求愛求敗

古月

求愛求敗

とうぎょう! その命、このしゃ若水じゃくすいが貰い受ける!」


 いきなり正面切って踊りかかってきたその小娘に対し、鄧暁は椅子を蹴ってすーっと滑らせた。椅子は見事踏み出しかけた膝頭に激突し、小娘を転倒せしめる。小娘は頭から卓上の大皿へと突っ込んだ。


「お前、いい加減に諦めないか」


 鄧暁がため息も露わに言えば、がばっと顔を上げた小娘――謝若水は、顔面にべっとりと脂を塗りつけた状態で食ってかかった。


「なぜだ。なぜ諦めなければならぬのだ!」

「俺の食事を邪魔したのはこれで何度目だ?」

「二日ぶり三十八回目だ」


 こいつ記憶力良いな。

 鄧暁は妙なところで感心しそうになる自分をぎりぎり押し留めた。


「それだけ食事の邪魔をされた俺がどんな気持ちか、わかるか?」

「強敵たるこの謝若水と三十八回もまみえておきながら未だ命があるを喜んでいるのだろう!」

「そんなわけがあるか」

 こいつ、正気というものをどこかに投げ捨てて来たのではあるまいか。


「お前が真に強敵であれば、俺も相手をしよう。強い相手と手を交えるのは本望だ。だが、お前はそれに値しない」

「臆したか鄧暁!」

「おい、その耳は飾りか?」

 箸を伸ばしてその耳たぶを摘まんでやれば、謝若水は「あぎゃぎゃ痛い痛い!」と喚き散らし、両腕を振るって距離を取った。


「おのれ、今日のところはこれで勘弁してやる!」

 耳を押さえながら言ったのではどうにも格好がつかない。

「ようやく飯を食う暇をくれるのか。それは重畳ちょうじょう

「夜にまた来るぞ!」


 振り返りざまに饅頭を一つ掴み取り、謝若水は瞬く間に飯店を出て行った。鄧暁は深くため息を吐いた。


「……また来るのかよ」


*****


 ――誰ぞ、俺を殺せる奴はいないのか。


 いつしかそれが鄧暁の口癖となっていた。元より江湖こうこに生きる身の上、己の命など吹けば飛ぶ花弁のようなものであるが、鄧暁は特に自身の生命に執着がなかった。鄧暁にとっては剣こそが命。それなのに未だ、鄧暁は敗北を知らない。人呼んで「せんけん」。ひとたび剣を抜けばその軌跡を捉えること能わず。挑んだものは皆一人残らず敗れ去っていた。


 剣に敗れ剣の下に死す。それを鄧暁は求めているのに。いつしか彼の二つ名には二画増えて、「閃剣せんけん求敗きゅうはい」と呼ばれるようになっていた。


「今はお前に関わっている場合ではないのだ」

 角煮をつつきながら鄧暁は言った。その卓を挟んだ向かい側には謝若水が座っている。その体はだらりとして力が入っていない。

点穴てんけつで動きを封じるとはなんと卑劣な! くっ……殺すなら殺せ!」

 誤解を招くような物言いはやめてほしい。点穴はれっきとした武術であるし、毎回不意打ちになっていない不意打ちを仕掛けてくるのはどちらか。


 余人に迷惑が掛からぬよう丸一軒貸し切った宿、その食堂で二人は向き合っている。案の定、謝若水は予告通りに真正面から襲い掛かってきた。そこを鄧暁は返し技で取り押さえたのだ。要穴を押さえられた謝若水は全身の気力が萎えてピクリとも動けない。


「そもそもなぜ俺に執着する? 江湖で名を上げたいのなら俺でなくともいいだろうに」

 すると謝若水はふふんと鼻を鳴らす。

「私が名声のために人を襲うような輩と思うたか」

 え、そんな分別あったの? 鄧暁はわりと本気で驚いた。

「お前は……お前は、そう! お前は父のかたきなのだ!」

「今考えました感満載の適当を言っているな、お前」

「そ、そんなことはないぞ!」


 謝若水は食い気味に反駁した。


「昔、腹が減って焼餅シャオピンを買おうとしたことがあっただろう」

「日常茶飯事過ぎて覚えちゃいねぇよ」

「だがその時、お前より先に私の父が最後の一つを買ってしまった」

「俺はそんなことを恨みに思うような小物じゃねぇ」

「人の話は真面目に聴け!」


 すさまじく「お前が言うな」と言ってやりたいのを、鄧暁は我慢した。


「父はお前を憐れんで、焼餅を一つ分けてやった」

「ほう、それで?」

「それが原因で、父は死んでしまったのだ!」


 話の飛躍が半端ないぞ、おい。


 鄧暁は頭を振り、そして謝若水の背中をトンと叩いてやった。たちまち謝若水の点穴は解け、体の自由が戻る。


「何のつもりだ。もしや、ようやく私と手合わせするつもりになったか」

「なるか阿呆め。今日はもう帰れ。宿がないなら、ここで適当に泊まれ。だが絶対に俺の邪魔をするな。俺は明日、大事な用がある」

「それは「碧眼貪狼へきがんどんろう」のことか」


 鄧暁は驚いた。この小娘、どうしてそれを知っている?


 碧眼貪狼は江湖の悪人だ。鄧暁はちょうど五年前、とある因縁によってこの悪党と手を交えた。鄧暁の剣技を前に碧眼貪狼は命旦夕に追いつめられたが、そこで一つの取引を持ち掛けたのだ。


「閃剣求敗よ、今日の俺はお前に敵わない。だがあと五年あれば、俺はお前を追い越せる。どうだ、五年後の今日この日、この場所で、俺ともう一度勝負するというのは」


 命乞いの方便だと鄧暁は承知していたが、戦意を失った相手を斬るのも忍びない。そこで鄧暁は碧眼貪狼を逃がしてやった。

 意外だったのは、それ以降江湖で碧眼貪狼の噂を聞かなくなったことだ。多くの者はどこぞで死んだのだろうと噂したが、鄧暁だけはそうではないと知っていた。碧眼貪狼は鄧暁と交わした約束への誓いとして、五年後の勝負までは身を慎んだのだ。


 相手が約束を果たそうとしているのに、鄧暁がそれを破るわけには行かない。そして約束の期日はもう明日に迫っていた。


「お前は知らなくていいことだ。夜が明けたらお前は消えろ。もう俺を追い回すな」


 碧眼貪狼はどれほど腕を上げただろうか。もしかすると、鄧暁を上回るほどに成長しているやも知れぬ。そうなれば謝若水も追い回せまい。


 心のどこかで、鄧暁はそれを願っているのだ。


*****


 翌早朝、鄧暁は宿を出た。焼餅屋が一軒、もう店を始めていたので一つを買って朝食にする。そういえば五年前も、こうやって焼餅を食った記憶がある。


 道を進むうち、当時の記憶が蘇ってきた。路傍の樹木、路傍の岩、抉られたわだちの跡。そういえば、この轍に脚を取られた馬がいて、鄧暁はその背から転げ落ちそうになった子供を抱き留めた。あの時は一隊の旅団と同道していたのだ。元来一人旅であった鄧暁が、あの日だけは他人と行動を共にしていた。旅団の長が腹を空かせていた鄧暁に焼餅を一つ譲ってくれたからだ。


 そうだ、彼らと共にこの道を歩み、そして碧眼貪狼と出会った。


「……なんだ?」


 鄧暁は訝しんだ。道の先、碧眼貪狼が待ち受けているはずの場所から、剣戟の音が聞こえてくる。

 足音を潜めて近づき、木陰から様子を伺う。すると、思いもかけない光景がそこには広がっていた。


 碧眼貪狼がいる。得物の鉄棍を振り、額には汗を浮かべている。戦っているのだ。誰と?

 謝若水だ。こちらは無手で、碧眼貪狼の攻撃をひらりひらりと躱している。鄧暁の驚くまいことか。これまで見てきた彼女の動きとは明らかに違う、一流の武芸を備えた動きだ。


 碧眼貪狼と謝若水は激しく飛び回る。鄧暁は舌を巻いた。碧眼貪狼は確かに腕を上げた。あれに勝てるかどうか、かなり怪しい。しかしそれに輪をかけて驚いたのは、謝若水だ。あの小娘、あれだけの武芸を有しながらどうしてこれまではああもポンコツだったのだ?


「小娘が、いったい俺に何の用なのだ」

「お前は今日、閃剣求敗と決闘の約束をしているな? 私の望みはただ一つ、お前に閃剣求敗と会うことなく、ただちにこの場を去ってほしいのだ」

「何のために? 俺は五年間、奴を倒すためだけに技を磨いたのだぞ」

「だからこそ。私は閃剣求敗とお前とを会わせたくないのだ!」


 そのとき、鄧暁は思い出した。謝若水が髪を縛る布の切れ端。その柄には見覚えがある。馬の背から落ちた子供の擦りむいた傷を手当てしてやったときのものだ。


 さっと距離を取る謝若水。

「あの方は自身に勝ち得る者、命を狙う者しか気に掛けない。私はあの方に気に掛けてほしいし、強敵と出会って命を落として欲しくもない。ゆえにあの方が挑む者、すべて私が先んじて倒す。――碧眼貪狼、今一度問う! このまま大人しく引き下がるつもりはないか?」

「ない!」

「ならば、ご免!」


 謝若水が仕掛ける。腰の剣を縦に一回転させ、柄を背面に向ける。そのまま左手を前に掲げ、大きく前へ飛び出す。鄧暁ははっとした。あれは鄧暁の得意技「銀月円影」の初動ではないか。

 碧眼貪狼の突き。それが眉間に穴を穿つより一瞬早く、謝若水の右手が背面越しに柄を握った。一閃! 剣光が走り、鉄棍を断ち切る。その直後にはもう謝若水の剣は鞘に収まっていた。


 碧眼貪狼はがっくりとその場にくずおれた。

「その技は「銀月円影」に間違いない。だが、お前の技は鄧暁よりも鮮烈で素早く、そして正確だ。五年前は見切ったその技に、よもや今になって破れようとは。これでは鄧暁に挑む資格などあろうはずもない。わかった、今日のところは引き上げよう」

「ご理解、感謝いたします」

 謝若水は礼を尽くして碧眼貪狼を見送った。


 鄧暁はしばらく身をひそめたまま、その場から動くことができなかった。


*****


「鄧暁、いざ勝負!」


 今日も謝若水は鄧暁に飛び掛かる。鄧暁は椅子を蹴って飛ばし、謝若水の膝にぶつけた。わぁっ、と叫んで転びかけた謝若水だったが、その体はすとんと椅子の上に落ちて鄧暁と向かい合う。鄧暁がわざとそうなるように仕向けたのだ。


「お前、朝飯は食ったか?」

「まだだが?」

「では一緒に食おう」


 謝若水はきょとんとした。いつもと扱いが違うので、さしもの彼女も虚を突かれたようだ。


「私は遠慮しないぞ? いいんだな?」

「いいから食え。食ったら俺と手合わせだ」


 いよいよ謝若水は狼狽した。

 初めてこいつを困らせてやれた――鄧暁は心中微笑んで、そして喜ばしく思った。


 さて、この娘は俺を殺せるだろうか。


(了)

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求愛求敗 古月 @Kogetsu

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