『空欄を埋めよ』

尭邑

紙とペンと空白


 3月15日未明、一人の作家がその生涯を終えた。自殺と見られ、事件性はないというのが警察の見解であった。

 けれどもテレビを始めとするニュースは、その自殺を大きく取り扱う。事件性はないが、話題性は十分にあったのだ。想像の埒外なシナリオを綴り続けた彼の最後は、彼らしいと誰もが口には出さずとも思うものであった。訃報を伝えるニュースキャスターも、状況を解説するコメンテーターも、悼むべきものだというのにどこか熱っぽくいかにこの自殺が彼"らしい"かと言葉を繰り出すのだ。単純だが、謎がある。彼の作品性と噛み合った状況はそれこそ彼の「最後の作品」として世に受け止められたのだ。


 まずそれは、ありきたりな飛び降り自殺であった。揃えられた靴、最後の晩酌にしたであろう空の缶ビール、それらの横にあと2つのものが転がっていた。そこにあったのは軸が出たままのボールペンと、メモ帳に残された新作の草案であった。ボールペンの軸が出ていたということは、彼はきっと直前までそのメモ帳にペンを走らせていたのだろうと人々に想像させ、そしてまたメモ帳に残されたものも、多くの人に刺激的に映ったのだ。

 今まで彼の送り出してきた緻密に練られ、意図的に意識を外された場所から真実が強襲する作品とは違い、ただただ書き殴るように描かれた青図面は正面から何度も何度も謎と突きつける構造であった。謎が謎を呼び、得た解もまた次の謎となる。草案のため余分な肉もなく早すぎるくらいテンポよく動き回る物語に否応なく人々は関心を持たされた。彼が死した当日だというのにワイドショーではそのメモ帳についてひっきりなしに意見がかわされていた。そこまで白熱したのには、もう一つ要素があった。その草案の最後の1ページは空白で終わっているのだ。多くの謎を連ね、連鎖的に真実へと歩を進める主人公を描き、そして最後の謎をつなげることができれば自ずと真実が現れるだろう。というところで、メモ帳に一枚の空白を残して彼は生涯を終えたのだ。それは草案そのものの魅力があってこそではあるが紙に残された空白にこそ、人々は興味を覚えた。

 ウェブ上でも、様々な憶測が飛び交った。主に物語の最後はどのように終わるのかということ、そしてこの空白の意味についてだ。彼はどのような終わりを考えた上で、それを書かずに生涯を終えたのか。なぜそれを書かなかったのか。書かれている内容から類推するに結末はこうだ、いやこうに違いない。あの作家のことだ。我々では気づけない箇所を伏線として拾うつもりだったに違いない。もしかしたら結末を隠すために別の紙に書いて保管していたのではないか。違う、そんなありきたりなことを彼がするはずがない。いや、そうに違いない。彼の書斎を洗うべきだ。などなど。いつしか人々は彼の死そのものよりも彼によって残されたシチュエーション、この現実世界がフィクションの中に入り込んでしまったかのような感覚、自身がその物語の主人公であるかのような錯覚の方にのめり込んでいった。

 『紙とペンと空白』そう名付けられたドキュメンタリー映画はその謎を解き明かさんとする主人公たちに密着し、描かれたものだ。

 ある者は地道に過去の作品を当って、次々と出てくる謎との相関性を見出す。またある者は、微妙な筆跡の変化からブラフの謎と本筋に関わる謎を切り分けた。遺族に話を聞く者、彼の交友を探る者、過去に書かれたブログなどから類推を重ねる者。彼らすべてが自分こそがこの空白を解き明かすものだと自負する。そしてそのドキュメンタリー映画を見た各々もまた、推理と考察と当て推量の熱に当てられ次々と持論を組み立てて行くのだ。

 そうして何年もの時が過ぎて幾多の考察が上がるもののこれこそがという結論は出ないままこのブームは去っていく。熱心に自身の説を推す者たち以外この正解の出ない問などというものに興味を持ち続けるのは難しいというものだ。

 それに、存外に答えがないからこそ話題は広まり、皆持論を掲げるに至ったという面もあるだろう。屋上に今でも手向けられている花を複雑な面持ちで眺めている幽霊にもし、インタビューできたとしても、

「何も思いつかなくて酔った勢いで飛び降りただけなんだけどなぁ……」

 などと苦笑いを返すだけなのだから。

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『空欄を埋めよ』 尭邑 @vio3

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