた。
「とても活気づいた町だわね」
「そうだな」
「あたしたちの生まれた町みたい」
「そうだな」
「みんな元気かなあ」
「………」
難しそうな顔になったジョーをマリアは横目で見る。
跡目争いになることを危惧して出奔した彼であったので、生まれ故郷のことを思いだすことは辛いことだろう。
すべてを兄に託したとはいえ、彼本人も国を心から愛していたことは国にいた頃からマリアも気づいていた。恐らく、できれば兄の右腕として国のためにつくしたいと思っていたに違いない。だが、彼を信奉する派と兄を信奉する派との争いはどうすることもできず、互いに一緒にいることで争いは絶えないことは火を見るより明らか。彼は出奔するしかなかった。それはもう断腸の思いだったろう。
マリアはジョーの眉間の縦皺を取り除くべく、つとめて明るく言った。
「あ、あの土産物屋さん、入ってみない?」
ジョーはノロノロと顔を上げ見やる。
「土産物屋か…」
その時、何か思いついたのか彼の目が輝いた。
「そうか、そういうのも手かもな」
「え? 何か言った?」
マリアが訝しそうに聞いてきた。
「いや、なんでもない。入るぞ」
ジョーは先に立って店に入っていった。
店の中はそれほど広くなく、様々な品々が並んでいるせいで狭苦しく感じられた。今はジョーたちだけでなく、他にも何人かの客が品物を見たりして店の主人相手に品物についての説明を聞いている者もいた。
「わあ、なんだかいろいろな物があるわねえ」
マリアの楽しそうな様子を見て、彼女も女性なんだなと再確認をする。
ジョーはそんな彼女を目を細めて見ていた。
「これもステキねえ」
彼女が顔を近づけて見ていたのはこの国だけしか採掘ができない鉱物を使って作った宝飾品などが陳列されていた。この鉱物は採掘が制限されていて、本来なら特別な剣を作るためだけに使われるのだが、剣を作り出す過程で出るクズを使って魔除けの宝飾品を作って土産物として売る者もいた。もちろん、それはちゃんとした許可を貰って、正規の取引での仕入れだった。この土産物屋も、入り口の所に許可証を掲げていたから、ちゃんとした店であることがわかる。
マリアが見ている宝飾品は様々で、ネックレスや指輪、イヤリングなどといった女性が喜びそうなもの、他には燭台や宝石箱、ランプといったものなどが並べられている。大きければ大きいほど値段は張る。それだけ材料となる鉱物の量が増えるからだ。
「…………」
ジョーはそれらを眺めていて、その中で大振りの金細工に青い鉱石がはまったペンダントを見つけた。それを見ていて(そういえばそんなこともあったな)と思い出す。
どこの世界だったか、それともこの世界のもっと遠い昔のことだったか、とある王国に聖女と言われる歌姫がいて、その歌姫は禁断の恋に身を投じ、その恋人にたった一度だけプレゼントされたのが青いペンダントだった。そして、そのペンダントにジョーは転生し、その持ち主である歌姫は後に非業の死を遂げた。そう、その時の歌姫が転生したマリアだったのだ。そのせいで本来の恋人たちは悲しい別れを経験してしまった。あの時のことを思い出すと本当に心が痛む。自分たちに関わったばかりに、あんなことになってしまって。もちろん、それはジョーがそう思うだけであり、たとえジョーが関わらなくても二人の運命は変わらなかったのかもしれない。それでも、ジョーは自分がそのペンダントに転生したことを心から申し訳なく思った。
(あの時、初めて俺は自分の愚かさを思い知ったように思う)
己のわがままで他人の運命さえも変えてしまっていることの恐ろしさを知った。
本当の意味での転生することの恐ろしさ、虚しさを思い知ったのだ。
と、その時、ジョーはひとつの品物に惹かれた。
「あ、あれもいいわねえ」
マリアが店の奥にあるマントに惹かれ、そちらに行ってしまったのを見届け、ジョーは宝飾品の中からひとつの品物を取り、それをマリアに気づかれないように店主に持っていき、代金を払って包んでもらった。
そして、その後、土産物屋を出てから近くの飯屋に入った。
ジョーはさっと店内を見回した。見覚えのある人間の有無を確認する。
店内には子供連れの夫婦と老人が一人、何人かの商人風の男達がいる。見た感じでは普通の人たちで、何か問題を起こしそうな感じではない。穏やかな空気が店内には満ちていた。
ジョーはホッとして、マリアと一緒に席に着いた。
これで、この店を出るまでに以前のようなトラブルが起きなければ、運命から逃れられたということになる。
そうであってほしい。
ジョーは運ばれてきた定食を食べながら心から祈った。
それからしばらくして二人は何事もなく飯屋を後にした。
心配していたようなトラブルもなく、飯屋にいる間中、緊張していたジョーであったが、今は歩きながらのびをするくらいにホッとしていた。
これで運命から逃れられる。
マリアと二人でいつまでも暮らせるんだ。
そう思ったジョーはマリアに声をかけた。
「マリア」
「なあに?」
「おめーに渡したい物があるんだ」
「あら、何かしら」
「ちょっとそこで休憩にしよう」
ジョーは村から出て少し離れた場所の遺跡にマリアを連れてきた。
その場所は石造りの神殿跡で、はるか昔にこのあたりを統べていた神を祀るために作られた物だと聞く。それをジョーは父王から聞いたことがあったのだ。だが、それを知る者はあまりいない。代々王族だけが伝えてきた逸話であり、その神は後に邪神となったために、この場所も誰も近づく者もいなくなり、話自体も人々から忘れ去られていくことになったからだ。
彼は懐に入れたものに手をやった。そんな場所でこの品物を渡すのは多少ためらいもあったが、それでも早めに渡して、さらに幸運を強めておこうと思ったのだ。
枯れた倒木に二人は座る。ジョーは心持ち緊張をしている。それがマリアにも伝わったのか、彼女も心なしかそわそわしだした。こんな大真面目な顔をした彼は初めてだったからだ。
「えーと…これ、やる」
ぶっきらぼうにそう言うと、ジョーは懐から包みを取り出し、マリアに渡した。
「え、なに、これ」
「さっき、土産物屋で見つけた。おめーに似合いそうだなって思って」
「え…」
マリアは目をまん丸くさせてジョーの横顔を見詰めた。
彼は真っ赤になっていた。
それを見たマリアも自分の顔が熱くなっていくのを感じた。
「あ、開けてもいい?」
「おう」
紙袋をガサガサ言わせながら開く。中から小さな箱が出てきた。それを開くとそこには指輪が入っていた。銀色の少し太めのリングで、どちらかというと男性用な指輪だった。だが、ジョーとしてはこういうものにあまり興味がなかったので、自分の好みで決めたものだったのだ。
「これ…」
マリアはどんなものでも自分のためにジョーが買ってくれたということが嬉しかった。なので、品物については何も感想は言わなかった。ただ、照れ臭かったこともあり、喜んでいる風を見せることができず、声音にもそれが出てしまったようだ。
「もーなに似合わないことしてんのよ」
「るせー。いらないんなら返せよっ」
「やーだ。いちお、もらっとく」
「なんだよ、それ」
マリアは急いでもらったものを懐にしまった。
(何だよ、つけねーのかよ)
その様子を見たジョーは少し不機嫌になった。
せっかく、指にはめてもらおうと思って買ったのに、しまうのかよ、と。女にとって指輪ってもらって嬉しいもんだと思ってたのに、ジョーは(女ってやつはほんっとよくわかんねーぜっ)と心で悪態をついた。
その後、何事もなく次の宿場町につき、二人は宿に入った。野宿とは違い、二人は別々の部屋を取った。相部屋ではなく、一人部屋を取る。それぞれの部屋におさまった後に、二人は階下の食堂で一緒に食事をとった。ジョーは一応、食堂内を一瞥する。見知った顔がないかどうかを確認する。あれから、人々が集まる場所では、どうしても人の顔を確認する癖ができてしまったようだ。それもしかたないことだろう。何が起きるかわからないからだ。
(もうすぐだ)
彼は思う。
もうすぐだ。もうすぐで「その時」がくる。
おそらく「その時」が過ぎてもマリアが生きていれば、運命を変えられたということなんだろう、と、根拠のないことを思う。
誰かにそう言われたわけではない。
ジョーが勝手にそう思っているだけだ。
あの「助けてやろう」と言っていたマリーとか言う神なのか悪魔なのかわからない存在もあれから出てくることもなく、ただの想像でしかない。
(頼む。このまま無事に過ぎてほしい)
彼は祈るように両手を握りしめた。
すると、その握りしめた手にマリアが手を置く。
「ジョー、どうしたの?」
「なんでもねーよ」
「でも…」
「ちょっとな、思い出したことがあってよ…」
彼は言葉を切る。とっさに出てきた言葉は「兄上は元気かな、と思って…」だった。
そう言ってからジョーは少し驚いた。
今までほとんど思い出すこともなかった国のことや兄王のこと、優しい民のこと、親身になってくれた城の従者たち、そういった人々の顔などがぶわっと突然思い出されて、めまいがしそうになった。
ああ、自分はそれほどあの国を想っているのだな、と。
できれば自分も兄と一緒に国を支えていきたかった。
あの美しくて優しい国を。
王妃のせいでめちゃくちゃになってしまった国だったが、それを何も言わずに引き受けてくれた兄上。その兄のもとから自分は逃げ出してしまったのだ。そう、どう考えても自分の行動は逃げでしかない。跡目争いでみんなを巻き込みたくないというのは言い訳だ。
「俺は…」
言葉につまる。
どう言えばいいんだ。この想いを。
長い間、旅をしてきた。自分の中での長い間ではあるのだが。
その長きに渡る転生人生で、自分も確かに成長したと、ジョーは思う。
その場所場所で、偉そうなことを言い続けてきた。それは、自分の体験から出てきた確かな言葉ではあった。
だが、それらを自分の世界で達成しなくては、本当の言葉とは言えない。
「俺は…国に帰りたい」
「え…」
マリアの驚く顔が見える。
「マリア、俺、自分の国を自分の手で守りたいんだよ」
「そう…」
そして、マリアも様々な思いが心を駆け巡るのを感じた。
彼のその気持ちもわからないではない。
ジョーの性格を思えば、いずれこんな風になるだろうというのは心のどこかで感じていた。
ひねくれている彼ではあったが、人一倍正義感の強い男なのだから、自分の義務を投げ出すことができないだろう、と。すべてを唯一人の肉親である兄王に押し付けることはできなくなるんだろうな、ということも。だから、彼の気持ちを尊重したいとマリアも思う。だがしかし、それをすれば自分はもう彼の傍にいられなくなる。
(今のままならずっと彼と一緒にいられる)
彼が王族から抜けている今なら、いつか彼と添い遂げることもできるだろう。だが、彼が王族に戻るとなれば、自分は一介の軍人の娘でしかなく、彼に相応しい人間ではない。彼はいずれどこかの国の姫君と一緒になるだろう。そう思うと、心が張り裂けそうになる。そうは言ってもマリアは己の気持ちより愛する者の気持ちを優先させる、そんな女だった。なので、彼女は血を吐く思いで言うしかない。
「国に戻りましょう」
「え…マリア?」
「きっと国王様もお待ちになっていると思うの。だから、ね、戻りましょう?」
「マリア……」
その夜、二人はそれぞれの部屋で、眠れぬ夜を過ごすことになる。
国に帰る決心をしたジョーであったが、考えることは国のことや兄のことではなく、やはりマリアのことだった。彼は、これできっと最悪の運命から逃れられたと思い、ならば、国に戻る前に彼女にきちんと自分の気持ちを告げて、戻った暁には彼女を妻に迎えようと心に決めていた。
「とはいえ、これからが正念場だぞ」
一方、マリアはというと、同じくジョーのことを考えて眠れていなかった。決心したとはいえ、やはり、自分の気持ちを抑えきることができそうにないかもと思い、心が切り裂かれそうな思いをしていた。たとえ、添い遂げることはできなくても、国に戻る前に気持ちを聞いてもらいたい。彼女はジョーにもらった指輪を取り出し、両手で握りしめた。
「あたしの気持ちに幸あれ」
そして、あくる日、二人は身支度を整えると宿を出た。
とぼとぼと歩く二人の間には重苦しい空気が漂っていた。二人は、自分たちの気持ちを告げる時を狙っていた。その緊迫した雰囲気が二人の間に流れ、二人ともその雰囲気に飲まれそうになっていたのだ。
最初にその空気を破ったのがジョーだった。
「マリア、ちょっと話がある」
そのジョーの目がマリアの手に注がれた。
(指輪、やっぱりつけてくれねーのか)
マリアの指には彼女に贈ったはずの指輪はつけられてなかった。それを見て少々ガッカリした彼であったが、それはそれ、その気持ちはいったん下げて、まずはちゃんと自分の気持ちを告げてからだと思った。
「え…な、なにかしら?」
マリアはマリアで、自分の気持ちを早く伝えなければという気持ちでいっぱいいっぱいになっていた。緊張でガチガチになっていて、ジョーが自分に何を言うつもりであるかなど考える余裕などなかった。
ジョーはマリアの正面に回ると両手を彼女に肩に置いた。
「マリア、俺は……」
と、その時、ジョーの表情が瞬く間に険しくなった。それはマリアも同じだった。
いつの間にか、周りを数人の男達に囲まれていた。いかにもならず者といった感じの男達で、ボロをまとったみすぼらしい格好をしている。いわゆる旅人を狙っては金品を強奪する輩なのだろう。だが、ジョーは見逃さなかった。たとえ何百年と時が経っていたとしても忘れるはずがないその面々を。降りしきる雨の中、自分たちを襲った男達。そして、その一人は紛れもなくマリアを非情にも切り捨てた。忘れるものか。
しかし、あの時とは違う。あの時の奴らとはトラブルがあった。だから、そのことが原因で襲われたはず。しかし、今回はそうじゃない。今まで何の接点もなかった。それこそいきなりわいて出てきたのだ。
(違う行動をしたとしても避けられねえってことなのかよ)
ジョーはゆっくり剣を構える。
やはり運命は変えられないということなのか。
ジョーは隣のマリアを見る。
彼女もまた細身の剣を構えていた。
(いや、そうじゃねえ。あんときと今では状況が違う)
そう、そうなのだ。
前の時は油断が命取りになった。己の驕りで遅れを取った。だが、今回は違う。全力で自分の持てる力でもって戦う。そこには驕りも油断もない。勝てる。きっと変えられるはずだ。と、ジョーがそう思った時、男達のうちの一人が剣を構えながら一歩前に出た。
「ジョーグフリート王子と見受けられる。相違ないか」
身なりに似合わぬ喋り方で男が言う。
「それがどうした。おめーら何モンだ」
「そうとわかれば我等は貴殿の御命頂戴つかまつる」
「なっ…?」
一瞬の遅れ。しまった。またしても、と思ったジョーだったが、身体は勝手に動いていた。
先程の男が振りかぶって切りかかってくるのを剣で受け止める。ガキッという音が響く。と、同時に他の男達も動き出す。すべてがジョーに向って。マリアには目もくれていない。だが、マリアはジョーを守るために、自ら男たちの前に飛び込んでいく。
「あんたたちにジョーは切らせない!」
男達はマリアに目を向けた。この女を倒さないと厄介だと思ったのだろう。男達はマリアにも切りかかってきた。
しぱらく攻防戦が繰り広げられた。
ジョーは苦戦していた。圧倒的な強さでもって相手を倒すということができないでいた。
剣を交えてすぐに、男達が見た目通りのならずどもではなく、恐ろしく訓練された剣士であることに気づいたからだ。一対一なら互角で戦えただろう。ジョーと戦っている男だけであれば、何とかギリギリで倒す事もできたかもしれない。だが、マリアが相手にしている三人の男達もなかなかの使い手らしく、マリアも苦戦しているようだった。いや、むしろ押されている。それが気になって、目の前の敵に集中できない。
と、その時。
「ジョーグフリート様!」
ジョーを呼ぶ大きな声が上がった。
その場にいる全ての者が、その声の主に目を向ける。だが、ジョーの相手であった男が、ジョーの気がそれたのを見逃さなかった。
「でぇぇいっ!」
男が振りかぶってジョーに切りかかった。
しまったと思った時には時すでに遅く、最悪の状況に急展開したのだ。
そのままではまたあの悪夢の再来だ。
ジョーの目の前で再び繰り広げられるその悪夢。
叫ぶマリアの声、そのマリアがジョーの元に走り寄る、切りかかる男の姿、その剣先がマリアの胸を捉えるところ、すべてがまるでスローモーションのような情景でジョーの目に焼き付いた。
なんということだ。
またしてもマリアを救うことはできなかったのか。
運命は変えられないのか。
「マリアアアアアア!」
ジョーの悲痛な声が上がる。
彼の目は男の剣がマリアの胸に刺さっているのに釘づけになってしまった。
だが、呆然としている場合ではない。
マリアを刺した男はすぐにジョーに再び切りかかってきた。
ジョーも果敢に応戦する。しかも、その場に倒れたマリアの姿を見て、頭に血が上っていたせいもあり、猛然と男に切りかかる。
そして、何度か剣を交えてやっと男を倒すと他の男たちも倒そうと周りを見回した。
すると、他の男たちはすでに倒されていた。
そう、ジョーを呼んだあの声の主に。
「お前はっ…じいかっ!」
「はっ、ジョーグフリート様」
白髪交じりの男が膝をついていた。
男はジョーの教育係だった。名前はウルフガング。彼はブルーゲイル侯爵としての名とともに、その昔、王立軍を率いる大将軍でもあった伝説の人物でもあった。だが彼は、ジョーが生まれた時に軍は若者に後を任せてジョーの教育係へと転身したのだ。そして、その傍ら、軍でも剣技の指導などに携わっていた。
なぜ、国にいるはずの彼がここにいるのかは気になるところだが、それよりもジョーにとって今はマリアのことだった。
またしても彼女を救うことができなかった。
ジョーは横たわるマリアに駆け寄る。
「マリ…ア…」
ジョーの声は震えていた。
だが、彼女の口元が「うう…」という苦しそうな声を発し、彼女がまだ死んではいないことを教えてくれた。
「マリア!」
ジョーは叫ぶと彼女の身体を抱き起した。
マリアがゆっくりと目を開ける。
「ジョー?……うっ」
彼女は胸を押さえた。剣が刺さったところだ。
「痛いのか? 大丈夫か?」
ジョーはオロオロしている。その姿は普段の彼とは違い、まるで母を心配する幼気な子供のようだった。今にも泣きそうな表情をしている。
「ジョー」
そんな彼を苦笑しつつ見つめ「大丈夫よ」とマリアは告げると身体を起こして元気そうにニッコリ笑って見せた。
「でも、おめーの胸に奴の剣先が刺さるのを俺は見た。本当に大丈夫か? 本当は重傷なんじゃねえのか?」
「うん…あたしももうダメだと思った。けどね…これ…」
彼女は胸元から何かを取り出した。
「あ…それは…」
指輪だった。
ジョーがマリアにプレゼントしたあの指輪。
彼女は指にはめずにチェーンをつけて首に下げていたのだ。その指輪がちょうど胸に刺さった剣先を食い止めたのだ。
なんという偶然。そんなこともあるのだ。これを奇跡と言わずしてなんと言おう。
ジョーはこの時ほど神に感謝しようと思ったことはなかった。もちろん、その神はあのマリーではないことは確かだったのだが。
「指にはめてなかったから気に入らないのかと思ってたぜ」
照れ隠しにジョーはそう言った。
「ううん。すごく嬉しかった。でも恥ずかしくてさ、指になんてはめられなかったから、だからネックレスにして身に着けてたの」
「マリア…」
「あのね、ジョー」
マリアの口調に、さすがのジョーも何かを察した。なので、慌てて彼も口を開いた。
「オレ、マリアが好きだ」
「!」
いきなりの告白にマリアの目が大きく見開かれる。
「お前のこと愛してる」
「ジョー」
マリアの目から涙が流れ出した。
「あたしも…あたしもジョーが好き。ずっと子供の頃から好きだった」
そして、二人はがっしりと抱き合い、二人の世界に突入しかけた、その時。
「あのー若様」
その声にはっとしてジョーとマリアは互いの身体から離れた。
そうだった。今、ここには二人だけでいるわけじゃなかった。
改めてジョーは声の主に向き合う。
「えーと、こいつはマリアだ」
聞かれてもいないのにジョーはマリアを紹介する。
「ライアンの娘じゃな」
「え…父を知っているのですか」
マリアは顔を上げてウルフガングを見つめた。
すると、老人は目を細めて懐かしそうに語った。
「もちろん。あやつはワシが最も信頼している男だ。お前が生まれた時のことはよく覚えておる。実はの、お前さんにマリアと名付けたのはワシなんじゃよ」
「そうだったんですか」
そんな彼を見て、マリアもポツリポツリと父親のことを話し出した。
「……父はあまり家に帰ってくることがなかったので…城で軍人として働いているということくらいしか知りませんでした。母はあたしが幼い頃に亡くなってて、だから、母から父の仕事のことを聞くこともなかったんです。父は、時々、あたしの様子を見に来てくれることもあったけど、ほとんど仕事のことは話してくれませんでしたから。でも、ジョーのことはよく話してくれました。ジョーは国王になるべくして生まれた方だっていうのが口癖でした」
「ライアンはジョーグフリート様を己の息子のようにかわいがっていたからのお」
一介の町人の息子だったライアンは子供の頃から剣術が好きで、将来は職業軍人になりたいと思っていた。ただ、生まれがただの町人の息子であり、貴族の生まれではないので士官学校には入れない。その一生は一介の兵卒としての将来しかない。だが、この国の王立軍は貴族以外にも門戸を広げており、年に一度、町人たちから試験を受けさせて優秀な人材がいた場合に特例でその者を士官学校の入学を許していた。そして、ライアンもまたその試験に合格し、晴れて士官への道を約束されたのだった。
ウルフガングがライアンに出会ったのは、そんな折りだった。
「あの時のあの若者がここまで這い上がってくるのを見守るのは実に楽しいことじゃった」
ウルフガングは目を閉じ、その日のことを思い出す。
士官学校への視察として、大将であるブルーゲイル侯爵のウルフガングは、様々な小隊、中隊を見学していた。その中で小隊の中で訓練するライアンを見つけた。当時は町人にも門戸を広げていたとはいえ、ライアンのように町人から士官学校に入ってくる者はそれほどいず、ライアンを入れて数名ほどしかいなかった。そのため、他の貴族の子息たちが圧倒的に多いということもあり、ライアンたちはそういった高慢ちきな坊ちゃんたちに苛められてもいた。もちろん、表立ってのものではなく裏で陰湿にといった感じだったのだか、さすが町人から軍人にと思うだけあって、ライアンに限らず一般から入学してきた男たちは果敢に応戦し、殴り合いの喧嘩の果てに仲良くなっていったようだった。そして、それをまとめ上げていたのがライアンだったのだ。いつのまにかライアンは彼らの中でもリーダー的な存在となっていった。そういった様子を視察に行くたびに見てきたウルフガングは、良い逸材を見つけたと言わんばかりに、ライアンに目をかけていくことになる。ライアンもまたウルフガングに目をかけられたことによって、彼を師と仰ぎ、ウルフガングに心酔していくことになる。
「そりゃあ、マリアの父ちゃんが心酔するのもわかるぜ。ブルーゲイル侯爵ウルフガングと言えば、蒼き狼という異名を持って近隣諸国から恐れられた武将だからなあ」
誇らしげにそう言うジョーに対して、ウルフガングはポリポリと頬をかいた。
「今じゃ、蒼き狼改め、白き狼となり果てておるがのぉ」
そう言うと、マリアにパチッとウィンクして見せる。
その姿は勇猛な武将だった彼が、それだけでなく、ユーモアの持ち主であることを示していた。いかに彼の気質がジョーに受け継がれたかがよくわかる気がした。
「それに、今じゃあ、マリアの父ちゃんは閃光の獅子との異名を持つ立派な戦士だ」
ジョーがマリアに微笑みかける。
「彼の称号であるライトニングからつけられたものだが、彼の戦いはその名にふさわしく稲妻のように速いと言われている。俺もまだ彼の戦いは見たことがねえが」
その後、ライアンはめきめきと頭角を現し、とある戦いで功績を上げた褒美として騎士の称号を授けられて下級貴族となり、一個小隊を任される小隊長に就任した。そして、その時にライトニングという名を国王から授けられた。野心のある者ならば、己の身分をもっと上げるために、さらに身分の高い貴族の娘を娶ることで易々と高い地位を得る事もあっただろうが、彼はその時にはすでにマリアの母親と結婚していたので、そういった方法での地位獲得はできなかった。もちろん、彼はそのようなことはまったく考えておらず、ただ純粋に一介の軍人として国の為に、そして、敬愛するウルフガングの為に戦うだけだと心に決めていた。そういったストイックな姿勢は人々の好感を呼び、彼は軍でも、そして町中でも人気を博していたのだ。
「マリアよ、お前は本当にライアンに似ておるよ。気質がな。容姿は美人だった母親にそっくりじゃ」
「そ、そうですか?」
マリアは頬を染めた。
「あの、それで、父は元気でしょうか…というか、それよりもどうして侯爵様がここにいらっしゃるのでしょうか」
「そうだぜ。じいがなんでここにいるんだよ。あんたは兄上の国政を助けてるんじゃなかったのか」
「それが…」
ウルフガングの口調は重い。
それは、今、余程の事が起きているのだと感じさせるに足りた。
「先程の暴漢は国王が送った刺客だったんじゃよ」
「なんだって?」
ジョーの表情が険しくなった。
「あの兄上が?」
ウルフガングの話によると、ジョーが国を出奔した後すぐにジョーの腹違いの兄であるラディッシュは前国王暗殺の罪で自分の母親であるリコッタ王妃を処刑した。それはジョーも風の便りに聞いていたことだ。だが、その後のことはジョーの耳には届いていなかった。
「王は母君の故郷である隣国の内乱に介入しようとしたのじゃよ」
実はウルフガングは前国王フェンネルのもとに輿入れしてきた隣国の姫をどうしても信用することができず、信頼できるライアンに隠密行動をさせていたのだ。ライアンは敬愛するかつての将軍の命で、レジスタンス行動を率先して行い、情報収集に徹した。そのおかげで、隣国パルメザンのこと、リコッタ王妃のこと、そして、その王妃の息子であるラディッシュのことがわかっていったのである。
昔からローリエ国と隣国であるパルメザン国は同盟国であり、ジョーの父である前ローリエ国王フェンネルと隣国の現国王ゴーダとは旧知の仲であった。ゴーダ王も立派な王だった。その王には弟と妹がおり、兄に似ず、弟チェダーと妹リコッタは利己的で自己中心的な性格をしていた。弟は兄に嫉妬し、兄が幼い頃から帝王学を学んでいるのを快く思っていなかった。いつか自分が王になるのだと心に決めていた。
そして、リコッタが隣国に嫁ぐ話が決まった時に、それを実行することにしたのだ。彼女は嫁ぐことを嫌がっていたが、それを彼は自分の計画に加担させることによって「あの国を思うままに操ることができるのだぞ」と言葉巧みに丸め込み、納得させた。
フェンネル王は立派な人物ではあったが、己の主張を強く出せない性格でもあり、身分の低いジョーの母親と恋仲になってはいても、それを妻にするという強い意志を保てなかった。隣国の王が同盟を築きたい、そのために妹姫を嫁がせたいと申し出てきたのをどうしても断れず、王は承諾してしまった。もちろん、その申し出を受けなかったとしてもあの悪魔のような男チェダーから逃れることはできなかっただろう。だが、リコッタが嫁いできたことによって、国の崩壊が早まったことはどうしても否めない。
「ライアンの調査によると、確かにフェンネル王に毒を持ったのはリコッタ王妃であること、そして、その王妃を処刑したラディッシュ様はご自分の名声を確実のものにするために母君を無情にも切り捨てたのだということじゃ」
「なんと…まさかあの兄上が…」
「そして、その後、リコッタ王妃が処刑されたことにより、チェダーは渋るゴーダ王を説き伏せ、今まさに軍を率いてローリエ国に攻め入ろうとしているのですじゃ。ライアンは今各地の領主に此度の暴挙に軍を挙げるよう報せに向っております。ただ、ジョーグフリート様が立ち上がらないと領主たちもなかなか動こうとはせず、なので、どうか貴方様には国にお戻り願いたい。如何なものか」
「それは勿論」
「とすれば、マリアよ。そなたに頼みたいことがある」
ウルフガングがマリアに向き直った。
「はい、なんでしょうか」
「そなたには父君ライアンにジョーグフリート様が御帰還されることを知らせに行ってほしい。その事が各地の領主に伝われば、容易に参戦してくれよう。頼んだぞ」
「はいっ、わかりました!」
それからマリアは急ぎライアンを追うためにジョーグフリートのもとを立った。その時にジョーはマリアをしっかと抱きしめ、互いに無事でいようと誓い合った。
ジョーは一抹の不安を拭えなかったが、ここから先はもう自分ではどうすることもできないことも十分わかっていたので、とにかく心の中で祈るしかなかった。
(ここからはもう俺たちの運を天に祈るしかないんだ)
大丈夫。きっと何とかなる。自分はそれだけの経験をしてきたんだ。あとはもう自分の感を信じて突き進むしかない。
「ジョーグフリート様」
ウルフガングは教え子の精悍な顔を見つめ、なんだか以前よりもっと頼もしくなったと感じた。
(まるで百回も苦難を乗り越えてきた勇猛な戦士のような…)
「じい、行くぞ」
その戦士が口を開く。ウルフガングは武者震いをするかのごとく身体を震わせ、答えた。
「はっ、ジョーグフリート様」
その後、ジョーとウルフガングは城に帰還する途中、通り過ぎる領地ごとに領主たちに声をかけ、彼らの軍勢を従えて城を目指した。
ジョーたちの軍勢はかなりの人数に膨れあがっていた。これだけの軍勢ともなるとなかなか規律も守られないこともある。軍隊がそれほど頻繁に戦争に参戦することもないこの時代でもあったので、それぞれの軍隊の軍人たちも平和慣れしているということもあり、どうしてもだらけてきてしまうこともあるからだ。だが、それでもジョーの的確な指示により、着々と城への道のりを進んでいた。そういった姿を見るにつけ、各軍隊の長たちは「やはり国王はジョーグフリート様で間違いない」と確信していくことになる。
ところが、さすがに進軍を手をこまねいて見ているはずはないラディッシュの配下の者たちも秘密裏に動いていたのだ。
城下町近くの山間の狭い道を進軍している時のこと。もうすぐで城へとたどり着くという場所でもあったので、それまでに目立った妨害がなかったこともあり、恐らくここらあたりで敵軍の攻撃があるものと誰しもが思っていた。塊の大軍としては進めず、細長い隊列で進んでいく中、慎重に進んでいたのだが、突然、地鳴りとともに土砂崩れが起こった。
「ジョーグフリート様、危ないっ!」
その声とともに、近くにいた年配の兵士がジョーを突飛ばした。そして、その兵士は転がってきた大きな岩に潰され、何人かも土砂とともに崖の下へと流されていく。
「ジョーグフリート様っ!」
ウルフガングの声にジョーは振り返る。だが、声の主は巨大な岩の向こうから聞こえるだけで姿が見えない。山間の道でもある。左にそそり立つ山が、右は崖が、道は狭く、その道も先程の土砂でふさがれてしまい、後退できないようになってしまった。ジョーは隊列の先頭の方にいたので、分断された軍隊のほとんどが岩の向こうで立ち往生してしまうことになる。進める軍は数えるくらいしかいないような状態だった。
「じいっ、心配するな。とりあえず俺はこの人数で先に進む。お前たちは迂回できる場所まで後退して、急ぎ俺たちの後を追ってくれ」
「了解しました」
その後、ジョーたちは崖のある道を抜け、すり鉢のような窪地の広場にたどりついた。このような場所でもし敵軍に囲まれたとしたら、本来の軍勢でも窮地に陥るだろう。ましてや今の少数な軍勢では最悪だ。だが、矢張り、運命の女神はそうやすやすとジョーに微笑んではくれないようだった。
「ジョーグフリート様っ!」
近くにいた兵士が叫ぶ。
前方から敵軍がこちらに向かってくるのが見えた。
見ればそれほどの大軍というわけではない斥候隊ともいうべきもののようだった。だが、それでも今のジョーたちには荷が重い人数だった。
(だが、それでも行くしかない)
大軍でないことを感謝すべきだと前向きに考える。
だが、その気持ちをも踏みにじる出来事が次の瞬間起きた。
「ジョーグフリート様っ! 大変ですっ! あれを…」
鬼気迫る声にジョーが顔を上げた。
そのジョーの視線の向こうはすり鉢状の丘の先に見える土煙だった。そのもうもうたる煙の向こうにもの凄い数の人々がこちらに向かっているのが見える。
(まさか、兄上の軍勢が加勢にきたのかっ!)
それは充分に考えられた。場所もすでに国内に入ろうとした城下町近くだ。ここからだと城が近い。もはやここまでか、そうジョーが考えたその時。
「おおおおおーーー! ジョーグフリート様をお助けするのだーーーー!」
丘の上から怒号が響き渡る。
そして、急な坂を駆け下りてくる軍勢。その中で先頭を馬に乗って危険な坂を駆け下りてくる大柄な男とともに駆け下りてくるのは、見間違えようもない愛するその人だった。
「なんとっ! あのような急な坂を馬で駆け下りるとはっ! 侮りがたしっ、ライアン親子!」
誰かの驚愕の声が響き渡る。だが、その声も駆け下りてくる味方の軍勢のもたらす轟音にかき消されていく。
ジョーはというと、この光景に感動していた。
そんな状況より少し前。
ライアンとマリア親子は騎乗で先を急いでいた。斥候兵の報せで、ジョーたちの軍勢が崖崩れで分断され、さらに城から大軍がこちらに向かっていると聞き及ぶと、ライアンたちは自分たちの軍を急がせることにしたのだ。
そして、ようやくジョーたちのいる場所までやってきた。ライアンたちは山間の崖下のジョーたちを見下ろす丘の頂上に着く。一番早く辿りつけるのはこのルートしかないと思ったからだ。だが、そうなると、この崖を駆け下りなければならない。それは無謀というものだ。歩きの歩兵でさえも下りるのは難しい断崖絶壁だ。馬に乗ったまま、この崖を降りるのは命を捨てるようなものだ。
「ライアン様、ここを下りるのは無理です。迂回して敵軍の後ろに回り、奇襲をかけてはいかがでしょう」
側近の者がライアンにそう進言する。
「ここはブルブル越えと呼ばれた難所でして、ここを下るのは鹿ぐらいなもので、人も馬も通らないと言います。他の道を探した方が確実かと思われます」
「………」
ライアンはするどい眼光を眼下に向ける。
山肌はほとんど草木の生えていない土色で、所々には崩れた跡であろうか、半分埋まったままの岩石などが見え隠れしている。それを足掛かりにして下りることもできよう。だが、埋まり方がしっかりしていなかったとしたら、足をかけたとたんに岩もろとも崩れていくだろう。
しかし、ここで迂回していれば、間に合わない。
たとえ、ここを下ることで多くの兵士が自滅しようとも、ひるむわけにはいかない。ジョーを殺させるわけにはいかないのだ。決して。
ライアンは意を決して叫ぶ。
「鹿は四足、馬も四足、鹿が通って、馬が通れぬはずがない! 通れると強く願えば必ず通れるっ! 皆の者っ、俺に皆の命をくれいっ! いざ、進めえいっ!」
ライアンのその力強い言葉に兵士たちの鬨の声が上がる。
誰も知らなかったが、こういった突拍子もないセリフは別世界で死線を越えてきたジョーが好んで言ったであろうセリフだった。ジョーは知らずライアンを手本にして生き延びてきたのだ。
(なんだか、父さんってジョーみたい)
隣の馬上で父親を見詰めるマリアは思った。
ここ数日のジョーを見ていて、今までずっと一緒に過ごしてきた彼とは違うような気がしてきた。だが、違うといってもジョーはジョーであり、昔からああいった破天荒なところはあったことに違いなかった。ただ、昔は多少卑屈なところがないわけではなかったので、突き抜けた破天荒さはなかったように思う。ところが今のジョーは揺るぎない自信のもと、その破天荒さに磨きがかかったようだ。まさに王者の風格ともいうべきもの。
そんなことを一瞬のうちに思い描いたマリアに父ライアンが声をかける。
「マリア、おまえは迂回路から行け」
「いいえ、あたしもここを下ります」
「だが…」
「とめても無駄です」
「………」
父は娘の決意の固さを感じた。
ゆっくり頷くと「ちゃんとついてこい」とだけ言うと馬を進めた。
そして、二人はジョーのもとへと駆け下りて行ったのだった。
そして、作戦は成功し、ジョーたちは圧勝。ライアンたちの軍勢とともに城へと凱旋を果たした。
ラディッシュ国王は斥候隊の兵たちに拘束され、王に加担していた者たちも同じく捕えられていたので、ジョーたちは大歓声とともに迎え入れられた。
「兄上…」
ジョーは兄のラディッシュの前に立った。
牢に入れられたラディシュは反省するようなそぶりもなく、弟に顔をそむけたまま何も言わなかった。
ジョーは色々と何か言いたいこともあったのだが、この腹違いの兄は何も聞かないぞというオーラを出していて、問い詰めたい気持ちを彼は押しとどめた。そして、ひと言だけ、こう言った。
「あなたは自分のした行為を正しいことだったと思っているのか」
「………」
「兄上」
「私は国王だ。私が正義だ」
ジョーは落胆した。
子供の頃から、あれほど帝王学を学んで正しき王者の道を歩んでいたはずの彼が、どうしてここまで曲がって成長してしまったのか。それは、恐らく母親のせいだったのだろう。親というものはこれほどまでに子に対して絶大な影響力を与えてしまうのだ。何とも恐ろしいことだ。
ジョーは首を振りつつ、牢を後にした。深い絶望の果てに。
その後、ラディッシュは国を危機に陥れた罪で処刑された。同じく、隣の国のパルメザン国の国王は王弟チェダーを謀反の罪で処刑した。パルメザンのゴーダ国王は即位間近のジョーに対して正式に謝罪を申し入れ、それを受理され、これからも互いに強い絆で結ばれることを約束した。
「えっと…ジョー?」
即位式の当日、純白のドレスをまとったマリアがおそるおそるジョーに声をかける。
ジョーもマリア同様、純白の正装で、マリアはため息が出るほど素敵だと思いつつ、言葉続ける。
「あたしなんかでいいの?」
「何が?」
「あたしなんて庶民だし、もっと王妃にふさわしい人がいるんじゃないかと思って」
「俺はおまえしかいらねーんだよ。俺がおまえを選んだんだ。もっと堂々としてろよ」
「でも、いいのかなあ。まるで高貴の欠片もないのに…」
「心配には及ばんぞ」
傍に控えていたウルフガングがマリアに言った。
「我が孫になるマリアのお妃教育はワシに任せろ」
ウルフガングはライアンを養子に迎えた。生涯独り身である彼は後継ぎがいない。なので、自分が侯爵を隠居する時に誰かを養子にしようと思っていたのだ。そこで、かねてから可愛がっていたライアンを新しいブルーゲイル侯爵にするために養子にしたのだ。そうであれば、その娘であるマリアも侯爵の娘ということになり、妃にも相応しい地位となる。それも考えての養子縁組でもあった。
「あたし、がんばりますね」
ウルフガングはこのいつも前向きで元気なマリアがかわいくてしかたなかった。本当の孫のように思うほどだ。
これから、ジョーとマリアでこの国ももっともっと発展していくことだろう。
そんな輝かしい未来をウルフガングは感じていた。
そして、ジョーとマリアは二人で城のバルコニーに出ていく。外には国中の人々が押しかけていた。皆、新しい国王とその王妃となる婚約者のマリアを歓迎して集まっていたのだ。
ジョーは晴々とした気持ちで彼らに手を振る。
空は彼らを祝福したかのように青く輝き、城内では祝砲が響き渡り、城下町では花火が打ち上げられている。国中がお祝いムードで満ちていた。
(あんなに不自由になるからなりたくなかった国王に俺はなる)
ジョーは心の中でそう呟いた。
そう、昔のジョーは自由でいることが何よりも嬉しかった。
腹違いの兄、正統な血筋の兄がちゃんと次期国王として存在し、自分は多少は虐げられていたとはいえ、自由に生きていける。国王の補佐も義母との確執さえなければやってもいいと思っていたが、責任ということから逃れられる地位の自分に、あの頃は満足していた。
だが、図らずも百回転生するという過酷な試練に放り込まれ、その長きに渡る時間を過ごしてきた。その経験がジョーを大人に成長させ、自分が成さねばならないことに気付いた。
隣のマリアに視線を向ける。
(あの辛い経験は無駄ではなかった)
自分は幸せな人間だったのだ。
人に経験できないことを経験し、そして、愛する人もこの手に戻すことができた。
あのままこの世界で生き続けていたら、きっと自分はろくでもない人生を送ったことだろう。
その点では、あの神の男に感謝してもいいとまで思う。
ジョーは再び視線をバルコニー下の人々に戻す。と、その時。
「あ?」
「どうしたの?」
小さく声を上げたジョーにマリアは怪訝そうに聞いた。
「いや…ちょっと人ごみに見知った顔を見たようにな気がしただけだ」
ジョーはもう一度、目を凝らした。
だが、もうあの顔は見えない。
(幻だったか…)
彼が見た幻、それはあの転生人生で一番忘れられないその人の顔だった。
(今この時もその世界は彼のいる時代なのかどうかはわからねえが…)
これより死ぬまで忘れることのできない、親友とまでも思うその人のことを、ジョーは思い出す。彼と過ごしたあの夢のように楽しい時間を。
「なあ、マリア」
「なあに?」
「俺は不思議な体験をしたんだ。とても不思議な。その話を夢物語として寝屋で聞いてくれるか」
「寝屋…」
マリアの顔が真っ赤になる。
「い、いいわよ。聞いてあげるわよ」
「すごく長い話なんだ。すごく、な」
それはとても長い話になることだろう。
だが、ジョーは無性に彼女に聞いて欲しいと思った。
マリアにも関係する話でもあるから。
百の人生を送ってきた自分の数奇な運命を彼女にも知ってもらいたい。
その中でも一番輝いていたあの青い星のひとりの若者との暮らしを。
その青い星、地球の日本で芸能人を生業としている若者──というよりは、今はもう生まれたばかりの子供の若い父親でもある木村薫は、歌番組の収録が終わり、自分の控室までやってきていた。
少し気分は沈んでいる様子だった。
本日もあの歌を歌った。「君を守りたい~約束の言葉」を。
そんなに歌がうまくなく、歌を出しても売れることはなかった彼が、唯一ミリオンセラーを出した歌だった。なので、彼がテレビに出る時は、この歌を歌わされることが多かった。
自分は歌手ではないと思っていた薫だったが、それでもこの歌は自分にとって特別であり、歌わせてもらえるなら何度でもどこででも歌いたいと思っていた。歌えば歌うほど、それだけ一番聞かせたいと思っている人に聞いてもらえる可能性が出てくるのではないかと彼は信じていたからだ。
彼はため息をひとつつくと、控室のドアノブに手をかけた。
「木村薫さん」
声をかけられ薫は振り返った。
そこには明るい琥珀色の髪と瞳の若い外国人が立っていた。
英語など話せない薫は一瞬うろたえたが、すかさずその外国人は流ちょうな日本語で喋り出したのでホッとする。
「はじめまして、薫さん」
「どうも、はじめまして」
だが、すぐにこの青年は誰だろうと首を傾げる。
放送局のこんな場所にいるということは業界人だろうが、こんな有名人は見たことがないし、業界人でも、こんなふうに声をかけられる覚えはなかった。
「ええと、どちらさまでしたっけ。僕はあなたのこと知りませんが」
すると、男はニッコリと微笑むと「ゲクトさんの知り合いですよ」と言ったので、ああ、そうか、彼の知り合いなら納得だなと薫は思った。
「あと、ジョーのことも僕は知ってますよ」
「えっ?」
驚いた。
ジョーが自分の前から消えた後、ゲクトとヒカル以外は誰もジョーのことを覚えている者はいなかったのだ。それなのに、この男はジョーを知っているという。
「それは、どういうことですか?」
だが、薫の質問に男は答えず、驚くべきことを言いきった。
「僕はマリーと言います。ジョーが百回転生をするように仕向けた者ですよ」
薫はマリーを控室に迎え入れた。
「あなたがゲクトさんの言っていた神様ですか」
薫はそう言うと目の前の青年をじっと見つめた。
見た目は普通の外人の男性で、好奇心の塊のようにキラキラと琥珀色の瞳を輝かせている。好感度は良く、誰でもこの男を好きになるのではないかと思わせるほどの好青年だ。とても、ジョーにあんな非情なことをした神とは思えない。
「そうですけどねえ、言っときますけど、僕はそんなに極悪非道な者じゃあないですからねえ」
いや、そういうことは自分で言うもんじゃないでしょ、と、思わず薫は突っ込みたくなった。なんだろう、何となく、ジョーに似てるような気がしないでもない。
「で、その神様が僕に何の用ですか。まさか、僕にも百回転生しろとでも言いにきたんですか」
そう皮肉なことを言った薫だったが、マリーの顔がパアッと輝く。
「それ、いいですねえ。百回生まれ変わったらジョーに会わせてあげる。そう言ったらあなたはどうします?」
「ふざけないでください」
「冗談ですよ、冗談。本気に取らないでくださいよー」
薫はむっとした。
(なんだよ、こいつは)
だが、考えてみれば、付き合いだした当初はジョーもこんな感じで自分に接してきて、いつもムカムカしていたことを思いだす。だから、そう思えばこそ、このマリーという人物も、案外付き合ってみればいい奴なのかもしれない。
とはいえ、マリーはジョーとは違う。それに、ジョーは自分の世界に戻って行ったのだ。何のためにここにいるのか、薫は警戒した。
「それなら、僕に何の用があるんですか」
「そんなに睨まないでくださいよー」
マリーは苦笑した。その様子は傷ついたような表情だった。
「ジョーがあれからどうなったか知りたくありませんか?」
「え?」
「もし、あなたが望むなら、今のジョーを見せてあげること、僕ならできるんですけどねえ」
「…………」
それは、願ってもない申し出だった。だが。
「何の見返りもなく叶えてくれそうにないと思うけど…」
「ええー僕はそこまで非情じゃないですよお」
マリーが心外だと言わんばかりに頬を膨らませた。その様子は本当にこの男が神なのだろうかと思わせるに十分だった。
「まあ、もっとも、姿を見せてあげるくらいしかできませんけどねえ。一応、異世界でもあるんで、あまり接触は望ましくないんですよ。言葉を交わすことはできませんし」
「歌を聞かせることもできないんですか?」
「あの歌ですか。そうですねえ。それはちょっと無理かもしれませんねえ。ただ、歌の存在はお教えできると思いますよ。僕も歌を生業とする者ですから、代わりに僕がジョーに歌って聞かせることはできますからね。それでもいいのなら、請け負いますよ」
それでもいいと思った。
あの歌は今の自分の気持ち、今までの僕らの関係を歌った内容でもあるから、ジョーが聞けばすぐにわかってくれるはず。あの歌にはすべてが盛り込まれているから。あれを聞けば、ジョーならきっと、僕らのことも安心してくれるはずだ。
そういうわけで、薫はマリーの申し出を受けることにした。
ジョーの世界へ、薫はジョーの姿を確認するために、旅立つことにしたのだ。
ということで、薫は今、ジョーの住む世界に立っていた。
「…………」
そこはとても賑わっている町中だった。近くに荘厳な城が立ってる。さしずめここは城下町といったところか。ゲクトから聞いた話ではジョーは王子だということだから、あの城に今はいるかもしれない。
薫の周りを行き交う人々は、まるでファンタジー物語の世界の住人のような服装をしていて、今は自分も似たような恰好をさせられていた。通りかかる人とぶつかることもあったので、自分は見えない存在というわけではないらしい。人々が交わす会話も聞いたこともない外国語で、だが、マリーの采配なのか、意味はわかる。自分も喋れるのかどうかわからないが、試してみる気もなかった。
「早く早く。即位式前のジョーグフリート様と婚約者のマリア様のお姿がお城のバルコニーで見れるのよ」
「ステキよねえ。幼馴染でもあり、庶民でもあるマリア様が王妃になるんだもの。あたしも頑張れば貴族のお嫁さんになれるかもしれないわよね」
「がんばりましょーよ」
薫の立っている横を小走りで遠ざかる娘たちがそう言っているのが聞こえた。
そうか。二人はちゃんと再会することてができたんだな。そして、添い遂げることもできるんだ。
(よかった。ジョーは幸せになるんだ。ほんとによかった)
薫は嬉しくなった。
それから彼は娘たちが向かった方向、城へ向かって歩き出す。
町は本当に活気づいていた。
薫は知らなかったが、前国王の悪政から解き放たれた町と人々が、ジョーという希望を取り戻したおかげで、今は至福の時を迎えたからだ。これでこの国も安泰だという思いが人々に蔓延していたので、その雰囲気が薫にも感じられ、薫自身もウキウキとした気持ちになってきていた。
城に近づくにつれ、人の数は一気に増えた。みんながみんな、もみくちゃになりながらも怒号が飛ぶこともなく、すべての人が楽しそうな笑顔でもみくちゃにされるがままだった。薫も同じく人の波にもみくちゃになりながらも進む。そして、その時はきた。
「おおージョーグフリート様だぞー」
「マリア様もいる」
「お二人ともステキよねえ」
「お似合いだわー」
薫は顔をあげた。
いつのまにか薫は城内の一画に立っていた。そこは広場になっていて、こういった祝い事がある時に城下町の人々のために解放される場所でもあるのだろう。広場を望めるバルコニーには今まさに二人の若い男女が立って手を振っていた。美しい女性の隣に若々しく精悍な顔つきの男性が立ってる。
「あれがジョーグフリート…ジョーなんだ」
薫は感動に胸を震わせた。
いつも自分のことを一番だなんだと言っていたジョーのことを思い出す。
本当に今まで見た誰よりもかっこいい男だ。本人がそう言っていたのも無理もない。もっとも、本当にそうだとしても、そういうことは自分で言うことではないのだが。まあ、ジョーという奴はそういう性格だったんだからしかたないか、と、薫は心で苦笑する。
「!」
その時、ジョーがこっちを見たような気がした。
その瞬間、薫は意識を失った。
意識を失う直前、薫は、ジョーは自分に気付いてくれたろうか、そして、マリーはあの歌をジョーに聞かせてくれるだろうか、と、その瞬間を見たかったなと思いながら気を失っていった。
軽快な音楽とさんざめく正装姿の人々、音楽に合わせて人々は踊っていた。皆、幸せそうに顔を上気させ、楽しそうに笑い、飲み、歌っていた。それを一段高い場所に置かれた立派な椅子に座ったジョーとマリアも嬉しそうにその様子を眺めていた。彼らの中に自分たちもまぎれたいと思っていた二人だが、ウルフガングがそれを諌めた。とりあえず、今回の宴は諸外国の貴族たちも招いてのものだったので、無礼講は慎んでくれとのこと、威厳を持って座っていることを耳にタコができるほど言われた。
だが、ジョーは嬉しそうな表情を浮かべてはいたが、少し不機嫌だった。
もともとこういった威厳だのなんだのから逃れたいと思っていた彼だったので、勢いで国王になったはいいが、少しだけそれを後悔してもいた。もっとも、それは思うだけで、自分しか国王になる者はいないので、運命は受け入れる気ではいる。
(バルコニーから薫が見えたような気がしたんだがな。会いてぇなーっていう気持ちがそうさせたんだろーか)
彼の地で一番楽しく過ごした日々だった。
たよりない薫、かわいいヒカル、そしてゲクト。みんな元気にしてるだろうか。
(ふっ…今の時代に生きてるという確証はねえってのに、元気にしてるだろうか、なんて、俺もヤキが回ったかなあ)
ジョーがため息をついたその時。
その場の空気が変わった。相変わらず音楽は鳴り響いてはいたが、空間にさらに華やかさが加わったようなそんな雰囲気が漂ったのだ。それを感じたジョーが、キョロキョロとあたりを見回した。
すると、人々の輪をかきわけて、一人の男がゆっくりと歩いてきたのだ。
「なっ…!」
その姿を見た瞬間、ジョーが声を上げた。
「ジョー?」
マリアは心配そうに声をかける。
「どうしたの?」
「あ、いや…なんでもない」
思わず立ち上がりかけて腰を浮かせていたジョーだったが、隣のマリアに安心させるように微笑むと椅子に座りなおした。そして、複雑な視線をこちらに向かっている男に向ける。
「ジョーグフリート様、わたくしは吟遊詩人のマリーと言います。このたびはご即位おめでとうございます。こんな卑しい自分にこの場で貴方様に歌を捧げる名誉を頂き、誠にありがとうございます」
そう言って彼は胸に手をあてると、あでやかにお辞儀をした。
「歌…」
マリーをここに呼んだ覚えはない。だいたい、諸外国の貴賓たちを呼んでの宴なのだ。そんな場所に吟遊詩人ごときが普通なら入って来れるはずがない。だが、現にこうやってここまで入ってきているのだ。彼の正体を知っているジョーなら、彼がここまで来ることは容易だろうと想像はつくが、他の者たちにはわからない。だから、このマリーという吟遊詩人は国王が特別に呼んだのだろうと思ったことだろう。誰も彼を止める者はいなかった。
「わたくしの知人の歌をこの良き日の為に聞いていただきたく、馳せ参じました。宜しいでしょうか?」
マリーはニッコリ笑っている。ジョーはその笑顔が有無を言わさぬ雰囲気を呈しているのを感じ取った。
「よかろう。聞かせてくれ」
「御意」
マリーはそう言うと、おもむろにその場に直に座り込むとフィドルを取り出した。
フィドルの美しい音色が響きわたる。
いつのまにか他の音楽は途絶え、人々は吟遊詩人の奏でる音楽に耳を澄ませた。
「君を守りたい…」
歌が始まった。
たが、それを聞いたジョーは驚く。
なんと、マリーの口から出てる歌声は薫の声だったからだ。しかも、お世辞にもうまいとは言えない。もちろん、まったく下手くそというわけではないのだが、この歌は恐らくゲクトが作ったもの、そう確信しているジョーは、ゲクトであったならどれほど素晴らしい楽曲であるかは想像がつくが、薫と言えば歌は十人並みで、歌手だけはやめといたほうがいいんだがなと前々から思っていたジョーである。だがそれでも、懐かしい。もう聞く事は叶わないと思っていた薫の声をこうやって聞くことができたのだ。
「まあ…素晴らしい声の方ねえ」
「え?」
隣でマリアがほうっとため息をついていた。
そういえば、周りの人々の表情もうっとりしていて、マリーの歌がどれほど素晴らしいものなのか一目瞭然だった。
だが、ジョーの耳には、とてもそうとは思えない歌声が入ってきている。これはどういうことだろう。ただ、考えられるとしたら。
(奴は神だ。人々の耳に入る歌声と俺に聞こえる歌声を別々にして聞かせることも可能なんだろうな)
そう得心がいくと、ジョーはもう何も考えずに歌に専念することにした。
マリーの奏で歌う歌声はいつまでも人々を魅了し続けた。
目を閉じて思いだす
さよならも言わずに別れてしまった君との思い出を
長きに渡る苦悩を流してくれた
君との楽しい日々は
俺にとっての幸いだった
そんな機会を与えてくれた存在に感謝しつつ
同時に運命も感じたよ
もう二度と君に会えないだろうけれど
どこにいても
どんなに時が過ぎても
俺は君の
そして君たちの幸せを願っている
友よ
魂の友よ
いつかまた時を超え時空を超えて
逢いまみえよう
ジョーは目を閉じて、そう頭で呟いていた。
そんな彼の頭の中に響くマリーの声。
(確かにその言葉、彼に伝えますよ)
ジョーは一粒、涙を流した。
その涙は誰にも見られないまま消えていった。
まるで、彼の地に吸い取られていったように、儚い露のように優しく消えていった。
初出2015年6月26日
スクーター・ジョー 谷兼天慈 @nonavias
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます