溶ける夢と小説家

胤田一成

溶ける夢と小説家

 街に夜の帳が降りるころ、診察室の長椅子に座りながら藤崎医師は静かに興奮していた。これから、かの著名なミステリ作家である狩野氏の診断の予定が入っているからである。

 藤崎医師は熱烈なミステリ小説愛好家である。他者の心の闇を覗き込み続けなければならない精神科医という職に就いて、彼を密かに支え続けてきたのはミステリ小説といっても過言ではない。彼がこんにちに至るまで、精神科の名医として、その手腕を存分に振るってこれたのもこの趣味のおかげである。

 藤崎医師は度々、診察室の長椅子に身を委ねながら、時には明晰な探偵になりきり、また時には冷血な殺人者になりきることで、患者から托されるようにして受け止めてきた、自身の心のよどみを晴らしてきた。とはいっても、彼の趣味は極々ありふれた質素なものであり、高価な稀覯本を買いあさったり、読書のために特別な書斎を設けたりとか、そういった体裁を繕う、鼻にかかるような趣味では決してない。仕事を終え、帰宅の電車に揺られながら文庫本の紐を解く。それだけでも藤崎医師にとって十分な休息になり得たし、彼自身それだけで満足していた。ひとたび、小説に熱中したら藤崎医師の周りには敵はいなかった。頭を抱えたくなるようなしがない開業医としての問題も、狂気と正気の狭間に陥って藁にも縋る思いで足を運んでくる患者も、ミステリ小説という海に身を任させている間は全く気にならなかった。

 オフィスの職員が、電話で狩野氏が「診断を受けたい」という旨の取り次いだとき、藤崎医師はまるで雷にでも打たれたかのような気分になった。藤崎医師にとってミステリ小説は心の拠り所であり、荒涼とした砂漠に湧き出たオアシスであった。それが脚を生やしてこちらに赴くというのである。僥倖である。藤崎医師は内心、小躍りをしたい気分であった。ようやく自分の仕事が報われる、この職に就いてからずいぶんと苦労も重ねてきたが、これほどまでに心の底から患者を迎え入れたいと思ったのは初めてであった。

 藤崎医師は今度の訪問者のために新しいシャツを身に纏い、おろしたての糊のきいた白衣に身を包んだ。そして今、診察室の長椅子に腰掛けながら、患者のやって来るのを待っている。今をときめく時代の寵児、ミステリ界の風雲児、狩野隆康氏。藤崎医師はカップに注がれた珈琲を一口啜ると、なんとしてでもこの患者の力になろうと密かに決意した。


 診察予定時間きっかりに狩野氏は戸を叩いた。平生なら当たり前の出来事でも藤崎医師にとって、著名なミステリ小説家がその戸の向こうに控えていると鑑みるだけでも、充分過ぎるほどに好感が持てた。医者というものは総じて時間にはうるさいものである。

 藤崎医師は高鳴る胸の鼓動を抑え、自分は医師で、狩野氏は患者なのだと自分に言い聞かせるとゆっくりと診察室の戸を開いた。

 文庫本のカヴァーに掲載されている著者近影の写真より、幾分か顔を青ざめた青年が、そこにはいた。狩野隆康氏である。

「よくぞいらっしゃいました。狩野隆康さんですね。さあ、どうぞお入りください」

 藤崎医師は震える声を押し殺して、努めて普段通りの対応を心掛け、狩野氏を診察室の内へと招き入れた。狩野氏はこれまで精神科医にかかったことがないのであろう。一瞬、躊躇した様子を見せたが、結局は藤崎医師に促されるままに部屋へと入っていった。

 診察室というのは医者の根城のようなものである。一度、足を踏み入れてしまったら、早々に立ち去ることは難しい。藤崎医師はこの日のために密かに新調した患者用の長椅子に狩野氏を座らせてはじめて、安堵の息を吐いた。これで狩野氏は藤崎医師の正式な患者となったのである。藤崎医師は狩野氏に興奮を気取られまいとしながらも早速、彼の診断を始めた。まずは患者の緊張をほぐすところからである。藤崎医師は自身も長椅子に腰掛けると、あえてデスクに身体を向かせながら、いまだ馴れずに所在なさげにしている狩野氏に落ち着いた声音で語り掛けた。

「冷えてきましたね。体調面はどうですか。風邪をひかれたりはしていませんか」

「ええ、まあ…」

「ご職業は作家さんということですが、やはり身体が資本ですかね。最近は質の悪い風邪も流行っていますから、気を付けてくださいね」

「はい、分かりました」

 初め、狩野氏は長椅子に浅く腰掛けながら、要領を得ない応答を繰り返すばかりであった。しかし、徐々に回答は明確なものに変化していく。藤崎医師も充分な時間を掛けて狩野氏の緊張をほぐしていく。そして、狩野氏が長椅子に身体を委ねるように深く腰掛けたのを横目に素早く見計らうと、本題へと入っていった。藤崎医師はここに至って初めて、狩野氏と真正面から向かい合う。

「それで、今日はどのような経緯で当院にやって来たのですか」

 狩野氏は逡巡しながらも、言葉を選び選びその悩みを打ち明け始めた。

「実は僕の職業のことで悩みがありまして…。最近はそのことを考えると辛くて辛くて。死んでしまいたいと思うほどでして…」

 藤崎医師はまたもや雷に打たれたかのような気分になった。職業上の悩みといえば無論、執筆のことを示すのだろう。ミステリ作家の苦悩。藤崎医師は精神科医としての立場を忘れ、興味が湧いて出るのを抑えきれずにいた。

「職業上の悩みといいますと、やはり執筆のことを指すのでしょうな。恥ずかしながら私は貴方の作品のファンでして…。それで具体的には何をお悩みなのですかな」

「ありがとうございます。実はこの職を退き、筆を折りたいと考えているのです。ずいぶんとミステリ小説を書いてきましたが、僕にはもうこれ以上のアイデアが思い浮かばないのです。源泉が底を尽いたとでもいいましょうか。次に何を書いたら良いか、まるで想像力が湧かないのです」

 藤崎医師は困惑してしまった。精神科医という職業上、患者の意志や願望には肯定的な立場を採るべきではある。藤崎医師も長きに渡る医者としての経験から、そうすべきことで患者の寛解へと繋がることは理解しているつもりであった。しかし、この前途洋々たるべき青年が一時の苦悩から筆を置いてしまうのを見過ごすのはなんといっても勿体ないことでもあるように感じられた。藤崎医師は職務と興味の間に挟まれて、思わず呻き声をあげてしまった。

「休筆というわけにはいかないのですか」

「いいえ。先ほども申し上げましたように源泉が枯渇してしまったのです。もう何を書いたら良いか僕には全く分からない。若輩ながらも僕にも作家としての意地があります。今までなんとか自分を誤魔化してきたけれど、僕には作家としての才能がそもそも備わっていないのかもしれません」

 これまで、このような患者を全く診てこなかったわけではない。ここまでくると押し問答であることは藤崎医師にも分かっていた。暖簾に腕押しで、こちらがいくら踏み留まるように言っても、最終的には患者の意志が尊重される。

「こんなことを考えていると、堪らなくなってしまうのです。自分には何もない。今後どのような道を歩んでいったら良いかも検討がつきません。生半可に作家なんて名乗らなければよかった。僕にはもう歩むべき道が残されていない…」

 狩野氏は呟くようにしてそう言うと、とうとう長椅子に身体を投げ出すようにしてぐったりと横たわってしまった。その哀れな青年の姿を目の当たりにして、藤崎医師の中で興味が職務に勝った。

「アイデアが思い浮かべば問題は解決されるのですな」

 藤崎医師はすっかり冷めてしまった珈琲を一口啜り、乾いた唇を潤した。

「…はい」

 狩野氏は診察室の無機質な天井を見上げながら、しかし明確に返答した。アイデアさえ湧いて出れば作家業を続けることができる、と藤崎医師は狩野氏の小さな返事を、そう受け止めた。

「私に一つだけ提案があります。しかし、効果を期待できるかどうかは分かりません。それでも聞きますか」

 狩野氏はぼんやりとした気色で藤崎医師を見詰めた。それは不思議にも蠱惑的な眼差しであった。或いは藤崎医師をしてこれから囁くであろう悪魔の言葉が、狩野氏の顔つきをそう見せたのかもしれない。藤崎医師はもう一度、緊張を解くために珈琲を啜った。

「ダリ式睡眠法というものがあります。サルバドール・ダリをご存知ですか。彼は絵画を描くときに、片手にスプーンを持ち、床に皿を置いて座りながら眠りについたと噂されています。すると、睡眠が最高潮に達した時に、片手に握ったスプーンは落ち、床に置かれた皿にぶつかる音で目を覚ます…。ダリのあのぐにゃぐにゃと変形し、しかし人々の印象に強く焼き付くような絵画は、ダリの夢の産物といわれています」

 藤崎医師は狩野氏から目を逸らしながら、そんなことを説明した。今や藤崎医師の中で、責任より興味が完全に勝っていた。自分の教授した提案により、どのような作品が狩野氏の手によって紡がれるのか。その一点が気になってしようがなかった。勿論、このダリ式睡眠法という馬鹿げた提案が狩野氏によって跳ね除けられたら、それまでである。藤崎医師は自分の導き出した解答をこっそりと隣人に囁いているような心持ちで、狩野氏の沈黙を横目に見守る他なかった。それに一端の専門科医として、このような提案を恥ずかしげもなく披露してしまった後ろめたさも追随していた。

「夢の産物ですか…」

 目を逸らし続けながらダリの夢について説明をする医師に反して、狩野氏はギラギラとした眼差しで藤崎医師をじっと見詰めていた。長椅子から身を乗り出し、今や藤崎医師に飛びつかんばかりに熱中している。長い沈黙を破ったのは狩野氏の歓喜の声であった。

「それは思いつかなかった。夢の中からアイデアを選択するとは。なるほど、それならまだまだ僕にも書けそうだ」

 狩野氏はそう叫ぶと勢いよく、長椅子から立ち上がった。藤崎医師は狩野氏のあまりの豹変ぶりに驚きを隠せなかった。まさか、あのような馬鹿げた提案が本当に採択されるとは思ってもいなかったからである。

「先生、アドバイスありがとうございました」

 立ち上がった狩野氏は、自分を呆然と見上げている藤崎医師に口早に礼を言うと、風のように診察室から去って行った。診察室にはただ一人、藤崎医師だけが取り残された。


 藤崎医師と狩野氏が再会したのは五年後の夏の夜、棺桶の中であった。蝉の声が街路樹の狭間を埋め尽くすような夜である。藤崎医師は狩野氏の葬儀の参列を許された。狩野氏の死因は睡眠薬の過剰摂取による自殺であった。

 ダリ式睡眠法は狩野氏にとって充分の効果を示した。数々の文学賞を受賞し、鬼才と謳われた狩野氏の小説は飛ぶように売れた。藤崎医師は新聞の広告欄に、狩野氏の新作の情報が並ぶ度に内心、自分の手柄のように喜んだ。

 おそらく、狩野氏のダリ式睡眠法の効果は偽薬効果、すなわち強い思い込みによるプラシーボ効果であることは、専門医である藤崎医師には分かり切っていた。しかし、鰯の頭も信心から、あるいは嘘も方便ともいうことを顧みると、今更になって狩野氏に指摘するのもはばかられた。

 狩野氏の勝手な思い込みとはいえ、サルバドール・ダリの睡眠法は確かに効果を表したのだ。しかし、狩野氏は徐々に睡眠に取り憑かれるようにもなっていた。小説を執筆するために睡眠薬にまで手を出すほどに。眠るために服上するのか、書くために服上するのか、現実なのか、夢なのか―もはや狩野氏にはその境界すら危うく、定かではなかったらしいと、藤崎医師は同期である狩野氏のかかりつけ医から、かねてから聞き及んでもいた。

 それでも藤崎医師は狩野氏にダリ式睡眠法を止めるようには提言しなかった。あれから藤崎医師の病院に狩野氏が脚を運ぶことはなかったが、止めさせようと思えば止めさせられる状況が藤崎医師にはあった。電話を一つかけるだけでも、何かを変えられたかもしれないのである。しかし、藤崎医師はそれをしなかった。

 藤崎医師は飛ぶ鳥を落とす勢いの狩野氏のミステリ小説の群に魅入っていたのである。命を燃やしながら、魂を削りながら綴られる作品の一つ一つに藤崎医師もまた取り憑かれてた。狩野氏がじわじわと死んでいく様を藤崎医師は初めて理科の実験に接した子どものように見詰めていた。その眼差しはあどけなさの裏に限りない残酷を秘めたものであったに違いあるまい。

 藤崎医師は苦悩せずにはいられなかった。自身のアイデアが一人の才能ある作家の命を奪ったのかもしれない、自分は医師として人を救うべく存在しているのではなかったのか、と考えるとあれほど熱を入れて愛好していたミステリ小説にも手が届かなくなった。街を歩くにしても、人とすれ違う度に狩野氏のことを思い出してしまう。藤崎医師の心も徐々に摩耗していた。

 藤崎医師は今も街の精神科の開業医として、他人の心の闇を覗き込み続けている。しかし、それももう終わりだ。藤崎医師は狩野氏の亡霊を振り払うために、睡眠薬に手を出した。

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