A'メロ

「神田くん、今頃テレビ観てびっくりしてるんじゃない?そろそろでしょ」

「うーん、どうだろ。ちゃんと病院に行きなさいって言って出てきたから、観てないかも」

 と、いいつつも、彼の驚く顔を想像したら自然と口角が上がってきてしまう。

 お店はまだまだ繁忙期の真っ最中だけど、今日は水曜日ということもあってかかなり落ち着いてる。学生さんや専業主婦の方から入ってる予約も午後から。同期二人でのおしゃべりタイムは十分に確保できた。

「あ、そこアイロン当てるとき気をつけなよ〜。本番でそれやったら、お客さんヤケドしちゃう」

「は、はい!ありがとうございます、気をつけます!」

 私が紙パックのミルクティーに夢中になっている間も、アヤは新人の子に的確な指示を送っている。視野が広いのは素直に羨ましい。

 うちの会社の方針で、春から入社予定の新人さんには少し早めに出社を始めてもらっている。猫の手も借りたいこの時期、アルバイト代くらいの給与と先輩美容師からの指導と引き換えに、簡単な業務を手伝ってもらっている。もちろん希望者のみなんだけど、それでも真面目な子たちが各店舗に一人ずつぐらいは配属されてくる。

「ん。それぐらいにして、そろそろお昼ご飯食べな?朝早くからありがとね」

 私のミニハンバーグあげるからおいで、と声をかけると、バックヤードからコンビニの袋を持って私たちのテーブルにやってきてくれた。



「先輩方、ほんとに優しくて、私この店舗でよかったです!はやく一人前になって皆さんの役に立てるようになります!」

 保温タンブラーに詰めたお味噌汁を紙カップに注ぎ、新人の子におすそ分けすると、ペコペコしながら一気にぐいいと飲み干してくれた。小動物のような菓子パンの食べっぷりが愛らしい、元気な女の子という感じだ。エミカという名前もしっくりくる。うんうん、私にもこんなときがあったな。同じ目線で見ていたのか、アヤも自分のサンドイッチを、あーんとエミカちゃんに食べさせている。

 私たちの日常のすぐそばには、怪物のようなモノがいる。それは普段は見えないだけでどこにでもいて、たまになんとも言えない不安や恐怖として私たちの前に姿を現す。子どもの頃は恐れていたはずの幽霊を克服する代わりに、大人は戦わなければいけない。怖くないはずの現実と。大通りに面したビルの三階からは、十代ぐらいの子達で街が埋め尽くされている様子がよく見える。

「あ、そういえば一昨日、スタバでで見かけましたよっ。ミズキ先輩」

 お隣にいたの、彼氏ですか?と、目をキラキラさせながら聞いてくる。この子、先週彼氏と別れたって言ってたのにもう立ち直ったのかな。

「そだよ、ちょっと離れたところでだけど、同棲してちょうど半年くらいかな」

「羨ましいです…。私なんか先週別れたばっかで…」

 アヤに頭を撫でられながら彼女は話を続ける。

「でも、喧嘩とかしてたんですか?私が居たの五分ぐらいですけど、二人とも全然話してないから、挨拶しないほうがいいかなって思っちゃいました」

「ああ、ちょっとね、いろいろあってね」

「…うわ、ごめんエミカちゃん、ちょっと飲み物買ってきてもらっていいかな…?大事なお客さんに連絡しなきゃいけないの忘れてたや」

 適当にお茶とかでいいよー、とアヤは手をひらひらと振ってエミカちゃんを送り出してくれた。

「…ほんとによく気がきく。助かったよーー」

「いやいや。私は危なっかしい会話を見てたら喉が渇いちゃっただけさ〜。神田くん、どうなの?」

「うーん、時間が解決してくれる!って、思うしかないかなあ。安心して、仲はいいから」

「そっかそっか。まあ、またいつでも話して。あ、もうそろそろ三谷さんが来る時間だから、私準備してくるね」

 ふとスマホの画面を見ると、ユウトから一枚の写真とメッセージが届いていた。

『病院行ったよん 

 ご飯ありがと、お仕事頑張ってね

 P.S. 猫にしといてあげたよ』

 写真を開くと、私が今朝描いてきた犬に首輪と長いヒゲが足されていた。失礼なやつめ。百歩譲ってクマでしょ。

 そんなことより、と、私の視線は送られてきた写真の隅に向かう。無造作に置かれたギター、それを見るだけで身体が跳ね回りそうになって、私は慌ててそのエネルギーを渾身のガッツポーズに集めた。

 ユウトがまた楽器を触ってくれている。

 今日の夜ご飯は、ユウトの好きなハヤシライスだな。

 いつもより軽い足取りで、私もアヤを見習って常連客のための準備へ向かうことにした。



 スーパーで買い物を済ませたころ、ユウトが荷物持ちのために迎えに来てくれた。私たちはいつものように買い物袋の持ち手を片方ずつ持ちながら、アパートまでの道のりを歩く。十分ほどのこの距離を私がデートだと認識してることは、多分まだユウトにはバレてない。買い物袋をしばらく見つめた後、ユウトがカタカタとスマホに文字を打ちこむ。

『もしかしてハヤシライス?』

 あたり、と返すとユウトは大きな目をさらに大きくしながら私から買い物袋を取り上げ、代わりに私の手はユウトの手の中に収まった。どこの誰が見てもデート、デートだ。

 ほどなくして自宅に着くと、玄関の小物置きに『浅田クリニック 心療内科』とシールが貼られたボールペンを見つけた。うっかり持って帰ってきちゃったのか。これでまたちゃんと行かなきゃいけなくなるね、と言うと、ユウトはため息をつきながらこっちを見つめ返してきた。

『そういえば 次はできたらミズキも一緒にって先生が』

 ポケットから取り出したメモ帳にユウトが書き込む。

「…ん、わかった。適当にお休みもらうよ」

 台所に向かい、袋から玉ねぎを取り出す。

 半年前から同棲しているこの部屋には、ユウトの声は響かない。いってらっしゃいの一言さえも。私が気づかないふりをしている間に、ユウトはローテーブルに置かれている求人誌をどこかに隠してくれるだろうか。歌えなくなった彼をステージの下から見ていた私が、それでももう一度あの場所に戻って欲しいと思っていることはただの傲慢なんだろうか。


 私たちの日常のすぐそばには、怪物のようなモノがいる。

 

 

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日々売る二人 淡々 @tantan1010

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