焚書の魔物
七四六明
焚書の魔物
「
僕のことを筆人と呼ぶのは、彼女だけだ。
確かに僕の名前は筆人なのだけども、僕をそう呼ぶのは彼女だけである。
学生時代に友達もできなかった僕は、本名よりも小説家のペンネームが有名だから、僕自身、本名で呼ばれると違和感を感じてしまう。
ならば僕のことを本名で、しかも下の名前で呼ぶ彼女は、僕の恋人なのかと言われるとそうではない。
大切な人というのは間違いない。だが付き合っているわけではない。
彼女が今、僕を後ろから抱き締めて豊満な胸部を平然と押し付けていたとしても、執筆中の僕に構ってほしそうに誘ってきていたとしても、僕らは決してそんな仲ではない。
無論、親しい仲であることは間違いないし否定しない。
だが決して、そんな仲ではない。それだけは信じて欲しい。
だってそうだろう。
僕が書き上げた小説の主人公とそんな仲だ、などと公言しようものなら、僕はとんだ変態ではないか。
「筆人、娘がこんなに構ってしてるんだよ? もう少し構ってくれてもいいんじゃないかな」
「君は本当に、僕の書いた
「正真正銘、文は文なんだよ。でもね筆人、文だって生きてるんだよ。そんな社会が敷いたレールの上ただ走るだけなんてつまらないと思わない?」
「その社会って、もしや僕のことか。つまり君のそれは、反抗期のようなものか?」
「失礼な! 筆人は文を書いて何年経ってると思ってるの。六年、六年だよ。一七歳から初めて六年経ったら二三歳、もう大人なんだよ、えっへん!」
「威張ることじゃない。二十歳超えたら成人なんて社会的基準としているだけで、定年超えても子供みたいな大人はたくさんいる。調度、僕のような人間のことだ。そこから生まれている君は、まだまだ子供だよ」
「自分のこと子供だとか言ってて恥ずかしくない? 中二病? 筆人、中二病発症中?」
「失礼な。僕は健全な中二病だ。君の思っているような、ただの妄想癖の塊と一緒にするな」
「同胞を貶しちゃダメなんだよ、筆人。年齢イコール彼女いない歴の大人なんて今どきたくさんいるけど、SNSで繋がれる時代に友達片手の数なのはその性格が原因だと思うな」
「顔も知らずにフォローしあってるだけで友達とか言ってる奴の神経がわからん」
「今どきの青年とは思えない発言なんだよ」
この程度、僕と彼女の間ではジャブのようなもの。
もっとも、毎度やられているのは僕の方だが。
今だってさりげなく、友人がいないことと彼女がいないこと、中二病であることを一挙に馬鹿にされたわけだ。
さすが僕から作られただけあって、僕の弱点をよく知っている。
しかし本当に、こんなズケズケと人の弱点を抉っていくかまってちゃんに仕立て上げたつもりは、まったくないのだが。
「それより筆人――」
人を傷付けたことに無関心どころか気付いてすらいなくて、それよりもなんて言ってしまう少女に、僕は書いていないはずなのだ。
せめて僕が傷心していることには、気付いて欲しいものだが――
「この作品、魔物がいるんだよ?」
――訂正しよう。なるほどそれは、僕の傷心など放っておくべき事態だった。
自己犠牲の精神なんて、立派なものじゃない。ただ僕は、僕の心に従っているだけだから。
「どれだ?」
「この難読漢字使っていきってる人、二年前から更新してないんだよ。これはいけないね、さっさと退治しないといけないんだよ」
「そうだな。仕方ない。文、やるぞ」
「そのまえに筆人、ちゃんとお着替えするんだよ。でないとまた、パジャマで抛り出されることになるんだよ」
と、それはいけない。
どんな作家だって、さすがにパジャマ姿で戦場に放り込むような物語は書かないだろう。
少なくとも、僕はそうだ。故に僕は着替える。
といっても、僕だって戦場に相応しい礼装が存在するわけではない。
時折出版社の人と会うとき用に買った、漆黒と呼んでも相違ない黒いスーツに、黒いロングコートが、僕の戦場における一張羅だ。
「潜るぞ」
「了解なんだよ。じゃ、行くよ」
と、文は僕の手を取るとパソコンの画面に手を添える。
果たして僕はこのとき、体ごと落ちているのかそれとも意識だけが落ちているのか、訊いたことがない。
ただ僕は彼女と手を繋ぎ、さらに彼女が物語に触れることで、その物語へとダイブすることができるということしか、知らされていなかった。
数秒と経たずして、僕は目を覚ます。
広がっているのは、一面の白銀世界。息も真白に凍り付く、雪の世界だ。
コートを着てて助かった。パジャマなんかで来ていたら、あっという間に凍死していたことだろう――いや、そもそも僕は着替えるまえから、パジャマではなかった。
「舞台は現代のロシアに似てるかな。主人公とヒロインが、連続殺人犯を捕まえるために奔走するお話なんだよ」
「異能とか魔法の概念はあるのか」
「魔術の概念があるね。でも現代よりで、魔術が後々科学の先駆けになっていくストーリーっぽかったみたい」
「で、頓挫して失踪したと……困ったな。どうせ設定が凝り過ぎてて自分でも理解が追いつかず、書くのが面倒になって失踪したのだろうが。よくある傾向だ」
「なんでみんな、そう設定を詰め込みたがるのかなぁ。文にはよくわからないんだよ」
「まぁ、我が子には自分にはできない人生を歩んで欲しいと思う親心というか作者心というか、そんな心理でも働いているのかな。僕も最初はよくやったことさ。それこそ文、君の先輩に当たる人物なんかはね」
「ねぇ筆人、文が筆人のところに来たこと、ガッカリしてる? 文よりももっと強いキャラクターに来て欲しかったって、思ったことある?」
「そう言われると、思ったことはないかもしれない。僕はただただ感動しているのさ。感動し続けている。我が子のように作り上げたキャラクターと、こんな世界を護るための戦いに出られることに、未だ感動し続けているんだ。それがおまえじゃなかったらなんて、考えもしなかった」
「そんなものなの?」
「そんなものさ」
「そっか! なら安心したんだよ! 筆人はちゃんと、文のこと終わらせてくれそう!」
「無論、書くからには終わらせるさ。それがプロというものだからね」
文の言う通り、この世界はロシアのような極寒の都市だった。
真夜中ということもあり、冷気が身に沁みてより一層寒く感じる。
さらに言えば、この大都市に僕ら以外の人間の姿を見ないから、肌寒さと同時、悪寒のようなものを感じて仕方なかった。
「この世界はなんだ、人類の絶滅でもかかっているのか?」
「確かに連続殺人は起きてるけど、ここまでの事態になるはずはなかったんだよ。ここは言うなら、主人公達が連続殺人犯を放置した世界。作者がどう捕まえようかあれこれ考えてるうちに嫌になって、結末を結ぶことを放棄したことで生まれた世界なんだよ」
「連続殺人犯が捕まることなく街の人を皆殺しにしたあと、ということか……悲惨だな」
「文達が殺されたら、それこそ悲惨なんだよ。もうこの物語を修正する力がなくなっちゃう」
「わかってるが、しかし僕のことを心配してくれているわけではないのだね」
「もちろん、筆人が死ぬのは嫌なんだよ。だけど結末の描かれないまま、崩壊していく世界ほど悲惨な世界もないから」
「そうだな……だからこそ、僕らはいるわけだ」
「そういうことなんだよ。そして、早速出番だよ!」
説明している暇はないから、会話で察して欲しい。
僕らは未完の物語から生まれる魔物を退治すべく、遥々その物語の世界へやってきた。
そして魔物とは、魔物と呼称されて申し分ない外観をしている。
こんな、モンスターも出て来ない現代物語に近い世界でも、異形の姿で現れるのだから。
僕の背後から不意を突いて襲い掛かって来た殺人鬼もまた、大きく膨らんだ上半身を六本の腕で支え、下半身をぶら下げた蜘蛛のような姿で現れた。
僕はとっさに身を引いて、文が彼の握っていたナイフを蹴り飛ばしたことで難を逃れる。
「文、とっとと潰して帰るぞ」
「わかってるんだよ、筆人。書いて」
僕は紙とペンを取り出す。
ネタが思いついたときように、いつもコートに忍ばせている奴だ。
僕は下敷きもなしで、紙に流れるようにペンを滑らせる。
するとどうだろう。隣の文が何やら力に満ち溢れて、姿を変えていくではないか。
この世界にそぐわなかった薄着から、ロシア軍服のような意匠に変わり、周囲には十丁近いライフルが浮遊していた。
両腰に差したサーベルを抜いて、魔物と化した殺人鬼と対峙する。
「戦場に咲き誇りて、喝采を浴びるのだ! 飛べ、我が天使達!」
僕は毎度思う。確かに僕は、彼女にこの世界に沿った能力を与えてやった。
だけどだからといって、キャラクターまで変わるのはどうなのだろう。
なんだか僕の作ったキャラクターが、他人の不完全な世界に負けている気がして、僕は少し悔しかった。とはいえ、僕はペンを止めない。
ひたすらに、僕は紙にペンを走らせていく。
僕が書いた通りに文は動き、文の操る力は動く。
十丁のライフルが縦横無尽に魔物の周囲を動きながらレーザーを打ち込む。
無茶苦茶に暴れて包囲網から脱しようとする魔物の動きをレーザーで封じ、止まったところを撃ち抜いて行く。
魔物が断末魔のような叫び声を上げたところで、僕は最後に書き上げた。
この戦いの結末を。
体を支えていた腕がすべて撃ち抜かれると、文は両手のサーベルで魔物を裂いた。
今度こそ本当の断末魔をあげて、魔物は倒れる。
「終わったな、筆人」
「そうだな、よくやった」
「……えへへ。褒められたんだよ」
「さ、帰ろう」
こうして紙にペンで綴ると、若い頃を思い出す。
あの頃の僕も、作者の失踪によって崩壊した世界のことなど考えたことはなかった。今だってそうだ。
だとすると僕もいつか、同じ罪を犯すのかもしれない。
そのときは誰かが僕の終わらぬ物語を、救ってくれるのだろうか。
焚書の魔物 七四六明 @mumei
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