蘭、初めてベンツに乗る。
増田朋美
蘭、初めてベンツに乗る。
蘭、初めてベンツにのる。
春が間近のある日のこと。蘭はいつも通りに朝食を食べているところであった。そこへ彼の妻であるアリスが、一枚のパンフレットをもってやって来た。
「蘭、ちょっと聞いてちょうだいよ。」
「なんだよ。」
蘭は生返事を返した。
「だから、聞いてほしいことがあるの。」
それを言われて蘭は、
「だからなに?」
と、また生返事を返した。
「だからあ、生返事してないでさあ。こっちみて、ちゃんと聞いてちょうだい。お願いがあるのよ。」
まったく、西洋人はいつも個人主義で、自分の話に人が介入するのをほんとうに嫌うくせに、何故か誰かに頼みがあるときは、ちゃんと聞けと言うんだなあと思いながら、蘭は話を聞く事にした。
「お願いってなんだ?」
「このパンフレットをみてよ。昨日車のセールスマンがうちに来たのよ。」
アリスは、一枚のパンフレットを蘭に渡した。
「こ、これ、車のパンフレットじゃない。しかも外車の!」
車のメーカーは、メルセデスベンツであった。
「お前、ベンツなんか乗るつもりなの?いまのワゴン車で十分だよ。車だったら。また車屋さんに電話してさ、新しい福祉車を頼めばいいよ。」
確かにアリスの愛用車は、もう10年近くのっていたせいか、あちらこちらにガタが来はじめていた。もう買い換えをしなきゃならないな、とは、蘭も考えていたが、まさかメルセデスベンツのセールスマンを呼んでくるとは。
「しかし、ベンツといえば高級車だよ。それを買うなんて、お金がかかりすぎる。」
「それは、日本にいればでしょ?ドイツにいけば普通に走ってるからあたしは気にしない。いいじゃないの、あたしの貯金で買えない程じゃなさそうだと、セールスマンも言っていたから。」
蘭の発言をアリスは否定した。
「しかもこれ。セダンでなくワンボックスじゃないか!」
どの位お金がかかるか考えながら、蘭は思わずいった。
まあ確かに彼女の車だから、彼女が買うのは当たり前なんだけど、こんなに高級な車を買うなんて、心配になってしょうがなくなってしまうのであった。
「少なくとも、これ、400万はするはずじゃ、、、。」
そんな大金、アリスが用意できるのだろうか。
「だからあ、それはローンでいいでしょう。其れより、実物を買って、ゆっくりそれを味わいながら生活した方が、支払いもする気になるってもんでしょう?どうなの?」
「あのねえ、、、。」
蘭は、とにかく彼女の本心が見えなくて、何を考えているのかさっぱりわからなかった。いきなりこんな大金を出費するだけではなく、今まで使ったことのない外車なんかに手を出すのか。しかもこの車は外車の中でも超高級なメルセデスベンツ、、、。
不意にアリスが、スマートフォンを取って、こんな話を始めた。
「あ、もしもし、メルセデスベンツ富士店でございますか?あ、あの、私、伊能というものですが、ええ、あの、昨日うちへ来てくれた、鷺沼さんというセールスマンを再度うちへよこしてください。ええ、あ、あのね、オプションで付けてくれる、福祉設備の打ち合わせをしたいの。そうそう、ほらあ、うちの主人足が悪くて、歩けないって言ったでしょ。だから本人がいたほうがいいじゃない。はい、はい。よろしくねえ。」
何!もうセールスマンに、自分が足が悪いことを知らせてしまったのか。それでは、もう、ベンツを買うことは、目に見えていた。
数分後。
「こんにちは。メルセデスベンツ富士店の鷺沼でございます。」
インターフォンが鳴って、穏やかな男性の声がした。もう来ちゃったかあ。それでは、もう逃げる場所はないなと蘭は思った。
「はあい、どうぞ。」
アリスは、にこやかにセールスマンを招き入た。
「この度は、数ある車の販売店から、わが社を選んでくださって、ありがとうございます。まずは、心よりお礼をいたします。」
物腰柔らかく敬礼するセールスマン。こうしてお礼をするというのは、やっぱり高級車の販売店ならではか。
「お礼何ていらないから、早く車の説明をしてもらえないかしら?まず、ここへどうぞ。」
アリスはセールスマンを食堂の椅子に座らせた。ちょうど、蘭の目の前にセールスマンの鷺沼の顔が真正面に見えた。
「ご主人でいらっしゃいますか?」
と聞いてくる鷺沼。
「ええ。そうですけど。」
「そうですか。えーと確か、奥様から伺っておりますが、日本の伝統文化に携わる仕事をしていると聞きましたが?」
「あ、はい。まあ、一応そういうことになっております。海外ではの話ですけど。」
蘭はぶっきらぼうに答える。
「そうですか、近頃は、日本では伝統離れが横行していますから、それはしかたないことかもしれないですよね。そうなると、日本の伝統文化に携わる方はどうしても海外のパトロンのような者にた
よらざるを得ないでしょう。ですから、知らずしらずに海外製品に愛着が出て、わが社の車を欲しくなったわけですか。そういうことも、よくあるんですよ。私たちは、お客様の希望している車が見つかりますように、誠意を込めてお手伝いをさせていただきます。」
にこやかに話してくれる鷺沼に、蘭は思わず言葉に詰まってしまう。
「まあ、もう希望している車なら決まってるわ。もう、メルセデスベンツ、ワンボックスタイプ。主人がこうだから、それに決まってます。」
アリスは、お茶をテーブルに置きながら、自身も蘭の隣に座った。
「それでは、Vクラスをご希望でしょうか?」
「ええ、当たり前よ。この人がこうだから、そのタイプしか乗せられないでしょう?」
ある意味強引に持って行こうとするアリスだが、
「しかし、なぜでしょうか?障害のある方が乗車される場合は、ほかのクラスの乗用車でも、工夫をすれば可能です。近頃は軽自動車でも、障害のある方を乗せることができる乗用車もたくさんございます。それなのになぜ?」
と、言う鷺沼さん。
「嫌ねえ。あなたって人は。買いたいって言っているのはあたしの方なのに、なんでそんな疑いを持つような言い方をするのよ。客が、買いたいって言っているんだから、さっさと試乗とか支払いとか済ませて、営業成績を上げなさいな!」
「そうですけど、Vクラスはもともとは商用車です。自家用車ではありません。もしかしたら、お二人は何か商売をされているんですか?」
「嫌ねえ、あたしの職業、ちゃんと考えてよ。あたしは、助産師よ。ほら、妊婦さんを、病院まで連れて行ったりすることもあるのよ。わかるでしょ?」
「さようでございますか。失礼いたしました。そうですかあ。ずいぶん喜ばしい仕事をされていらっしゃいますな。なるほど、それは素晴らしい。それでは確かにワンボックスタイプは、最適ですね。よし、わかりました。それでは、一緒に理想の車を探しましょう。」
ああなるほど。そういうことか。しかし、なぜ其れなのに高級なベンツを?そういうことなら国産の高級なワゴン車を買えば十分じゃないか。と蘭は思うのだがアリスはそれを無視して、車の色とか、社内設備とか、そのようなことを話し始めた。蘭は時折、意見を求められたが、とりあえず障害者設備がしっかりついているか、だけ言及すればよい話なので、何度かぶっきらぼうに話をするだけであった。
「えーとそれでは、お色は赤でよろしいんですね。」
「はい!もちろんです!わかりやすい色がいい。誰にでも、すぐにそれとわかる色がいい。」
「はいはい。そして、セカンドシートは、回転仕様。そして、サードシートは、折り畳みができるように。あと、セカンドシートと、サードシートはフルフラットができますように。」
「ああそうですか。たしかに妊婦さんには、横になって移動した方がいい方もいますよね。わかりました。」
「そして、お願いなんだけど、操作は比較的簡単なものにしてね。こういう中年女性でもすぐにシートアレンジできるようにね。」
お前なあ、無茶なお願いするなよなあ、と思いながら、蘭は、その話を聞いていた。全く女というのは、どうしてこういうめちゃくちゃなお願いをセールスマンに言うんだろうか。そんなに要求が多くて、セールスマンも頭に来てしまうのではないか?と思うのだが、にこやかに話を聞いて、メモを取ったりしている鷺沼さんに、蘭はなんだか同情してしまって、大きなため息をついた。
とりあえず、その日は、希望する車種を決定して、話が終わった。これでもう、蘭のうちにベンツがやってくることは決定的だ。
「それでは、また近々こちらに伺います。次はご希望の車種を持ってきますので、お二人で試乗してみてください。」
鷺沼さんは丁寧にあたまを下げた。そして、次のお客様の依頼がありますので、お暇しますと言って、再び頭を下げ、家を出て行った。
「あーよかったあ。あんな人のいいセールスマンでたすかったわ。きっとうちには、いい感じのベンツがやってくるわよ。」
アリスはにこやかに笑ったが、蘭はいい顔をしなかった。
「なんでまたあんな高級車なんか買うんだ?」
「当り前よ。そういう車でないと、今は安全性もあって、親切さもあるっていう車は、えられないわよ。」
「しっかし、それだったら、日本の高級車とかそういうのを買えばいいじゃないか。なんでまたメルセデスなんだ?」
蘭はてっきり、彼女がベンツというブランドをほしがっているのかと思った。女というものは、実用的ではないのに、有名ブランドの鞄を買って、入りきれない荷物をぎゅうぎゅうに詰め込んで、道路を歩いている時もある。
「理由はちゃんとあるんだけど、それは、言わないで置くわ。あんたのことだから、それを言うと、絶対ダメだって言って、もうすべてだめにしちゃうでしょうし!」
と言って、アリスはふふんと鼻で笑った。
「なんだ。そんなの理由にならないよ。ちゃんと理由を話してくれ。」
「バカねエ。あたしはあたしの事情があるのよ。理由は放っておいて頂戴。それは気にしないという事で。」
「ちょっと待て。お前何かかくしてないか?もしかして誰かを乗せる必要でもあるのかい?」
蘭はちょっと語勢を強くして発言した。
「もちろん乗せるわよ。妊婦さんたちをね。ほらあ、病院に連れて行かなくちゃならない妊婦さんだって、沢山いるでしょう?そのときに、変な一般車では、乗り心地もよくないし、それじゃあかわいそうでしょうが。理由なんてそういう事よ。それ以外何もないわ。」
「お前な。ただ乗せるだけじゃないな。何か目的があるだろう。それだけではないだろうが、もしかして、僕以外に、乗せたい人でもいるんだな?どうなんだよ!」
蘭は終いには疑いを持ってしまって、強く言った。
「だから、乗せたい人っていうのは今言ったばかりよ。それでいいでしょう?あんたにはわからないと思うけど、妊婦さんって苦労が多いのよ。ただでさえ次の世代を宿しているんですからね、そのプレッシャーだって多いでしょうしね。そんなわけだから、あたしが病院まで運んであげるときだけは、心地よい座席に座らせてやりたいって思うのは、おかしなことかしら?それに障害者設備をつけたのは、アンタが、車の運転免許を持ってないから。それだけの事。もうあれやこれやとあら捜ししないでくれないかしらね!」
「もう、それだけじゃないだろう?僕のせいにはしないでくれよな。それ以外の事で絶対何か理由があるはずだ。もしかしたら、だれか乗せたい人物がいるのではないだろうな!何でわざわざ高級なベンツ何て買うんだよ!」
「嫌ねえ。日本人は、そういうところは変に嫉妬深いんだから!なんでまたそういうこと言うの?ベンツが欲しかったのは、あたしが仕事で妊婦さんを運ぶときに、ああいう窮屈な車ではちょっとかわいそうだなと思ったから!それだけの話でしょ!あーあ、全く。本当になんで、変なところにこだわるのかしらねえ。」
アリスは、そういってお茶をがぶ飲みした。
「とにかくねえ。明後日に試乗車が来てくれるから、その時にはあなたもちゃんと立ち会ってね。それは、しっかりしてもらわないと、車種が決まらないの。」
「知らないよ、そんな取引!」
蘭はそういったが、
「いいえ、蘭がちゃんと話を聞いてないだけ。鷺沼さんはご主人の意見もちゃんと聞いてから決定しましょうって、ちゃんと言ってた。」
と、アリスがそう言い返したため、そうするしかなかった。
翌々日。試乗車が蘭とアリスのもとにやってきて、蘭は初めてベンツにのった。ドイツで暮らしていたとき、ワーゲンに乗らせてもらったことはあったが、ベンツという車には、めったなことがない限り、乗せてもらうことはなかったので、ほとんど乗った記憶がなかったのである。それほどベンツは高級車の代名詞である。それが自家用車として、家にやってくるのか。なんだか、あまりにも高級すぎて、周りに申し訳ないような気がしてしまう。
誰に申し訳ないのか、と、聞かれてもわからない。蘭が自発的に感じてしまうのだ。理由なんて知らない。でも感じるのだ、申し訳ないと。蘭が最も心配をしている、ある人物に対して、、、。
一方、そのころ。
製鉄所の四畳半では、水穂が布団のうえで、由紀子に支えてもらいながら、何とか座り込み、咳き込んでいたのだった。
「大丈夫?苦しい?」
由紀子に聞かれて、水穂は、咳き込みながら頷いた。
「いい年してようやるなあ。やっと暖かくなってきて、ちっと楽になるかなとおもったのによ。」
杉三が、でかい声で、あきれたように言った。
「ご、ごめんなさい。」
と、言うと同時に、内容物がせき込んでどっと出る。
「ほらあ、言っているそばからあ。」
さらにあきれた顔をして、杉三はため息をついた。
「苦しいんだから、そんなこと言わないでやって。可哀そうよ。」
由紀子はそういって杉三を止めたのであるが、
「でもよ、之じゃあ、秘密の計画は失敗に終わるぜ。」
といわれて確かにそれはそうだなと思い、がっかりする。
「もうそんなことはいいわ。かえって、強要してしまうと、体に悪くなってしまうわよ。いくら計画した事であっても、もうあきらめて中止とした方がよいのではないの?」
由紀子は、そういったのだが、我慢のできないのが杉三だというのも知っていた。
「だけどよ。その道具をもう購入しようと思っているんじゃないか。最近の車屋さんは、納車までの期間がどんどん短くなっていると、聞いたことがあるぞ。もっとも、僕は運転免許なんて持っていないから、よく知らないけどさあ。」
「そうかもしれないわね。でも、ここは田舎ですもの。車は必要になることもあるわ。もしかしたら、水穂さん以外の人をのせることだってあるかもしれないから、役に立たないことはないって言ったのは、杉ちゃんでしょ。」
「そうだけどねえ、、、」
杉三はぼんやりと天井を見上げた。
「一回、見せてやりたかったんだけどねえ、、、。」
同時に水穂が立て続けにせき込んだ。もう座っている力もないらしく、布団に倒れ込んでしまった。
「大丈夫?苦しい?しっかりして。」
由紀子は彼の背をさすったり、たたいたりして、声をかける。杉三が、痰取り機を持ってくるか、と言ったが、由紀子はそれだけはどうしてもする気になれなかった。何とかお願い、吐き出して、と、あたまの中で、一生懸命お願いすると、もう間もなく内容物が顔を出してくれたので、今回はほっとする。
同時に、杉三のスマートフォンが鳴った。
「えーと、ここの赤いボタンを押せば、電話に出られるんだったよな。」
という、覚え方をしているらしい杉三である。
「はいはいもしもし。あ、アリスさん。この度はご協力してくれてありがとうな。あ、本当。え、もう契約してくれたの!」
「そうよ。其れさえしてしまえば、すぐ納車できるみたい。日本では人気がない車種だから、すぐに納車できるって。まあ確かに、いないわよね。ベンツのワンボックスカーに乗って、道路を走る人なんてさ。」
電話口のアリスはにこやかに笑っている様子だったが、杉三はそれを否定する発言をするのも、つらい気がした。
「ああ、ごめんなさい。せっかく契約してくれたのに、これでは実行できそうもないよ。」
暫く沈黙が続く。
「そうなの、、、?そんなに悪いの?そんなに。」
「ま、そういうこっちゃ。この頃よく血を出すのよ。それだけじゃなくて座っているのも大変なくらいだ。もうすごい弱っちゃった。だから実行できそうにない。」
「そうなのね。」
之には電話口のアリスさんもがっかりした様子だった。水穂は、やっと中身を出すことができたためか、楽になってうとうとしている。
「ま、それでも、気にしないでいいわよ。あたしだってしょっちゅう妊婦さんを病院まで運んだりするんだしね。決して無駄な買い物をしたとはおもっていないから。じゃあ、仕方ないわねえ。」
由紀子はまだ何か、足りない気がした。
もしかしたら、秘密の計画は、実行した方がいいのではないか。動けない悲しみを作るよりも、喜ばしいことを見せてやった方が、いいのではないか。
「杉ちゃんごめん、ちょっと貸してもらえない?」
由紀子は杉三から、スマートフォンをむしりとるような感じで借りた。
「あの、由紀子です。お願いしたいんですが!」
「お願いって何を?」
「杉ちゃんが計画した、秘密の、、、計画。」
また沈黙が流れたが、今度はまた違う雰囲気を持っていた。
「もう水穂さん時間がありません。だから実行した方がいい。納車の日は何時ですか?その日に実行しましょう!」
電話の奥で、アリスさんもある覚悟を決めたらしい。
「わかったわ。あさってにベンツがこっちに来ることになっているの。セールスマンが帰ったら、そっちへ行くから、待ってて!」
「お願いします!幸い、暫く雨は降らないでしょうし。」
「わかったわ!」
二人の女性は、しっかりと約束を交わした。
「そうかあ、女はすごいなあ。いざというときにそういうことができちゃうんだからなあ。」
と杉三が、その様子を見て、ちょっとため息を付いた。
そしてその、翌々日。
由紀子は、黙ったまま、水穂の浴衣の上から、外出用の着物を着せた。もう立ち上がって着用することはできなかった。そして、体をフランネルの掛布団でくるみ、ヨイショと抱きかかえる。その重さは、女性の由紀子でさえも、簡単に持ち上げられるほど軽いものだった。
「もうすぐ来るから待ってて。」
玄関先では、杉三が待機していた。
「今日はいい天気だし、ちょうどいいぞ。暑くもなく寒くもなく丁度いい加減だ。」
「杉ちゃん、いったい僕はどこへ?」
水穂が杉三に尋ねると、
「ま、行けばわかるよ。お前さんのすきなところだよ。」
としか言わない杉三だった。
「もう気にしないで。今日は杉ちゃんが、どうしても連れていきたいところだって。水穂さんは、何にも、気にしないであたしたちに任せて置いて。」
由紀子にいわれて、水穂はちょっと不思議そうに首を傾げた。
「お、来たぞ。」
杉三が、前方を見ると、赤い色のベンツが、やってきた。まさしく、ピッカピカの赤いワゴン車だった。
「おお、ピッカピカだよ。」
と、杉三がいうように、新車というだけあって、しっかり明るく光っている。
ベンツのワゴン車は、三人の前で止まった。
「さ、どうぞ乗って。杉ちゃんと水穂さんは後ろに乗ってね。由紀子さんは、助手席へ。」
運転席からアリスが降りてきた。もうセカンドシートとサードシートは、杉三達を乗せられるようになっている。
「よし、乗ろう。」
ガラガラと後部座席のドアが開いて、由紀子はフラットになった後部座席に、水穂を乗せた。本当はやってはいけないのだが、それでは、水穂を運ぶことは不可能だった。杉三はアリスに、お願いして、後部座席に乗せてもらう。
「水穂さんのことは僕が見ているから、由紀子さんは心配しないでいいよ。」
由紀子は、ちょっと安心して、助手席に乗り込んだのだった。じゃあ、行くわね、と言いながら、アリスが運転席に座って、エンジンをかけ、車を動かし始める。
「よし、出発進行!」
杉三の合図で、車は道路を走り始めた。
初めのうちは、何の変哲もない道路だった。高速道路でもなく、普通の道路である。特に警察がネズミ捕りをしていそうな場所でも、そのような場所はどこにもなかった。道路の写真機が設置された場所には、丸太をマットでくるんでいるように見せかけることでごまかした。本当は、こういうことはやってはいけないことだと思われるが、杉三も、由紀子もそんなことは全く思わなかった。それよりも、水穂を連れて行ってやりたいという思いのほうが数段上であった。そして、それをかなえてくれるかのように、検問も何もされることもなく、赤いベンツは走り続ける。
「一体、どこまで行くんですか?」
水穂は、隣にいる杉三に聞いた。
「まあ、行ってみればわかる。」
鼻歌歌って、そう返す杉三。
不安そうになって、水穂は少しせき込んだ。
「おい、急げ。もう、疲れてきたみたいだぞ。」
「わかったわ!」
アリスは、そういって、車のスピードを上げた。スピードを出しているのに、走っているという気がしないのは、やっぱり高級車であった。
暫く道路を走り続けて、車は、ある場所で止まった。
「おい、着いたよ!」
「ついたわよ!でもつらいだろうから、車の中からでしか見られないのが残念だけど。」
アリスがそういって、車の窓を全部開けた。
「水穂さん、起きれる?」
由紀子はすぐ助手席から降りて、後部座席のドアを開け、水穂を、抱え起こした。
「ほら、見ろ!菜の花だぞ!」
水穂は、車の中から周りを見渡した。
周りは一面の菜の花。
黄色と緑の美しい絨毯がきっちり敷き詰められていた。
「ほらあ、見ろ。綺麗だろ。まだまだ寒いけど、春はもうそこまで来ているね!」
一面の菜の花。
一面の菜の花。
一面の菜の花、、、。
「ありが、、、とう。」
水穂は、そういって静かに目を閉じた。
「この土地、ある裕福な一家のものだったんですって。でも、その家長さんだった人が亡くなってね。家族もみんな出て行ってしまって、建物もすぐに取り壊されてしまって。なんだか、羽当の悪い人だったらしい。だれも、この土地に建物を建てようとしなかったらしいの。長年、放置していたら、菜の花が勝手に生えてきて。前に所有していた人が、ここを忘れられなくて、菜の花でいっぱいにしたって、周りの人は言ってるわ。この菜の花があまりにもきれいすぎて、これを、壊してしまうのは、なんだかいけないような気がして、みんなそれで放置しているんですって。中には、観光名所として、他県から見に来る人もいるそうよ。」
由紀子が、そう解説するが、水穂はもう疲れ切っていて、
「もう眠ってしまったか。」
と、杉三に言われてしまうほどであった。
「よかったな。最悪の事態になる前に、菜の花見せられたよ。」
「それにしても、本当にすごいわねえ。こんなきれいな花が自然に咲いてしまうなんて、やっぱりすごいわあ。」
アリスがそう感激してそういう。
「でも、この土地を持っていた人は、大地主でも、周りの人に対して冷たい人だったみたいね。だから、この土地を買ってレジャー施設を建てるとか、そういうことは誰も思いつかなかったのね。長年誰も寄り付かないで、放置されていたらしいけど、なんだか花が咲いてしまって、やっと、人が寄ってくれるようになったみたい。」
彼女はそうつづけたが、由紀子は、きっとこの土地を所持していた裕福な一家というのは、実はそんなに悪人ではないのではないかと思った。もしかしたら、ひとに来てもらいたくて、花を咲かせているのではないか。もし、人が、忘れてしまっても、心というものがここに残るのというのであれば、こういう事なんだろう。
「よく眠ってるよ。水穂さん。こんなことはやっぱり高級車でないとできない。本当に、高いお金だしてもらっちゃって、ありがとう。」
杉三にそういわれて、アリスも由紀子も、秘密の計画が成功したことを知った。
いつまでもここにいたかったが、そうはいかない。全員、車に乗り込んで、製鉄所に帰っていく。ここで起こしてはいけないと、皆全員黙っていた。
一方そのころ。
蘭は、家の中で呆然としていた。
さっさと契約を済ませてしまったばかりか、納車の日の当日に、なぜ、妻は家を出てしまったんだろう。
やっぱり、僕が言いすぎたんだなと、蘭は思った。
そこへ、あわてんぼうの新聞配達が、
「伊能さーん、岳南朝日新聞でーす。」
と、玄関先へ新聞を届けたのが聞こえてきた。蘭は雨でも降ったらたいへんだと、急いで新聞を取りに行った。
「傾ける。」
その見出しの文字を見てハッとする。
その見出しの文字は蘭に、非常に大きな衝撃を与えた。
「現在の家族は、昔と違い、家が心を許せる唯一の場所ではなく、非常に窮屈な場所になっています。しかし、外で正常を保っているのも非常に難しくなりました。そして、それを家庭という、非常に窮屈な場所の中で、、、。」
どこかの偉い宗教学者が書いたものらしい。
蘭はその末文までしっかり読み通した。
「自身の考えを家族に押し付けるのはやめにしませんか。そのためにはまず、傾けるという事から始めましょう。奥さん、お子さん、親御さんの話に耳を傾けましょう。それをすることにより、あなたの心の苦しみと同じことを、家族が持っていることに、気が付くでしょう。まず耳を傾ける、そこから家族の平和は始まります。」
ああ、何を間違えたかなあ、、、と蘭は思った。
蘭、初めてベンツに乗る。 増田朋美 @masubuchi4996
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