花とカーディガン

森乃 梟

第1話

 三寒四温、少しずつ暖かくなり始めた高校二年の終わり、僕は進路先を書けずに迷っていた。

どうしようもなく気晴らしに散歩に出た先で、一人の少女と出会った。赤いカーディガンを着た少女が後ろから僕の服のすそを引っ張ったのである。

「どうしたんだい」

と尋ねる僕に何かを伝えようとしているが、決して口は開かない。

「何を伝えたいのかな」

再度、彼女に尋ねると、手を使って何かを表現しようとしている。

 手話だ! 僕には手話は判らない。

「ちょっとここで待っててね。すぐに戻るから。」

身振り手振りでなんとかそう伝えて、僕は家まで戻り、急いでノートとボールペンを持った。

彼女は待っていてくれるだろうか。そう心配しながら、急いで彼女に会った場所まで戻った。


 果たして彼女はそこに立っていた。そうして僕を見上げると嬉しそうな表情をしてくれた。僕はノートに

『声はきこえる?』

と書いた。ううんと首を振る彼女。

良かった、どうやら文字は読めるようだ。安堵あんどした。

 そこで、今度は

『どうしたの?』

ときいてみた。

ひらがなで

『メルがいなくなった』

と書いた。

『メルって、どんな子?』

と書くと、彼女は

『犬』

と書く。

『どうして、いなくなったの?』

『花をみつけて とっていたから』

よく見ると、彼女は小さな手に白い色の香りの良い花を持っていた。

確かスイセンかな? 花にはうといので、全くのうろ覚えだ。しかし知っている花とは明らかに色が違った。

全てが真っ白なのだ。

「この花は園芸種だろうから」

と僕はつぶやいて考え始めた。この花を植えているプランターがある家や公園のいくつか当たりをつけた。


『きみがメルとはぐれたのは、ここじゃないね?』

ときくと、こくりとうなづく。

『どこで この花をみつけたの?』

ときくと、少女は僕の手を引っ張り歩き出した。

 犬とはぐれて探しているうちに迷子になったのか。

彼女はどんどん歩いていく。見覚えのある風景は、やがて見知らぬ家の角を曲がり、通学バスでも通らない細い道を入っていく。

 大丈夫かな。

自信が無くなってきた頃、隣町の小学校に来ていた。プランターには同じ形だが、薄いベージュに黄色の中心の花が風に揺れていた。


『これは、とっちゃいけない花だよ』そう書くと、彼女は申し訳なさそうな顔をした。

 この学校の生徒かな?

そう思い、

『おなまえとクラスは?』

ときくと、ふるふると首を振る。

『ここの小学校にかよっていないの?』

にこやかな笑みで、うんと頷く。


『なまえは、なんていうの?』

少女は僕からペンを取ると

『東雲 碧』

と書いた。これには参った。名前の読み方はいく通りもある。しかも最近では、変わった読み方をする名前が増えている。どう読んで良いか困ってしまった。

『みどりちゃん』

ううんと首を振る。

『あおちゃん』

これも違った。


 苗字を聞こう! 

恥ずかしながら、僕には「東雲」という字が読めなかったのだ。

『東雲 って、なんてよむの?』

『しののめ』

 心当たりがない。手詰まりだった。


辺りは薄暗くなり始めた。

 急がないと!

『今、きた道、引き返せる?』

ときくと、こくりと頷いた。

『戻ろうか?』

と書くと、彼女はまた僕の手を引いて歩き始めた。小さな手の温もりが伝わってくる。


 僕が見知った所まで来た時、今度は僕が手を引いて、少女の持っている花が咲いているであろう、心当たりのある場所を幾つか行ってみた。

しかし薄暗い中でも判る程、どの花もはっきりと色が違っていた。


 途方にくれて、

『お兄ちゃんの家にいこうか?』

と尋ねた。こくり、僕を信じてくれたのが嬉しかった。ぎゅっと握った手の温もりは、僕を信じてくれていることが伝わってくる。


 少女の手を引いて家の近くまで来たら、母が見知らぬ女性と話していた。その女性は、僕を見ないで後ろの少女を見て駆け寄ってきた。そして、ひしっと抱き締め泣きそうな声で話す。

「みどり、みどり。メルを置いてどこに行ってたの。心配したんだからね。」

女性の手にはリードがしっかりと握られており、ゴールデンレトリバーを連れている。

「メルって、この犬だったのか」

僕は少し狼狽えた。「メル」という可愛らしい名前から、ポメラニアンやトイプードルのような小型犬を想像していたからだ。


 はて? 「みどり」とな? 読みは合っていたのに、なぜ彼女は「うん」と頷かなかったのか?

疑問に思っていると、みどりの母親らしき女性がメルを連れて近付いてきた。

そうちゃん、お久しぶりね。こんなに大きくなって。碧のこと、本当にありがとうね。」

近寄ってきた母が付け加える。

蒼太そうた、お隣のあかねお姉ちゃんだよ。アンタ、小さい時、沢山遊んでもらったでしょ?」

「お隣の西園寺の茜お姉ちゃん?」

「そうよ、蒼ちゃん。」

「茜ちゃんは遠くに嫁いだから、久しぶりのお里帰りなんだって。」

 段々と僕の頭の中で整理できつつあった。

「茜さん、東雲って苗字になったの?」

おずおずときくと、

「蒼太、ちゃんと話したでしょ?」

と母。

 幼い頃のコトなんて覚えてないやい。

つい、昔の言葉になって

「茜お姉ちゃん、この子の名前、みどりで合ってるんだよね」

むくむくともたげる疑問に迫る。

「うん、蒼ちゃん。みどりよ。」

僕は振り返ると、碧に向かってノートを開こうとしたら、茜お姉ちゃんがパッと取り上げ、パラパラとノートをめくりながら話す。

「蒼ちゃん、ごめんね。碧は口がけないから、大変だったでしょう?」

「うん、まあ少し…。それより茜お姉ちゃん、僕は《みどり》ときいたのに頷いてくれなかったんだ…。」

心配でいっぱいだったろう茜お姉ちゃんが少し笑った。

「蒼ちゃん、『みどりちゃん』って書いてる。碧は男の子よ。」

 えっ? それで頷いてくれなかったのか。僕は思い込みの激しさを反省した。

「でも、碧は赤のカーディガンを着ていたヨ?」

「それは、碧のお姉ちゃんのお古だからよ。」


 二軒の門灯が点くと、お隣の庭先と門前に香りのよい白い花が咲いていた。碧の持っていた花と同じだった。

「この花を頼りに何軒も歩いてたんだ。」

「スイセンね。ここを出る前に欲しがったから、一本持たせたのよ。他では見ない色でしょ?」

「ああ。この花を頼りに探してたんだけど、どこも色違いばかりだった。茜お姉ちゃん、碧は隣町の小学校まで歩いていったんだよ?」

「まあ、大変だったでしょ。あの小学校までお散歩するのが、ここのところの日課だったから。」

僕の勘違いだったのか? どおりで小学校の花の色と違って訳だ。

「碧、小学校で花を抜くなって書いてごめんな。」

聴こえない碧の頭をくしゃくしゃと撫でた。碧は、僕を見て笑った。


 この小さな冒険で、僕は先入観の恐ろしさを知った。

碧は、茜お姉ちゃんが帰るまで、僕の所に遊びに来た。


 これからは、決して先入観だけで判断するのはやめよう。

僕は碧のような、ろうあ者の学校の先生になろうと決めた。僕のてのひらは小さな碧の温もりを覚えている。


 それから僕は、手話を習い始めた。次に碧がやって来たら、少しでも手話で話したいからであった。 


 季節は移り、西園寺の庭ではチューリップの花が咲いている。



         終わり

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