紙とペンと最愛の君

しろもじ

第1話 私の中のあなた

「あ、おかえり、朝海」


 学校から帰ってきた私に、リビングでテレビを見ていた母が声を掛ける。「ただいま」と小さく答える私に「おやつ、今日はケーキ買ってきたの」と嬉しそうに言う。


「太るから要らない」

「大丈夫よ、一個くらい」

「いい。要らないったら」

「あら、そう? じゃ、お母さんが食べちゃおうかなぁ」


 少しだけ残念そうな顔をしながらも、早速包み紙を取っている。母は甘いものに目がない。しょっちゅうケーキやチョコを食べているのに、どうやってその体型を維持できるのよ? 前に一度訊いたことがある。


「んー? なんかね、太らないの」


 ケロッとした顔でそんなことを言っていた。まったく、羨ましいったらない。その遺伝子、私は受け継いでいないんだけど? 私がこの体型を維持するのに、どれほどの努力を注いでいると思ってるの。


 なんて文句のひとつも言いたくなってくる。


「着替えてらっしゃい。今日はお父さん遅いそうだから、もう少ししたら食べちゃいましょう」


 まだ食べるんだ……。空になったお皿をキッチンへ運ぶ母に呆れてしまう。


「あ、姉ちゃん。おかえり」


 廊下に出た私に、ぶつかりそうになってきたのは私の弟、翔大しょうた。現在小学二年生。少し年が離れている分、姉と弟というよりも「第二の母と息子」という感じ。きゃっきゃとはしゃぎながら、私の腰にまとわりついてくる。


 「こらこら。制服がシワになっちゃうでしょ」とたしなめると、ちょっとだけ不満そうな顔をしながら「あ、そうだ。宿題宿題」とリビングに飛び込んでいく。手には一枚の用紙が握られていた。


 何か、お母さんに訊くことでもあるのかな? そんなことを考えながら、廊下を歩いていると「ねぇ、ぼくの『しょうた』って名前の由来って何? 学校の宿題なんだ」という声が聞こえてきて、思わず立ち止まる。


 聞き耳を立てていると「大いに翔ける、って意味よ」という母の声。「おおいに? かける? どゆこと?」と説明を求める弟の声に、私はため息をつきながら、階段を登る。


 自分の名前の由来かぁ……。


 実は私も弟と同じ質問をしたことがあった。多分、同じくらいの年の頃。でも、そのときの母は今みたいに即答せず「うーん、何だったかなぁ」と曖昧に答えていた。そのとき感じた「私の名前って適当に決めちゃったの?」という疑問は、ずっと私の中でくすぶり続けていた。


 それが今、確信に変わったというわけだ。親になったことはないから分からないけど、多分普通は、自分の子供につけた名前の由来は即答できるはず。今さっきみたいに。つまり私の名前『朝海』は、あまり深い意味もなく、例えば語呂がいいからとか、画数が良さそうだからとか、人気の名前から適当に、みたいに付けられたのだろう。


「なんだかなぁ……」


 部屋着に着替えて、ベッドに転がる。


 高校に入ってそろそろ夏休みだというのに、全然いいことなんてない。クラスの皆は優しいし「朝海さんってキレイだね」とか「朝海さん、すごーい」とか言ってくれる。でもそれは、私の上辺だけしか見てない人だ。


 クラスで嫌われているというわけじゃないし、それなりに会話もしているんだから、そんな高望みをしちゃいけないと分かっている。でも、一人でもいいから本当の友達、心から話せる人が欲しいな……。


 リビングに降りると、既に母と弟は食卓についていた。


「ねぇ、お姉ちゃん、聞いて。ぼくの名前、すっごく走るって意味なんだって!」


 嬉しそうに用紙を見せてくる翔大に「へぇ、いいねぇ。しょうちゃん」と頭を撫でてやる。まるでネコみたいに目を細めている、かわいいな。


「勉強も頑張らないとね」

「えー、頑張ってるよぉ」


 「あ、そうだ」と私はカーディガンのポケットに入れていたテスト用紙を取り出す。


「お母さん、この前のテストの結果。学年二位だった」


 一学期の期末試験。


「まぁ、すごいじゃない!」

「ちょっとだけ、ミスしちゃったんだけどね」

「十分十分。あ、そうそう。デザートあったんだ。苺、美味しそうだから買ってきちゃった」


 机の上に置かれたテスト用紙。両親は私の成績について、ほとんど何も言わない。悪い点を取っても叱ってくれないし、良い点を取ってもこんな感じであっさりと済ませてしまう。だから私は、自分の頑張りが足りないんだ、もっと頑張れば褒めてくれるだろう。そう思ってきた。


 でも、そのときやっと分かった。お母さんもお父さんも私のことには関心がないんだ。名前みたいにどうでもいんだ。何かがプツリと切れる音がした気がした。


「ちょっと話があるんだけど」


 いつもとは違う私の雰囲気に気づいたのか「しょうちゃん、お部屋で宿題済ませちゃいなさい」と弟に言う。二人きりになったリビングで私は自分の思いをぶちまけた。


 頑張っても認めてもらえない。勉強もスポーツも、お父さんお母さんに認めてもらいたくって、一生懸命やってきたのに! 私なんてどうでもいいの? 頑張ろうがダメになってしまおうが、気にならないの!? 私の名前だって適当に決めたんでしょ!!


 母はとても悲しそうな顔をしていた。それを見て、私は「そこまで言わなくてもよかった」と罪悪感を感じてしまう。構って欲しくて、認めて欲しくて、なんてそんな子供っぽいことを言ってしまった自分を恥じる。


「朝海、ちょっと待っててね」


 母は立ち上がるとリビングの端に置いてある棚に向かう。家族の写真が飾られている段の下に、いくつかの引き出しがある。そのひとつから、小さなひとつの箱を取り出した。


 桐でできた白いキレイな箱。それを机の上に置くと、そっと蓋を開ける。中には一枚の和紙と、高級そうなペンが入っていた。「このペンはね。お父さんのお父さん、つまりあなたのお祖父さんの形見なの。高そうでしょ? でも、本当はそんなにしないんだって」とクスリと笑う。


 次に母は和紙を取り出した。丁寧に四つ折りされたそれを机の上に広げる。そこには『朝海』と大きく書かれていた。「あなたが生まれたときの話なんだけどね」そう言って母は、ぽつりぽつりと語りだした。


 母の話によると、私はやや早産気味に生まれてきたらしい。ある日、定期検診に向かった母は、途中の道で突然の陣痛に見舞われた。周囲の人がオロオロしてしまっている中、ひとりの女性が駆けつけてくれた。


 彼女は素早く救急車を手配し、そのお陰で私は生まれ母も無事だった。報せを受け大急ぎでやってきた父は、彼女に何度も何度もお礼を言った。彼女はちょうど数ヶ月前に出産をしたばかりで、母の様子を見て居ても立ってもいられなくなったらしい。


「あの人がいなかったら、私もあなたもどうなっていたか」


 初めて聞く話に私は衝撃を受けていた。今まで十六年間、自分の出生にそんなことがあったことは知らなかった。母はいつになく真剣な面持ちで話を続ける。


「それでね。私を助けてくれた人の子供さんから、一文字をもらったのがあなたの名前なのよ」


 私の名前が私の知らないだれかに由来しているなんて。私と母を助けてくれたことには感謝しつつも、何か少しだけ怖いと思った。母はそんな私に「あら、知らない人じゃないわよ。覚えてない? 幼稚園くらいまではよく遊んでいたいじゃない」と言う。


「朝海、あの子のこと凄く好きだったのに」

「え、幼稚園……?」


 そう言われてみれば。薄っすらと記憶が蘇ってくる。いつもお母さんに連れられて遊びに行ってた家。そこにいた同い年の女の子。確か名前は……。


『ゆずきちゃん、だいすきー!』


 そう、確かゆずきちゃん。


 小学校は別々になって、それ以来会っていないけど、確かに私の記憶には彼女がいた。


「だからね。私とお父さんはあなたには……」


 頑張ってるのを褒めないのは、もっと頑張ろうとして無理をさせたくなかったから。あなたは何でも頑張っちゃうから。そんなに頑張らなくてもいいの。ただ元気でいてくれれば。


 そう語る母の目に涙が浮かんでいた。私は母の手を取った。ごめんなさい、と謝った。両親は私のことがどうでも良かったわけじゃなかった。むしろ、私のことを本気で心配してくれてた。それがとても嬉しかった。


「名前の話もね。『人の名前が由来だ』って言うと、あなた嫌だと思って」


 ……ん? そう言えばさっき母は「助けてくれた人の子供から一文字もらった」って言ってた。「ゆずき」ってどんな漢字? 「朝海」と「ゆずき」って、同じ漢字ないと思うんだけど。


「あぁ、それはね。ゆずきちゃんは『結月』って書くの。結ぶ月ね。その月があなたの中にあるでしょ?」


 あぁ、そういうことか。朝海の朝には、確かに月が入っている。そのまんま一文字もらったわけじゃなくって、ちょっとはひねってたんだね。


「それにしても、結月ちゃん、今頃どうしてるのかなぁ……?」

「あら? 朝海と同じ高校に通ってるって聞いたわよ。会ってない? 上の名前は森本さんって言うんだけど」


 ウチの学校に……? 結月……森本結月……どこかで見たような。そう言えば期末テストの学年一位の子がそんな名前じゃなかったっけ……?


 翌日。一学期最後の日に、私は森本結月を確認した。そう言えば、どこか昔の面影がある……大好きだったゆずきちゃん。いつの間にかこんなに立派に成長して……。


 気がつくと息が荒くなっていた。心臓の鼓動も耳元で聞こえてくるくらいドクドクいっている。なんだろう……これ?


 私の中で何かが芽生えるのを覚えた。その日から彼女の顔が頭から離れなくなってしまった。彼女に気づいて欲しい。彼女に振り向いて欲しい、という気持ちは日に日に大きくなっていき、やがて「彼女を私のものにしたい」と思い始める。


 チャンスは秋に開かれた体育祭のときにやってきた。思い切って彼女に話しかけた。


 そして、今。私は彼女と付き合っている。


 ずっと前からこうあるべきだったと、私は確信していた。


 だって彼女の名前は私の一部なのだから。

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紙とペンと最愛の君 しろもじ @shiromoji

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