最終話「ジョーの君を守りたい」


 人には魂がある。と同時に、物にも魂は宿るという考えがあることも。それを信じている者も存在する。木村薫はそう信じている人間の一人だ。

「僕にとってジョーはトラブルメーカーとしか言いようがないけれど、それでも…」

 彼は傍らの赤白のスクーターをなでる。

 スクーターが置かれているマンションの駐輪場。

 薫は呟いた。

「思えば僕の命を救ってくれた」

 彼の頭の中ではスクーターとの思い出が走馬灯のごとく回っていた。

 迫りくる大型トラックに跳ね飛ばされそうになった時、確かに彼は救われた。スクーターが大きく揺さぶってくれなかったら、彼はそのままトラックと正面衝突して即死は確実だっただろう。だが、彼は助かった。そして、それがきっかけで自分の人生は劇的に変化し、後に生涯の伴侶となる女性ヒカルと巡り合ったのだ。

「薫くーん」

 その時、頭の上からヒカルの声が聞こえた。

 マンションの窓から身を乗り出すようにして声を張り上げている。

 それを見た薫は慌てて叫んだ。

「ヒカルちゃん、ダメだよ。落ちちゃうよ」

 彼は慌てて駆け出した。愛する彼女を心配して。

「………」

 だが、一瞬スクーターを振り返る。そして、すぐに駆け出した。

 誰もいなくなった駐輪場。コトンとも音がしない。遠くで車の音が聞こえる。マンションは大通りから少し離れた場所にあった。閑静な住宅街の一画。

「ニャー」

 通るのは猫くらい。しかし、その猫が赤白のスクーターの傍を通った時、ビクンとなって毛が逆立った。

「フー」

 威嚇するように猫はスクーターをジッと見つめる。すると「ワン」という声が聞こえたかと思うと、猫は慌てふためいてその場から逃げ出した。だがしかし、犬などどこにもいない。あとにはシーンと静まりかえった駐輪場。その時、その声は聞こえた。

「俺はどうしたらいいんだ」

 声だけが駐輪場に響いた。その声はとても苦しげで、苦悩に満ちたものだった。そして、その後、再び沈黙が訪れる。あとは、動かない自転車やバイクばかりが佇んでいた。


「ジョーちゃんはどうだった?」

 大きなおなかのヒカルが薫に聞く。マンションの一室。部屋はピンク色に染められた乙女チックな部屋だった。もちろん、新妻のヒカルの趣味だった。

「ダメだったよ。まったく話にならないんだ」

「そっかー。どうしちゃったのかしらね」

 二人は困り切った顔で考え込んだ。

 話は数ヶ月前にさかのぼる。

 喋るスクーターであるジョーが言ったのだ。「俺は消えるよ」と。

 それはヒカルの妊娠がわかった夜のことだった。

 彼女と薫が二人でジョーに報告に行った。

「どうした、二人して改まって…」

 ジョーは軽い調子で言いかけた。が、言葉に詰まった。

 どうやら何かを感じたらしい。

 だが、そんなジョーの様子にも気づかず、薫とヒカルは幸せそうに顔を上気させ、こう言った。

「僕らに赤ちゃんができたんだよ。ジョー、喜んでくれるよね」

 あの時に急にジョーは「俺は消えるよ」とひとこと言ったきり、もう何も反応してくれなくなった。

 あれ以来、ジョーは黙ったまま、薫たちの声に答えてくれなくなったのだ。

 二人とも混乱してどうしたらよいかわからなくなっていた。

「ねえ、ゲクトさんに相談してみない?」

 ヒカルがそう言った。

「ジョーちゃんとゲクトさんって、最近よく出かけたりして仲良かったじゃない。もしかしたらゲクトさんならどうにかしてくれるかもしれないじゃない?」

 ヒカルの言葉に薫は名案だと頷いた。


 薫とヒカルに頼まれてゲクトはジョーをちょっとしたドライブに連れ出した。

 その日の天気は晴れで、早春にしてはずいぶんと暖かい日だった。ゲクトは流れていく風景を久々に穏やかな気持ちで見つめていた。自分を乗せているジョーが自分と同じ気持ちであるかどうかは疑問に思っていたのだが。

 そして、とあるパーキングエリアでゲクトは休憩することにした。

 さあ、いよいよ、本人と話をしなくては。

「ヒカルちゃん、女の子が生まれたようだね」

 ジョーをパーキングエリアの隅っこに停めて、ゲクトは缶コーヒーを飲みながら傍らの縁石に腰かけた。石は少し冷たかった。平日の昼間ということもあり、あたりにはほとんど人はいない。

「…………」

 ジョーは黙ったまま何も言わない。

「今日、病院から戻ってくるそうじゃないか」

 そう、ヒカルは数日前に陣痛が始まり、初産にも関わらず病院について数時間で出産をした。かなりの安産だったらしいのだ。それもあり、一週間ほどの入院であったのだが、産後の経過も良好で、本人も早く退院したいという願いもあり、医者の許可も出たので、ヒカルの身体を心配する薫の反対を押し切って、早々に退院することになったのだ。「ほんと心配性なんだから」と、見舞に行ったゲクトに口調とは裏腹な嬉しそうな顔で彼女はそう言っていた。それを「そんなことないよー」と、幸せいっぱいな笑顔で答える薫。そんな二人を見ていると、ああ、早く結婚したいよなーと、さすがのゲクトでも思ったものだった。

「今日、戻ってきたら、あんたに名前をつけてもらうんだって言ってたぞ」

「…………」

 それでもジョーは黙ったままだ。

 ゲクトは大きくため息をついた。

「なあ。何があったんだ。二人とも心配してたぞ。急に消えるなんて言われたら誰でも心配する…」

「会っちゃいけねえんだよ」

 突然、ゲクトの言葉をさえぎってジョーが喋った。

「俺は薫たちの子供に会っちゃいけねえんだよ」

「どういうことだ?」

 缶コーヒーを飲もうとした手がとまる。

「マリアなんだよ、薫の子供は」

「え…」

 ゲクトは思い出した。以前、ジョーに聞かされたあの話を。

 ジョーの愛する女であるマリアが彼を救うために死んだこと、そして、それを助けるためにジョーは神と約束をしたことを。九十九回の転生と死を目の当たりにし、それに耐えて百回目に転生したマリアを探し出した時に二人は故郷で一緒に生きていくことができるのだと。

「今度の転生が百回目なんだ。九十九回目の転生と死を見届け、そして百回目の転生で彼女を見つけ出した時にやっと俺はマリアと共に故郷に帰れるんだ」

「なんだって…」

 ゲクトは絶句した。

「百回目の転生体が薫たちの子供…それってその子は死ななくちゃならないのか?」

「死ぬのか死なねえのか、そこんとこは俺にもよくわかんねーが、だが、生まれ変わったのがマリアであれば、その魂はマリアってことになるから、本来の俺らの姿に戻るってことは、この世界では死を意味するよな。そうじゃなきゃ俺らは元の世界には戻れねえことになる」

「そんな…」

「……俺は薫たちの前から消えねえといけねえ」

 はっとしてゲクトはジョーを見つめた。

「あんた…それでいいのか。もう二度と愛する女には会えないんだぞ。それに、そうなると、恐らくあんた自身も…」

「消えてなくなるんだろうな。それか、このまま二度と人間には戻れねえのかもな。そして、たぶん故郷の地も踏めねえ」

 ゲクトは何も言えなくなってしまった。

 どんな言葉もジョーの慰めにはならないと思ったからだ。

「いいさ。もう十分だ。今の俺にとっちゃ、薫たちの存在はマリアと同じくらいに大切なんだ。その大切なダチの子供は俺の子供みたいなもんだ。これから未来を生きていく人間の命を奪うなんざ、さすがの俺にもできやしねえ。マリアだって、俺の選択は間違っちゃいねえって言ってくれるはずだ」

「ジョー」

「だからよー。おめーに頼んでおく。薫の子供にマリアって名前をつけてやってくれっておめーから頼んでくれよ。俺は赤子に会うわけにゃいかねーからな」

「……そうか。わかった」

 つらい選択だ。ジョーにとってもそうだが、事情を知っている自分にとってもつらい。そして、それを薫たちには喋ってはいけないことだというのもわかるから、余計につらくてしかたない。

 本当にこの世は不条理だ。

 そんなことはいつも感じていることだった。

 死んでほしくない大切な人はあっけなく死んでいくし、死んで当たり前という人間は本当はいないかもしれないが、それでも死んでほしいという奴はいないわけじゃなくて、でも、そういう奴ほど長生きするもんだし。

 何度、悔しい思いをしてきたことか。

 今回のことも我がことのようにやり場のない怒りにかられているゲクトであった。

「で、これからどうするんだ」

 ゲクトは話を変えた。

 少しの間ジョーは逡巡するように答えなかったが、ほどなくして答えた。

「薫たちのマンションには帰れねえからな。このままとりあえずおめーのとこにとめてくんねえかな」

「それはいいが。どちらにせよ、僕のところだといずれは薫たちに出会ってしまう危険性があるぞ」

「それはわかっている。だから、早いうちにどこか遠いところに逃げねえとなあ」

「その時は僕が協力するよ」

「すまねえ」

 そんなこんなでジョーとゲクトは帰路につくことにした。

 ゲクトがジョーにまたがろうとした時に、ふと疑問が浮かんだ彼は聞いてみた。

「なあ、そういや、あんたはどうして薫の子供がマリアの生まれ変わりだってわかったんだ? 確か、どこに転生するか、何に転生するかわからなかったはずじゃなかったっけ」

「それがよ」

 ジョーも不思議そうに答える。

「わからないはずだったんだが、俺はちゃんとマリアが転生するそばに転生するし、何に転生したのか、何となくわかるようになってたんだ。これが奴の温情なのかどうかはわからねえが。ま、どっちにしたって、俺の苦しみが軽減されることはねえんだが」

「案外、わかるようにしておいて、あんたが苦しむ様を見るのが目的だったりしてな」

「それ、ありえるわ。それくらい意地悪そーな奴だったし」

 二人は乾いた声で笑いあい、そして、帰路についた。

 まだ午後も半ばだった。うららかな天気はまだ続いている。



 一方、その頃の薫とヒカルは愛娘と帰宅するために帰り支度をしていた。

 幸せそうな二人と赤子を窓の外から微笑むかのように空は青かった。それはジョーとゲクトの頭の上に広がる青空へと続いていたことだろう。

「この子の手…」

 荷物をまとめながらヒカルがぽつりと呟いた。

「とうとう開かなかったね」

 見ると、赤子の両手はぎゅっと握られていた。それだけでは普通だろう。ヒカルは自分の子供の左手を開かせた。それは難なく開いた。だが、もう片方の右手は、開かせようとしてもどうしても開かせることができない。

「うん、不思議だよね」

 ヒカルの夫であり、愛娘の父親である薫も困ったような表情で答えた。

 二人の愛しい子供は生まれ出でた時から右手がどうしても開かせることができなかったのだ。無理やりこじ開けようとするわけにもいかず、とりあえず今は様子を見て、近いうちに検査してもらい原因を突き止めることになったのだ。

「それにしても…」

 薫は窓から空を見た。

「ジョーはどうしてるかな。ゲクトさんとケンカしてなきゃいいけどな」

「きっと大丈夫だよ」

 ヒカルも手をとめて窓の外を見た。

「ジョーちゃん、この子の名前、なんて名前つけてくれるかな。楽しみだな」

「そうだね」

「あ、ねえ、薫クン。まっすぐうちに帰るんじゃなくて、ゲクトさんちにいかない?」

「いいよ。どうしたの」

「ジョーちゃん逃げちゃうかもしれないじゃない。だから、サプライズ的にこの子とごたいめーんって感じでぇ、ジョーちゃんに感動してもらうの。この子に会えば、きっとジョーちゃんも観念して、これからも一緒にいてくれるよ。ね?」

「それもそうだね」

 二人は顔を見合わせて「ふふ」と笑った。


 そんなこととはつゆ知らず、ジョーはゲクトを乗せてゲクトのマンションまでもうすぐのところまでやってきていた。

「おや…あそこにいるのは」

 まず、ゲクトが気がついた。

 ゲクトたちが彼のマンションまで帰って来た時、ちょうど一台のタクシーがマンション前に停まった。そして、そのタクシーから若い男女が降りてきたのだ。女の方は何かを抱えている。

「あ…あれは…」

 ゲクトがジョーを停めた時、彼らとタクシーから降りた男女の距離は五十メートルも離れていなかった。

 男女がゲクトたちに気づかないはずがなかった。

 そして、ゲクトが「しまった」と思った時には時すでに遅く、二人はゲクトたちに向って「ゲクトさーん」「ジョー」と声を張り上げながら近づこうとしていたのだ。それはもちろん薫と赤子を抱えたヒカルだった。二人は満面の笑みでゲクトたちに駆け寄ろうとしていた。

 その時。

 彼らの向こうから一台のトラックが走ってきた。かなりのスピードだった。しかもそのトラックの運転手は発作でも起こしたのか、意識を失っているようだった。まったく薫たちに気づかないまま猛然と突っ込んでくる。

「あぶない!」

 ゲクトが叫ぶ前に、異常を察知した薫が振り返る。

 ひどく驚いて、彼は妻を引き寄せようとした。だが、間に合わない。

 ばるるるるるるるるるるるーーーーーーーー!!!

 ジョーがゲクトの傍らから自ら走り出していた。まっすぐトラックに向って。

「死なせやしねえーーーーーーーーーーー!!!!」

 吠えるようにそう叫びながらジョーは突っ込んでいく。

 そして、ジョーがヒカルとその赤子の傍を通り過ぎようとしていた時、赤子が火がついたように泣き出し、右手を開いたのだ。その右手から転がり落ちるものあり。

 薫とヒカルは見た。

 それはどう見ても丸い石のようなものだった。

 その石が赤子の手から転がり落ち、ジョーがそれを踏んづけて粉々にし、その後、ジョー自身はトラックと正面衝突。その反動でトラックは薫たちを大きくそれて、マンションの壁へと突っ込んでいった。

「ジョオオオオオオオーー!」

 叫ぶゲクト。

 だが、ジョーはトラックとマンションの壁に挟まった形で潰され、見るも無残な姿に。

 薫とヒカル、そして、泣き続ける赤子に、呆然自失なゲクトが後には残されるのみ。そんな彼らは時が止まったかのようにその場から動けないままだった。


 それから何週間か後、薫とヒカルは赤子を連れて、ゲクトのマンションまでやってきていた。ヒカルは花束を持っていた。傍らにはゲクトもいる。

 あれから、事故の処理とかいろいろあったのだが、トラックの運転手は奇跡的に助かった。運転手はやはり病気で、運転中に脳梗塞を引き起こしていたのだ。だが、病気のほうもすぐに病院に運ばれたおかげで九死に一生を得た。しかし、ジョーはというと、跡形もないくらいにぐしゃぐしゃで、もうどうしようもないほどのスクラップと化してしまったのだ。いくら呼びかけてみてもジョーからの返事はなく、しばらくはその残骸をゲクトが預かっていたのだが、やはりもう二度とそのスクラップからはジョーの気配は感じられなかったのだ。

 ヒカルがジョーが潰された場所に花を置いた。

「ジョーちゃん…ほんとにもうどこにもいないのかな」

 ヒカルが泣きながらそう言った。すると、安心させるように薫が彼女の肩を抱き、こう言った。

「前にも似たようなことがあったよ。僕がトラックにぶつかりそうになった時、ジョーは身を挺して僕を救ってくれた。当然、ジョーはぐちゃぐちゃになって、もう二度とジョーと話はできなくなってしまったんだ。けど、ジョーは戻ってきたんだ。だから、今度もきっとジョーは戻ってくるよ」

(いや、それはもうないんだよ)

 それを聞き、ゲクトは心の中で呟いた。

 ゲクトはあの時、気づいてしまった。マリアの転生体がいったい何であったのか。

 彼は、赤子の手から飛び出してきた石を見たのだ。そして、その石が、まるで意思を持っているかのようにジョーの方へと飛んでいく様を。事情を知らない薫たちにはそうは見えていなかったようだ。あの後、赤子の握られた手のことを聞かされたが、ゲクトだけはなぜ赤子の手があのように握られていたのか、そして、あの時に開かれてジョーと共に砕け散ってしまったのかを理解した。

 そう。マリアの転生体は薫たちの子供ではなく、その子供が生まれた時から握っていた石だったのだ。

(ジョー。やっとあんたは愛するマリアとともに故郷に戻ることができたんだな)

 ゲクトは空を見上げた。

 そこには青空が広がるばかりで、誰もゲクトの心の声に答える者はいなかった。



 彼は暗闇にいた。

 見渡す限りそこは真っ暗闇で、自分はいったいいつからそこにいるのだろうと思った。と、突然、光が炸裂した。

「く…まぶしーぜ…」

 彼はぎゅっと目を閉じた。すると声がした。

「おめでとうございます」

 その声に彼は、ジョーはゆっくりと目を開けた。

 そこには奴がいた。忘れようと思っても忘れられない。琥珀色の髪に同じ色の瞳、優しげな面には悪戯っぽい表情を見せる男。いや、神か。そう、それはマリーだった。

「見事でしたよ。やりましたね。百回の転生やり遂げたじゃないですか」

「………」

 思い出した。あの瞬間、マリアが最後に転生したのが何であったのか、を。ほっとしたのと同時に何だか無性に腹が立ってきて、ジョーは素直に喜べなかったのだ。

「ほんっとにおめーってやつは底意地がわりーよな」

「む…」

 ジョーの言葉にマリーは膨れた。それはあまりにも子供じみた様子で、ジョーは思わず「ぷっ」と吹き出してしまった。それだけでジョーはもうどうでもいいかと思えたのだ。それだけ自分も成長したってことか、と。すると、マリーのほうもジョーが吹き出したのをきっかけに表情を和らげた。それには、彼がただの人間ではなく、やはり神という存在なのかと思わせるものを感じさせた。もっとも、あのマリーであるから、どうしても生意気さは残されていたのだが。

「まあいいさ。それで、どうなんだ。本当に俺とマリアは生きて元の世界に戻れるのかよ」

「いいでしょう。それが約束ですからね」

 マリーはにっこり微笑むと「それに…」と、続けた。

「あれからずっと絶対不可能な願い事をどうしても願ってしまうあなたの気持ちを考え続けていました。それがどういった気持ちなのか、そして、それは僕にも持ってしまうものなのか、と」

 先程とは打って変わったマリーの真剣な表情をジョーはじっと見つめる。

「不思議なものですよねえ。こんな僕でもあなたと同じ気持ちになってしまう時がくるとは…本当にそれは苦しくて悲しくてどうしようもない気持ちだったんですよねえ…」

 だが、そう言う彼の表情はとても晴々として楽しそうに見えた。まるで、何も知らなかった子供が新しいおもちゃを手にしたように。だから、ジョーは正直にそう言ってみた。

「苦しいって言うが、おめーなんだか楽しげだな」

「おやあ、そう見えますかあ?」

 マリーは「ふふ」と笑ってみせる。

「本当は苦しいこと悲しいことなんか僕は嫌いですよ。でも、不思議なんですよね。彼女のくれる痛みは嫌いじゃない。むしろ、ああ、これだけ僕は誰かを心の底から愛することができるんだ、僕だって他の人と同じなんだ、まったく違うことはないんだって思えて、幸せに感じたんですよ。その矛盾に気づいた時、あなたの言っていたことがやっと理解できたわけです」

「おめーは…」

 ジョーはやっと得心がいった。

「最初は確かに探し出すことは難しかった。そして、マリアや俺が人間に転生することが多かったように思ったが、いつの頃からかほとんど人間に転生することはなく、物に転生することが多くなった。しかも、なんでか何に転生したのかわかるようになったし、ちゃんとそばに転生するようになったよなあ。あれってそういうことだったのか」

「ええーなんのことでしょおー?」

 ジョーの言葉にマリーはすっとぼけた声で答える。

「そんなことより、早く会いたくないんですかあ。あなたの愛する人にぃ」

 マリーはニヤニヤしながらそう言った。それはまるで悪戯坊主のような顔つきだった。

(そうだ。やっとマリアに会えるんだ)

 そう思ったとたん、徐々に彼の周りが暗くなっていき、目の前もまるで目を閉じたかのように暗くなっていった。その間、彼女に会ったらこう言おう、ああ言おうと思いながら、だんだんと意識が遠のいていく。そして、完全に意識がなくなる間際に遠くにいるマリア以外の大切な人たちのことを思い出す。

(さよならを言わないまま別れてしまったよな。でもきっとおめーらは幸せな人生を送ることだろーよ。俺のこと、ちょっとでも思い出してくれるよな)

「大丈夫ですよ。どんなに遠い世界にいようが、僕たちはみんな繋がっているのです。だから、いつかきっと、別の世界であなた方はまた出会えるんだ。この次はもしかしたら恋人になってるかもしれないし、親子になってるかも」

 ジョーの思いにクスクス笑いながら答えるマリー。その笑いは馬鹿にしたようなものではなく、まるで「ほら、楽しいでしょう?」と聞こえた。

 だがしかし、少し残念に思うのは。

「あの世界のマリアにちょっとでも会いたかったよなあ」

 薫とヒカルの子供だから、きっと超絶美人になることだろう。もしかしたらあのゲクトがロリコンに転身してしまうかもしれないくらいに。と、何となくそんな不埒なことを思いつつ、自分の妄想に苦笑した。

「幸せになれよー」

 その言葉を最後に、ジョーは完全に意識を手放した。

 あとには暗闇だけが残された。




「あ」

 薫の耳にジョーの「幸せになれよー」という声が聞こえたような気がした。

「薫くん、どした?」

 マリアを抱いたヒカルが薫の声に振り返った。

「ゲクトさん、待ってると思うよ。早く行こう?」

「あ、うん。そうだね」

 あれから一年が経とうとしていた。ジョーが消えてしまってから。

(ジョー)

 薫は心で呟く。

 前みたいにまたひょっこり戻って来るんじゃないかと、新しくスクーターを買ってはみたけれど、結局はもう二度とスクーターが喋り出すことはなく、もう一年が経ってしまった。

(ジョー、君が助けてくれたマリアももう一歳になるんだよ)

 あの事故でしばらくバタバタしていた薫たちだったが、すぐにゲクトからジョーが赤子に「マリア」という名前をつけたかったみたいだぞと聞かされて、薫とヒカルは迷いなく自分たちの子供に「マリア」という名前をつけた。

 きっと、ジョーはまたどこかで誰かの乗るスクーターとして生き続けているんだと思うことにした薫だったが、それでも、それはそれで自分との繋がりは特別なものだったんだと思い込んでいた薫にとっては寂しいもので、その新しい乗り手に嫉妬すら感じてしまうほどだったのだ。

 ヒカルのほうはというと、母親となると子供に対する気持ちが一番ということもあり、ジョーのことを懐かしく思い出すことはあっても、薫ほど感情的に引きずっているようではなかった。なので、余計に薫は自分はダメな人間なのではないか、ジョーがいないとこんなにも不安に思ってしまう自分なんて、と思うようになっていった。

(ジョー、突然いなくなるなんて、やっぱり僕には受け入れることなんかできないよ)

 薫は空を見上げた。

 それはジョーがいなくなった時と同じくらいに青く澄みきっていた。


「薫」

 ここはゲクトのマンション。

 この日、ゲクトは薫とヒカルを自宅に呼んだ。

 シックなデザインの室内は落ちついた雰囲気で、ゲクトの醸し出す強烈なオーラに似合わないものではあったが、ゲクトの人となりを付き合うようになってから知った薫にとっては、確かにこんな感じだよなと思える。

 薫たちはソファーに座り、彼らに対峙してゲクトもソファーに座っていた。もう一度ゲクトは「薫」と声をかけ、続けた。

「お前の事務所の社長から僕に話があったんだ。最近のお前の様子がおかしいって」

「………」

 薫は黙ったまま何も言わなかった。

「お前の気持ちはわかる。僕だって友達と言える存在をなくしたんだ」

 ゲクトの言葉に薫の身体がピクリと動く。それを見逃すゲクトではなかった。

「社長が僕なら何とかしてくれるんじゃないかと頼み込んできたんだ。そこで、僕は提案した」

「提案って?」

 マリアをあやしながらヒカルが無邪気に聞いてきた。

 ゲクトはヒカルに抱かれたマリアを愛しげに見つめた。

「薫」

 ゲクトはもう一度、薫の名前を呼んだ。

「お前に歌ってもらうよ」

「え?」

 いきなりの言葉に薫は思わず答えた。

「僕が歌うの?」

 ゲクトが頷く。

「僕がお前のために歌を一曲作った。お前にはそれを歌ってもらう」

「すごーい。薫くん、ゲクトさんの歌を歌うの? いいなー」

「僕じゃなくヒカルちゃんが歌えばいいじゃないか」

 薫も自分の出演するドラマの主題歌を歌ったり、何曲か歌も出したことがあるが、それほど歌がうまいというわけではなく、ヒカルに比べて売り上げもあまりよくなかったからだ。

「売れない歌なんて社長に叱られちゃうよ。しかもゲクトさんの歌だよ。売れなかったら、ゲクトさんのファンにも叩かれちゃうよ」

「お前が歌わないと意味がないんだよ」

 強い口調でゲクトは言い切った。

「え…」

 薫はそんなゲクトの勢いにびっくりした。

「僕はね、ガマンできないんだよ。お前のそのあまっちょろい態度に。お前はちっともジョーの気持ちなんか考えてない」

「っ!」

 薫は言葉にならない声を出した。

「だが、僕はジョーも薫のことわかってないなあって思ったんだよ」

 ゲクトは打って変わって優しい声で続けた。

「何も知らないって辛いよな。僕だってそれはそうだ。僕だってそんなに強くない。事情がわかってても、それでももう会えないと思うとさびしい。そういうものなんだよな」

「ゲクトさん…」

「それに、この歌は事情を知ってれば感情こめて歌えると思うんだよ。ジョーにはジョーのプライドっていうのがあって、薫には同情されたくないって思ってたんだろうけどね、でも、僕は薫には立ち直ってもらいたい。そして、この隠された物語を薫にも知ってもらいたいって思ったんだよ」

 そして、ゲクトは語った。ジョーの物語を。悲しくも辛い愛の物語を。



 その後、木村薫はゲクトブロデュースで歌を出した。曲名は「君を守りたい~約束の言葉」ありったけの愛で大切な人を守りたいという気持ちが込められた内容だった。

「皆さんは知らないと思いますが、僕にはとても大切な友達がいました」

 この曲を発表した後、薫は歌番組でこの歌の誕生秘話を語った。

 実は、ジョーが消えてしまったあと、薫とヒカル、そしてゲクト以外の人間は、ジョーという喋るスクーターの存在を誰も覚えていなかったのだ。薫とヒカルも当初はそれを不思議に思って混乱していたのだが、あの日、ゲクトからジョーの物語を聞かされ、やっとみんながジョーのことを忘れてしまったのはどうしてかをわかったような気がしたのだ。恐らく、本来ならすべての人間がジョーの存在を覚えているはずがなかったのだろう。ゲクトは、ジョーと賭けをした神のちょっとした温情だったのだろうなと言っていた。薫もそう思った。そうじゃないと説明がつかないからだ。

「僕はその友達に命を救われ、そして今は愛する人と愛する子供と一緒にこうやって生き続けているんです」

「そのお友達はゲクトさんとも知り合いだったのですね」

 司会者がそう聞いた。

「そうですね。ゲクトさんは僕とその友達がどうしても別れなくてはならなくなって自暴自棄になってしまっていたのを、歌で救ってくれたんですよ」

「ゲクトさんが歌うのではなく、木村さんが歌うことが大事だったんですね」

「そうなんです。ゲクトさんが歌う歌も誰かを救うことはできるでしょう。でも、僕はそうじゃなくて自分で自分を救わなくちゃならない。僕も今は誰かを守る立場です。妻を、そして子供を守らなくちゃならないわけです。それをゲクトさんはわかってくれていて、だから、この歌を僕に提供してくれた。だから、この歌は、別れた友達と僕の歌であると同時に、僕や妻や子供のための歌でもあるんです。自分自身で歌わなくちゃいけなかったわけなんですよ」

「そうですか。それで、そのお友達は今どこにいるのですか?」

「さあ、僕にもわかりません。でも、きっとどこかでこの歌を聞いてくれていると思います」

 薫は晴々とした顔でそう言った。

「それでは、木村さんに歌っていだきましょう」

 薫はおもむろに立ち上がる。そして、ゆっくりとステージ中央に進んでいった。ステージはスポットライトが当たっていて眩しいくらいだ。その光の中央に立ち、薫は歌いだす。

「君を守りたい…」

 その視線はまっすぐカメラに向けられ、そこにいるはずのないあの赤白のボディーをした大切な友に向けられていた。



           初出2015年1月23日

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る