紙とペンとフィリピンの武術

梧桐 彰

紙とペンとフィリピンの武術

 雨音をさえぎるノックの音がした。


「どうぞ」


 机に向かってタガログ語をつづりながら、女が答えた。


「入るぞ」


 乱暴にドアを開けて、体格のいい警官が入ってきた。制服につけた警棒やら拳銃やらを机にぶつけながら、彼は机に向かったままの女性に近づいていく。


 1953年。フィリピン共和国、首都マニラ。ここは海沿いにあるパグ=フラピン新聞という小さな会社だ。編集部には大きな机といくつかの木の椅子がおかれているが、今、部屋にいるのは二人だけだった。


 男は椅子を勝手に出すと、反対向きのまま、またがるように座った。背もたれに太い両腕を乗せる。えび茶のジャケットを着た女は書き物をやめなかった。


「カイラ。用はわかってるな」

「さあ」


 男の横柄な声は軽く流される。警官はぎろりと女をにらみつけながら続けた。


「最後の警告に来たぜ。昔の仲でも、もう話し合いはできねえ」

「昔の仲? 私にとって、あなたは一時期だけ道場に通っていた、知っている程度の人よ」


 女は金属のペンを握って、紙へ目を落としたままだ。男はなにかを噛み潰すようにぎりっと一度歯を鳴らしたが、ごくりと唾を飲んでから話を続けた。


「お高くとまってやがる」

「あなたのいる場所が低すぎるの。エミリオ、私は忙しいの。用を話さないならさっさと帰って」


 エミリオと呼ばれた警官はそれを聞くと、ごとりと拳銃を腰から抜いて机の上へ乱暴に置いた。それが彼にとっての、話を進めるための習慣だった。


 じっと拳銃に目を落とすと、カイラは静かにため息をついてから、持っていたペンを左手に持ちかえ、パチンと拳銃の隣に置いた。


 面食らった顔をして、エミリオが眉をゆがめた。


「俺の教養を試してんのか」


 女編集者は黙ったままだ。


「『ペンは剣よりも強し』だ。三銃士に出てくるリシュリューのセリフだ」


 男が背もたれに乗せた両手を組んでいった。


「正確には、エドワード・ブルワー=リットンが『リシュリューあるいは謀略』の第二幕、第二場で、作中のリシュリューに言わせたセリフね」


「そこまでは知らなかったよ。だがたしかにそれはその通りだ。お前のペンのおかげで俺の仕事が増えた。いいか、撃ったのは米兵。死んだのは日系人だぞ」


 警官が尻ポケットにねじこんだ新聞を机の上にたたきつけた。


「だからそう書いたわ」


 無造作にカイラがそれを手に取り、広げる。


「書き方がまずい。米兵が悪いといわんばかりだ。この国はアメリカの神経を逆なでして生きていられるような国じゃないんだ。あいつらが日本軍を追いはらったから、フィリピン第三共和国ができたんだぞ」


 カイラは新聞紙を一枚剥ぎとると、水滴が流れる窓を見ながら、それをくるくると細く丸め始めた。


「あの事件は明らかに米兵に問題があった。国籍に関係なく、盗みをしただけで射殺するのはやりすぎだわ」

「手向かったとか逃げたとか、どうとでも言いようはある」


 カイラは答えず、細い棒のようになった新聞紙を握ってひゅんひゅんと振った。雨音を切るような音が部屋を流れた。


「だからペンは怖いのよ。拳銃よりも。事実を書かなければ、ペンの被害は剣の比じゃないわ」


 女は細く丸めた新聞紙を、今度は左手の甲に巻き付けた。細い新聞紙が中指の指輪を覆っていく。シンプルな銀。兄の形見だった。


「子供みたいに新聞紙で遊ぶのはよしな。今すぐにあの記事は間違いだったって書き直せ」

「エミリオ。あなたが難癖をつけて無実の人を逮捕してるっていう記事を今書いているのよ。無実の人が何人も投獄されたり、いいがかりで射殺されたりした。私の兄も」


 カイラが言った。十分な証拠がなくはっきりとは言えなかったことだったが、それでもカイラは信じていた。


 エミリオはカイラの言葉に焦りを混ぜた早口で返した。


「あれは事故だ」

「だったら事故が多すぎる」


 雲が厚く、雨が強くなっていった。カイラは手に巻き付けた新聞紙を握りながら、どうしたいの、と言った。


「あの古臭い武術道場にいたころから、お前が固いのは知ってるよ。兄貴と一緒でな」

「エスクリマはフィリピンの伝統で、民族の誇りよ。かじった程度のあなたに語る言葉はないわ」


 雷が鳴り、急に雨が強くなった。


「武術なんか、こいつにかなうわけがない」


 エミリオが机の上に置いた拳銃をたたいた。


「ペンが剣より強いのは確かさ。ただ一対一なら話は別だ」


 カイラはじっとエミリオの目を見据えている。


「俺はお前の兄貴を殺して認めてもらったんだ。それが、お前のせいで台無しになりかけてる。記事を書き直さないなら、お前の額にこいつをぶち込んで、お前の部下に書かせるだけだ。手間がかかるだけで、やることに変わりはねえ」


 それを聞くと、カイラが立ち上がりジャケットを脱いだ。目に深い怒りが宿っていた。


「ようやく言ったわね」

「兄貴の事か」


 もう一度雷が鳴った。そこで、カイラが右手でペンを取った。


「同じ武術を習っていた身でしょう。不当な暴力に身を染めるなと言われたはずよ」

「エスクリマなんかなんだ。お前も兄貴みたいになるだけだ」


「兄が何?」

「あいつも棒とナイフエスパダ・イ・ダガで俺の拳銃に向かって死んだよ。エスクリマの道場じゃ指導員だったが、鉛玉を食らっちゃおしまいさ」


「侮辱は許さない」

「侮辱より命を惜しんだらどうだ」


 エミリオが拳銃を手に取り、それを女の額へ向けようとした。


「私と兄だけじゃない。あなたはエスクリマを、フィリピンを、正義を侮辱した」


 雷がもう一度鳴った。その音に重なって、カイラの手が動いた。


 拳銃の引き金に指をかけるより先に、カイラの拳がエミリオの鼻へ命中した。たとえ新聞紙でも、細く丸めて拳に巻くと、圧力が集中して石のように固くなる。女は続いて鉄のペンを手に取り、男の喉へ突き立てた。エミリオの銃弾は窓に命中して、雨の中へ消えていった。


 げふっと変な声でせき込みながら、エミリオが警棒を構えなおそうとする。その先にカイラはいなかった。カイラはステップで横に回り、死角から目の中にペンを差し込み、それを抜くと警棒を手品のように奪い取って首に引っ掛け、男の頭を机の角にたたきつけた。


「紙とペンが警棒と拳銃もしのぐ。これがエスクリマよ」


 カイラがペンを持ち替え、制帽の下に突きこむ。鉄製の文房具は、頭から生えた植物を思わせる位置で止まった。


 雷がもう一度鳴った。雨がひときわ強く降り注ぎ、割れた窓から床を濡らし始めていた。


 暴力と権力でマニラ市民に恐れられた汚職警官は死んだ。カイラは一人、雨の中へ踏み出した。


 女一人で立ち上げた企業も今日で終わりだ。家族にも友人にも、もう二度と会えないかもしれない。それでも自分が正しいと信じた道には代えられない。どうしても。


 まだ紙とペンの時代は来ていない。剣を使わなければならない。それでもきっと、剣を捨てられる日が来るはずだ。その日を楽しみに生きよう。今はまだエスクリマと共に生きよう。


 雷がもう一度鳴った。


 雨はまだやみそうになかった。


【了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紙とペンとフィリピンの武術 梧桐 彰 @neo_logic

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ