紙とペンとバーテンダー
白武士道
第1話
週末は行きつけのバーで過ごすのが、俺の密かな楽しみだ。
開店したばかりの宵の口。まだ誰もいないカウンターの端っこに腰掛けると、店の奥からバーテンダーの女性が顔を出した。
「いらっしゃいませ。あら、お早いお着きですね」
バーテンダーの女性は柔和な笑みを浮かべた。ここ数年、毎週のごとく通い続けているので、すっかり顔なじみだ。
「何をお注ぎしましょう?」
「今日のお勧めは?」
「そうですね。ラフロイグはいかがですか?」
「じゃあ、ストレートで」
このバーはカクテルだけでなく、ウィスキーも豊富に取り揃えてある。もともとスコッチを好む俺としては実に居心地がいい。足繁く通う理由の一つ。
店内を流れる静かなジャズに耳を傾けていると、ノージング・グラスがそっと手前に置かれた。透明感のあるゴールドの液体。鼻腔を刺激する正露丸のような癖のある香り。まごうことなきアイラモルトの王者。
「どうぞ」
差し出された紙とペンを受け取る。テイスティング・シートだ。これに飲んだ酒の特徴や感想を書いていくのが通の飲み方なのだ――と目の前の彼女から教わった。
酒の種類は問わないが、定番はウィスキーに関する所感だ。色、香り、味などを項目ごとに自由に書き連ねる。これが意外と小説の表現練習になることに気づき、いつの間にかここでの習慣になってしまった。
とは言っても、俺は別に小説家というわけじゃない。志望しているというレベルだ。別の仕事をしながら、暇を見つけては小説を書き溜めている。時には投稿したりもするが、日の目を見たためしはない。
「この頃、よくお
「少し停滞しています。この頃は投稿サイトに掲載するのが当たり前になってきて、毎日更新が基本らしいのですが……自作のホームページに小説を載せていた世代ですからね。その速度についていくのは、正直しんどい」
「でしたら、こんなところでお酒を飲んでいる暇はないのでは? 少しでも書き溜めておいたほうがいいんじゃないですか?」
「いえ、これは趣味も兼ねた訓練ですよ。表現は感性ですから。酔っているといい感じに理屈っぽい部分を取り去ってくれるので、表現練習にはもってこいです」
グラスから香る強烈なピート臭を楽しみつつ、俺は指の赴くまま、気持ちのままに紙面にペンを走らせる。
「それに多少はお酒でも入っていないと、異性に思いを打ち明けるシーンなんて素面じゃとても書けませんから」
その発言が何か琴線に触れたのか、彼女はずいと顔を近づける。
「もしかして、今書いているのって恋愛小説なんですか?」
「……のようなものです」
曖昧な答え方だったが、それでも彼女は明るい笑顔を浮かべた。店内の照明が強くなったと錯覚してしまうほどに。
「私、恋愛小説、大好きなんですよ!」
「へえ、それは……なんというか、意外です」
「意外ですか?」
きょとん、と彼女は目を瞬かせる。
「空想の恋愛なんてする必要ないくらい、経験豊富そうでしたから」
彼女は俺と同い年とは思えないほど若くて美人だ。ネイビーのベストと白いシャツがすらりとした体躯によく似合っている。言い寄ってくる男も数多いるだろう。
俺の率直な意見に、彼女は苦笑を浮かべた。
「そんなことないですよ。バーテンダーになるために修行修行の毎日でしたから。お店を開いてからも、お陰様で多忙な毎日を過ごさせていただいていますし、恋愛する暇はありません。ですから、完成したら読ませてくださいね」
「考えておきます」
「約束ですよ」
彼女は無邪気に微笑んだのも束の間、少しだけ寂しそうな表情を見せる。
「でも……もしあなたが売れっ子作家さんになってしまったら、それこそ、ここへ通う暇なんてなくなってしまいますね……」
「売り上げが落ちるのが心配ですか?」
「そりゃもう……なんて、冗談ですよ。ちゃんと対策は用意してありますから」
悪戯っぽい輝きを瞳に宿し、彼女は引き出しから何枚ものテイスティング・シートを取り出した。見覚えのある癖字。俺がかつてしたためたものだ。
「あなたが小説家として大成した暁には、これは値打ち物になるでしょうからね。これで損失を取り戻します」
そう言って、彼女はくすくすと上品に笑った。
文豪の私的な手紙が死後に発掘されて、博物館に展示されるのはよくある話だ。死者にプライバシーはないのだろうか。作家志望からすれば黒歴史など消し去ってしまいたいのだが、彼女は渡すまい。
「……じゃあ、これもそのうち値打ち物になるかもしれませんね」
俺は書き終えたテイスティング・シートを彼女に渡す。
「拝見しま……えっ!?」
紙面の文字を追っていた彼女は急に目を丸くし、しばしの沈黙の後、照れたように顔を伏せた。
「……困りました。これは赤字になっても手放せそうにありません」
俺が書いていたのはウィスキーの感想などではなかった。
/了
紙とペンとバーテンダー 白武士道 @shiratakeshidou
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