祈りがとどく気がした

千住

真壁が死んだ

 芸用解剖学の講義中、後ろの席の後輩のお喋りで知った。


 単位を落として二周目の講義。退屈で寝ぼけていた脳みそが、一気にぎんと張り詰めるのを感じた。いつの話なんだろう。学年も違う、サークルも違う俺の耳にどれだけ遅れて届いたのだろう。


 真壁凛香まかべりんかは絵に描いたような優等生だった。国立の芸大には珍しくないタイプだが、落ちこぼれの俺にまでやさしく振る舞うやつは珍しいと思った。ダブった講義で出会い、その生真面目が透ける線を見るたび、どんどん目が離せなくなっていった。そういえば最近いないなとは思っていたけど。


 なんでいないの知ってる? 


 シャープペンの芯がぼきんと折れた。あー。


 ずっと見てたのか俺。あー。やべー。やべー。きつい。

 俺、真壁のこと好きだったんじゃん。死んでから気づくのアホか?


 机に突っ伏すると腹に何かがつっかえた。スケッチブックだ。誰かが忘れていったのだろう。退かそうと引き出して、その表紙の隅に書かれた几帳面な文字に息を飲んだ。『真壁凛香』。





 大学生にもなって持ち物に名前書くかよ。


 なぜか俺はスケッチブックを持って講義室を出た。廊下のベンチにどさりと座り、ページをめくってみる。


 まじめにまじめに、デッサンの練習がされていた。途中に、花の絵が挟まった。それ以降ぽつぽつ、好きで描いたんだろうなという絵が挟まるようになって。


 最後のページは、男の絵だった。大学のどこかの廊下を歩く男が、こちらに気づいて軽く振り返っている。そんな絵だった。なんども消しゴムをかけて書き直した跡がある。その執着と必死に、俺は悟った。


「失恋したわー」


 ふざけて小声に出してみる。


 絵は未完成だった。俺はしばらく下書きの線をみていた。まじめに、必死に、ひたむきに引かれた線たち。


 真壁のことを、もっと知りたくなった。この場所を見つけて、この男を見つけて、この絵を代わりに完成させてやれば、真壁のことが少しわかる気がした。どうしてもやってみたくなった。もう聞けない真壁の恋話コイバナを聞くように、俺がこの絵を。


 まず手始めに俺は電話をかけた。


「エリカ? ごめーん、今夜どころかしばらく会えないわ。もうこれきりってことで」


『はぁ? いきなりなにそれ?!』


「好きな女ができた。死んでるけど」


『は?』


 まあお互い遊びだったしこれくらいでオッケーでしょ。


 エリカの番号を着拒し、俺はベンチを離れた。




 なににも真面目になったことがなかった。真面目になるのは、下手に出ることだと思っていた。目の前の物事に対して。真面目になった時点でプライドが死ぬと思っていた。


 夕焼けに染まりゆく大学で俺はタバコをくゆらす。


 しっかしどうやって特定するんだ? こんな廊下、この大学に何本あるかわかったもんじゃねぇぞ? 黒縁メガネに紺のカーディガンだって何人いることやら。


 それに。


 俺は絵に目を落とす。廊下の角や窓枠からまっすぐ引かれ、一点に集まる線。この絵に直接手を加える気はない。模写から始めるつもりだが、講義をまじめに聞いてなかったツケが……。


 気づけば俺は教授室のドアをノックしていた。


「せんせ。消失点のつかいかた、教えてください。あとすごい模写のしかた」


「えぇ?」


 教授の顔には「なんでそんな初歩を?」「なんでいま?」「なんでおまえが?」と様々な表情が浮かんでいる。しかしそれも俺の真剣なまなざしを見てか、すぐに消えた。


「とりあえず、メールの返信が終わるまでそこで座って待ってなさい」





 課題は単位のために嫌々仕上げていた。そんな俺が、自らペンをとっている。自習室でイーゼルを立て、透明なフィルムを買ってきて格子状に線を入れ、真壁の絵にかぶせ、同じ大きさの別なスケッチブックに写している。


 最初は何もわからずただ写していた。ペンが手に馴染まない。でも今は真壁の気持ちが指先に降りてくる。風でこいつのやわらかい髪をなびかせたかったから少し窓が開いてるんだなとか。時計が午後なのは柔らかい光でこいつの横顔を照らしたかったんだなとか。


 見当違いかもしれない。見落としも山ほどあるだろう。でも俺にはそれで充分だった。もう話せない真壁、中身のない話しかできなかった真壁の心とちゃんと対話してる。そんな気分。使い慣れないペンが言うことをきかない。気の利いた言葉が出てこない瞬間に似て、もどかしい。


 この作業はなんだろう。葬いとは違う。


 絵の男は聖書を持っていた。

 キリスト教徒の知り合いが、祈りを神との対話だと言っていた。この世界にはもうないものとの対話を祈りと言うのなら、これは確かに祈りだろう。





 飯も食わずに模写してしまった。いつの間にか夜が更け、十一時を回っている。空腹のせいかヤニが切れたせいか頭がくらくらする。かすむ目で自分のスケッチブックを眺めた。


 真壁の線が引けない。俺の線になってしまう。


 ため息を吐き、とりあえずタバコを吸ってくることにした。絵の廊下を見つけられるかもしれないので、真壁のスケッチブックは持っていくことにした。屋上の喫煙所へ向かいながら考えこむ。


 講義をサボりにサボってきた俺が、誰かの線を真似れるようになるまでは途方もない時間がかかるだろう。それでも俺はやるつもりだ。


 屋上に着き、フェンスにもたれる。誰からもらったかも忘れたジッポを開く。煙が肺に満ちると、胸の奥に決意がわいてきた。


 真壁の絵を、真壁の線で完成させられるその日まで、何枚でも贋作を作ってやろう。今後の課題も自主制作も卒研もぜーんぶこれ。どんな課題だって可能な限りこの作品を見本につくる。


 そのためにも、せめて場所とモデルを特定しておきてぇなぁ……。


 フェンスの向こうでビル群が夜景を形作る。目が霞む。ヤニが頭にまで効いてこない。どうすればいいか全然思いつかん。


 屋上のドアが軋む。誰かが入ってきた。俺から少し離れたフェンスに寄りかかる。ライターの火で黒縁メガネが光った。夜風に、やわらかい黒髪が揺れる。紺のカーディガンと、その胸に光る金のロザリオ。


「……っ!」


 思わず力が入り、唇でタバコを潰してしまった。俺はプッとタバコを吐き捨てて踏む。


「ちょっとそこの人! 真壁凛香を知ってるか?!」


 まずった。名前も知らない、真壁の片想いだったかもしれないのに。


 男はLUCKY STRIKEの箱を持ったままきょとんと硬直した。キッツいの吸ってんな。一度口からタバコを離し、男は丁寧に答える。


「凛香は自分の妹ですが……」


 顎が冷たい。気づけば俺は涙をこぼしてボロボロに泣いていた。


 動揺する男の視線が、真壁のスケッチブックを捉えた。意外そうにスケッチブックと俺の顔を見比べている。


「もしよろしければ、この後一緒にお酒でもいかがでしょうか」


 俺は無言でがくがく頷いた。涙が散り、風に乗って飛んでった。夜景を作っていたビルのあかりが次々消えていく。長い一日が、祈りの日が、終わって明日が来ようとしていた。

 

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祈りがとどく気がした 千住 @Senju

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