紙とペンと縁切りの神さまにお願い

奏 舞音

紙とペンと縁切りの神さまにお願い


 まず、紙とペンを用意する。

 そして、縁を切りたい相手の名前を書いて。


新橋しんばし優也ゆうや


 相手の名前を書いたその紙をハサミで切り刻み、トイレに流す。

 ジャーっと勢いよく水洗トイレが刻まれた紙を呑み込んでいく。その様子を見て、私はすっきりとした気持ちで微笑む。


「よしっ、これで完璧!」


 そう意気込んだ矢先、スマホが鳴った。

 非通知設定からの電話だ。


「もう、いい加減にしてよ」


 大きな溜息を吐いて、私はスマホの電源を切る。

 着信の相手は、先程トイレに流した男だろう。



 私は、藤本ふじもと成海なるみ、三十歳。つい先日、結婚を前提に三年間付き合っていた彼氏と別れた。


 信じられるだろうか?

 「可愛いよ」「心から愛してる」と囁かれた直後に、別れを告げられるなんて。

 彼、新橋優也とは二十七歳の時に婚活パーティーで出会い、彼からのアプローチで私たちは付き合った。二歳年上で落ち着いていて、優しい彼のことを好きになるのに時間はかからず、交際は順調に進んでいたはずだった。

 私が三十手前になり、そろそろ結婚を……と具体的に考えはじめ、彼の両親へ会いに行ったことが、きっかけだった。


「母さんに成海とは合わないって言われたんだ。付き合うことは許すけど、結婚は駄目だって。俺は本当に成海のことが好きで、辛いけど、成海のためには、別れた方がいいと思う」


 おかしいとは思っていたのだ。

 付き合って一年が経った頃、そろそろ彼の両親に会ってみたいと言った時には結婚する時に会わせるから、とはぐらかされたし、そもそも三十にもなって実家暮らしで、旅行以外の外泊は絶対にしないし、母親の車に乗って自分の車を持っていなかった。

 今思えば、気づくヒントは転がっていた――彼が重度のマザコンで、親の言いなり人間だということに。


 そうして、私たちは終わった……はずだった。


 しかし、別れて一週間後、彼から頻繁にやり直したいという連絡がくるようになった。


「やっぱり俺には成海が必要だ。愛してる。俺から別れを告げてるのに、悪いと思ってるけど、諦めきれない」

「でもお母さんのことは?」

「説得するよ。俺が成海と結婚するなら、親子の縁を切るって言われて、正直どうしたらいいか分からないけど……」

 自分だけが苦しんでいるような、傷ついているような顔をして、マザコン男は残酷な言葉を吐く。

 彼の母親とは、一度しか顔を合わせていない。その一度で、私のすべてを否定されたのだ。そして、彼は私と過ごした三年間はまるで無意味だったかのように、私を手放したのだ。

 そんな男と結婚して、私を気に入らない母親に気を遣いながら生活するなんてこちらからお断りだ。


「私たちはもう終わったの。優也はお母さんが認める人と結婚すれば?」


 そうして、私は彼からの連絡がきても出ないように連絡先を消して、着信拒否設定もして、SNSもブロックした。

 それなのに、まだこうして非通知の電話がかかってくる。

 縁切りのおまじないを何度しても、まだ彼との縁が切れていない。


「これはもう、神頼みしかないわね」


 そうして、私は次の休みに縁切り神社へ行くことにした。


 彼との悪縁を断ち切って、新しい良縁を結ぶために。



  ◇



「どうか、どうか、マザコン男との縁がきれいさっぱり切れますように! そして、この憐れなアラサー女に新しい良縁を!」


 お願いします、神様! と必死に懇願していると、ぽんぽん、と後ろから軽く肩を叩かれた。


「あの、神様はきっと一度で願いを聞き入れてくれると思いますよ」


 振り返ると、神主さんが申し訳なさそうな顔で立っていた。白衣に紫の袴を着ていても分かる、がっしりとした体つき。黒髪黒目に涼やかな目元、はっきり言って、タイプの顔だった。

 しかし、彼の後ろで私を可哀相な目で見る参拝客を見てハッとする。祈ることに夢中で、ずっと本殿の前を陣取っていたらしい。恥ずかしすぎる。


「も、申し訳ありませんでした!」


 私は真っ赤な顔で頭を下げ、逃げるようにその場を去った。息を切らして走り終えると、神社の敷地内の池の前にいた。

 池には赤や黒のまだら模様をした鯉がゆったりと泳いでいた。

「いいなぁ。気持ちよさそう」

 強めの日差しが木々によって遮られ、心地よい。先ほどの出来事を忘れよう、とのんびりと鯉を眺める。

 ざく、と後ろで砂利を踏む足音が聞こえたかと思うと、ついさっき私にやんわりと注意してきた神主さんがいた。もしや、また何かやらかしていたのだろうか。

 少し怯えた顔で神主さんを見つめると、神主さんはにっこりと微笑んだ。


「あの、さっきこれを渡したかったんですけど、すぐに去ってしまったので……迷惑だしお節介かなとは思ったのですが、放っておけなくて」


 神主さんの手には、縁切りと縁結びのお守り。

 私の必死な様子を見てお守りを売り込みに来たのだろうか。


「あ、ありがとうございます。お守りも買おうと思っていたんです。おいくらですか?」

「お代はけっこうですよ。僕があなたに悪縁との縁切りと、良縁を結んで欲しいと思ったので。一応、あなたの祈りが届きますように、と願いを込めました」

「神主さんが、そんなことしていいんですか?」

「今は休憩中なので、プライベートということにしておいてください。それでは、僕はこれで」

 私にお守りを渡しただけで、神主さんは去っていった。何か下心があるのかも、なんてうっすら期待していた私が馬鹿に思えるほど、爽やかに。

「かっこいいなぁ」

 はっきり言って、優也は私のタイプではなかった。結婚するために必要なのは安定で、顔だけが良くても駄目だと思っていたから。

 でも、いざ自分のドストライクのタイプの人が目の前に現れたら、やっぱりドキドキしてしまう。

 神主さんにもらったお守りを大切にカバンにしまい、私は長居していた神社を後にした。




「マスター、おかわり!」

「はいよ。あんまり飲みすぎると駄目だよ」

「大丈夫ですよ~。独身アラサー女の楽しみなんて、お酒と美味しいごはんぐらいなんですからぁ」

 えへへ、と笑いながら、私は何杯目かのハイボールを口にする。

 縁切り神社の帰り道、お洒落なバーを見つけた。普段、お酒は嗜む程度だが、最近嫌なことばかり思い出すので、やけ酒をしたい気分だった。

 一人なのでカウンター席に座って、マスターと何気ない世間話をする。とても新鮮で、楽しくて、どんどんお酒は進んでいった。

 そうして、入店して二時間ほどで私は出来上がっていた。


 カランコローン……店の入り口で音がした。新たな客が来たらしい。


「いらっしゃい」

 マスターの声に一瞬そちらに顔を向けると、昼間の神主さんがいた。白装束姿も素敵だったけれど、白シャツに黒デニム姿の私服もイイ。

 じぃっと見惚れていると、神主さんから声をかけられた。覚えてくれていたのだ。

「あれ、すごい偶然ですね」

 ごく自然に、彼は私の隣に座った。お酒が入っているせいで熱くなっている顔が、ますます熱を持つ。

 神主さんがオフの時こんなに色気たっぷりなんてずるくないか。

「はい、あの今日は本当にありがとうございました! お守り、大切にします」

「よかったです。マスター、ビールを」

 彼がいくつかメニューを注文し、ビールがテーブルに置かれた。

「僕は泉田いずみだ涼介りょうすけ。あなたのお名前をお聞きしても?」

「藤本成海です」

 私の名前を聞くと、涼介さんはにっこりと微笑んで、ビールを持ち上げた。


「成海さんの縁切りと良縁に、乾杯!」


 いつの間にか、聞き上手な涼介さんに、私はマザコン男とのあれこれを涙ながらに話していた。友人に別れたことを告げた時も、こんな風に泣いたりしなかったのに。

 お酒の力なのか、涼介さんの持つ独特の優しい雰囲気のせいなのか。

 分からないままに、私は愚痴にも近い後悔と怒りを涼介さんに吐き続けた。


「彼が、馬鹿正直に母親から聞いた理由を話してくれたんですけどね。私、両親がいないんです。ちょうど、彼と付き合ってすぐ交通事故に遭って……その時に私を支えてくれたのが彼で、この人と一緒なら何でも乗り越えられるって、本気でそう思っていたんです。でも、それが理由で。私には祖父母がいて、両親がいない分、結婚したら彼がすべての面倒をみなければいけないと思われて。自分の息子にいらない苦労はしてほしくなかったんでしょうね」

 自分が一番可哀相だと思っていた優也は、母親から聞いた、いかに私と結婚することが不幸か、という話を私にした。その言葉が、どれだけの刃となり、私の心を傷つけるかも知らないで。

「私は、人の苦労も挫折も知らずに親の言いなりになっているだけの男を、頼りがいのある人だって勘違いしていたんです。本当に、馬鹿な女ですよ」

「成海さんは、一生懸命だっただけです。自分を貶めるようなことを言わないでください」

 ね? と優しく微笑まれると、頷く以外の選択肢が見つからない。


「それに、僕思うんですけど、今までその元彼さんとの縁が切れなかったのは、成海さんの中でまだけじめがついていなかったからかもしれないですよ? 案外、縁切りなんてその人の心次第だと僕は思っているんです。だから、今日ここで感情を吐き出せたことは、成海さんが新しい良縁に向かって歩いて行くきっかけになりますよ」


 その言葉で、ただでさえ崩壊していた涙腺が決壊した。


「うぅ、涼介さん、もう大好きぃぃ……!」


「僕も、成海さんが好きです。神社で必死に祈ってる姿がなんだか可愛くて、一目惚れだったんです。また会えるとは思っていなかったので、すごく嬉しくて。もしよかったら、付き合ってもらえませんか? 絶対に、この縁を悪縁にはさせませんから」


 勢いの告白に、本気の答えが返ってきた。私にはやっぱり、頷くことしかできなかった。

 

 あの神社には、本当にご利益があったのかもしれない。

 だって、マザコン男のことを一瞬で忘れさせてくれて、本気で気遣ってくれる素敵な男性と出会えたのだから。


 涼介さんと私が結婚して、良縁を実感するのは、もう少し先のお話。


 

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紙とペンと縁切りの神さまにお願い 奏 舞音 @kanade_maine

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