紙の栞、ペンで綴る、ワタシたち文庫

橘 ミコト

紙の栞、ペンで綴る、ワタシたち文庫

 僕には好きな子がいる。

 しかし、喋った事はない。


 人見知りがちな性格で、友人もそう多くない僕。

 好きな女の子に話しかけるなど、そんな大それた勇気を持っている訳がなかった。


 物静かな彼女の、窓際の席で楚々と本を読む姿に、僕の心が奪われただけ。

 一方的な片思い。

 同じクラスというだけで、どうして思いを伝えられるだろう。


 出来る事は盗み見る程度だ。


 開け放たれた窓から差し込む日差しを黒い髪は反射する。

 たおやかな指先でめくられる紙の本。

 衣擦れのような音をたて、一枚、また一枚と愛おしむ。

 薄くピンクに色づいた頬とは対照的に赤い健康的な唇。

 背筋はピンと伸び、心なしか腰かける椅子も綺麗に見える。


 そんな姿。


 真正面からは見られない。

 視線が合う事にでもなれば僕は心を保てないなど容易に想像できるのだから。

 見るのは後ろか横から。

 囃し立てるような友達もいないが、気付いている友人ならいるだろう。

 それくらいは分かりやすいはずだ。


 眺めているだけで何故かすぅっと、僕の胸の内は軽くなる。

 だから、これでいいと。そう思っていた。

 そう、思っていたんだ。



 ――



 ある日、僕は気が付いた。

 彼女はいじめを受けている。


 女子というものはどこか陰湿な側面を持っている。

 男子のように表立った喧嘩というものをしない。

 やるのは今の彼女がそうであるように、無視といったもの。

 クラスの中心で笑い声をあげる女子が、一言「気に入らない」と言えばこれだ。

 なんて恐ろしい。

 僕たち男子は震えるばかりである。


 彼女は日に日に憔悴していった。

 元々溌溂とした子ではないし、今でも数人は話しかける女子もいる。

 しかし、その頻度は以前と比べるのもおこがましく、逆にクスクスと陰口を言われ続けていれば、それは誰でも気が滅入るだろう。


 小心者の僕は当初は見守る事しかできなかった。

「やめなよ」と言う勇気が、僕には到底持てなかった。


 だから、僕は彼女にある物を渡した。


 帰り道、人気のない夕暮れに染まる午後。

 無言で、視線も合わせず、それすらもできず。

 ただ一枚のカードを渡した。


 彼女は随分と驚いていた。

 それもそうだろう。

 今まで一度も話したことのないクラスメイト、しかも男子からだ。

 得体のしれない何かを渡された、とでも受け取られて不思議はない。


 それでも彼女は恐る恐る受け取る。

 そして、一言こういった。


「ありがとう」


 彼女は泣いていた。

 初めて、彼女を正面から見た。



 ――



 渡したのは「ワタシ文庫」という栞だ。


 今ではプライバシーの問題等で廃れた、図書貸し出しカードというものがあった。

 誰が、いつ、何を借りたのか。そういった情報を学校の図書館などが記録しておく物である。

「ワタシ文庫」は郷愁漂うこのシステムを参考にしたもので、二つ折りの紙に日付、タイトル、作者、簡単な感想を書き込める欄があり、普段は栞として扱う。


 本を読めば読むほど、の好きな作品だけが集まる。

 そういう栞だ。


 けれども、今回は別の使い方をした。


 ――君の好きな作品を教えて。


 始めの一行目。

 僕の好きな作品の感想欄に書いた言葉。


 これは、ワタシで作る文庫ではない。

 で作る文庫。


 恐らく、男子の僕が表立って庇ったら、余計女子の反感を買う。

 単に勇気がないのもあるが、だからと言って声を上げるのも違うと感じた。

 それならば。他人に無視をされるなら、僕が話相手になればいい。

 だけど、何か話題が欲しかった。

 アドバイスなんて、男の僕にはわからない。

 だから、彼女の好きなならば、きっと前向きになれるのでは。

 

 君を直接助ける事はできないけれど、君を支える事ができるなら。 


 そんな独りよがりの考えで、これを渡す勇気が何故出てきたのか。

 それは今になっても分からない。



 ――



 その日から、僕と彼女の奇妙な文通が始まった。


 唯一のルールは読み終わってから栞を渡す。

 昔読んだものではなく、今、読み終わった物。


 最初は暗い作品ばかりをお薦めされた。

 主な理由は主人公に共感できるから、だそう。


 ならばと僕は明るい作品を薦めた。

 元気がでるから、と。


 彼女を好きになってからよく本を読むようになった事が、こんな事で役に立つとも思わなかった。

 いや、よく本を読むようになったからこそ、こんな事を思い付いたのかもしれない。


 本当は助けてあげたい。

 格好良く、本に描かれるヒーローのように。

 しかし、現実の僕はヒーローではない。

 ヒーローには、なれない。


 力を籠めたら右手に握るペンが滑り飛んだ。

 少しの間を置いてから、机の下に転がったペンを拾う。

 そして、何とは無しに、あまり綺麗とは言えない自分の部屋を眺めた。


 次に彼女に伝える本は、どんな本にしようか。



 ――



 段々と彼女の感想が激しくなってきた。


 前までは悲しいや辛いといった気持ちが滲んでいた栞に、今では怒りが垣間見える。

 理不尽な苛め。

 特に何か迷惑をかけたわけでも、変に目立った訳でもない。

 日々を穏やかに、慎ましく過ごしていた。

 それなのに。


 本を読むペースも早い。

 渡したその日には栞が返ってくる。


 そこに彩られた彼女の筆跡は控えめで可愛らしい文字なのに、何故か書き殴られたような、彼女の叫びのように見えて仕方なかった。


 ならばと僕は大衆娯楽作品を薦めた。

 読んでいてスカっとするような奴だ。

 普段は近代文学ばかり読んでいるようなので、こういった毛色の違う作品も面白いよと添える。


 どうやら彼女は、思ったよりも激情家らしい。



 ――



 それなりに長い間、僕らの関係は続いた。

 今では彼女の教えてくれる作品も、それに付随する感想も、色鮮やかで美しい。


 しかし、往復するペースは落ちた。

 毎日から隔日、週三、週一……。

 彼女の頬が薄いピンク色に戻るにつれて、僕らのやり取りは減っていった。


 理由は簡単だ。

 いじめがピタリと止んだのである。

 元々、大した原因のないものであったのだから、それが終わるのも唐突なのだろう。

 彼女の周りには、以前のように友人がいる。

 もう、彼女は一人じゃない。


 もう、僕は必要ない。


 それが分かれば十分だ。

 彼女のピンと伸びた背筋に、物静かさではなく力強さを感じるのは、それだけ彼女の事を知れたから。

 それで、十分だ。


 それからもうしばらく経った頃。

 彼女から、栞が返ってこなくなった。



 ――



 僕の日常は戻った。

 週に一回はやりとりしていたのが、二週間は音沙汰がない。

 きっと栞が戻ってくることはもうないのだろう。


 好きな彼女の後ろか横を、盗み見るように眺める。

 結局、彼女の顔を目を、まともに見れたのはワタシ文庫の紙の栞を渡した時だけだった。


 彼女はあの栞を未だに持っているのだろうか。

 もう捨ててしまったのだろうか。

 もし大事に取っておいてくれているなら、そんな考えが脳裏をよぎる。

 告白をする度胸もない僕が、何を馬鹿な夢を。

 せめて、友達くらいにはなれていたら良いな、と。あくまで自分の事しか考えていないのだ、僕は。


 彼女を助けるためなら、他にも方法はいくらでもあったろう。

 にも関わらず、僕は彼女と文通紛いの事をしただけだ。

 それが、どれだけ彼女の助けになったという。


 自嘲が渦巻く胸の中。

 下がる視線を伴って向かった下駄箱。

 その中に、それはあった。


 紙の栞。

 「ワタシたち文庫」。


 呆けたようにその場で立ち尽くした後、震えそうになる手を持ち上げる。

 少しざらついた紙を掴み、ゆっくりと眼前に運ぶと、ペンで描かれた文字を追った。


 途端、西日が差し込む昇降口に一つの影が生える。

 逆光だ。

 しかし、それが彼女であると分かった。

 暗くてよく見えない顔も、そもそも殆ど見た事がないのだから、直ぐに分かってしまった事が何だか恥ずかしい。


 彼女は歩く。

 僕に向かって、ゆっくりと歩く。


 普段は見る事すら躊躇う彼女を、今日は真っ直ぐ見る事ができた。

 少し吊り目で、黒目がちの瞳。

 揺れ動く黒に映るのは僕だ。

 頬は赤く染まっている。

 緊張しているのだろう、口は真一文字に結ばれていた。


 それでも、歩みは止まる事なく、いずれ僕の前に着く。


 すると、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。


「ワタシたち文庫」。

 僕が最後に彼女へ勧めたのは、


『初恋』。

 島崎藤村。


 返ってこなかった時は死ぬほど後悔した。


 そして、返ってきた時にお勧めされたのは、


『夕されば 蛍よりけに燃ゆれども 光見ねばや 人のつれなき』

 紀貫之。


 まさかの和歌だった。

 しかし、その意味は、


『夕方になれば私の思いは蛍より激しく燃えるのだけれど、光が見えないのか、あの人はつれない態度ばかりだ』


 つまり――。


 思わず栞と彼女の顔を行ったり来たりする。

 彼女の顔はますます赤くなっていった。

 まるで林檎のようだ。


 僕は深呼吸をすると、一度天井を見上げてしまう。

 周囲に人がいないのも助かった。


 急速に乾いた喉を唾で誤魔化す。

 一度手の平をズボンにこすりつけると、僕は右手をおっかなびっくりと差し出した。

 俯いた彼女はそっと、その手を握る。


 そのまま、僕らは手をつないで帰った。

 夕日の眩しいアスファルトを、二人並んで歩いて帰った。



 その後、栞が使われた事はない。

 けれども「ワタシたち文庫」は、今も大事に取っておいてある。

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