透明な色を探して

結城透花

第1話 亜麻色と天色が混ざるとき

 人間の感情には色がある。それを知ったのは8年前。彼女がこの世に誕生してすぐのことだ。

 産声と共にその身体からは、すべての感情を解放するように無数の光が零れ、流す涙はまるで真珠がひとつふたつと零れ落ちているように見えたらしい。

 彼女は、心の中に生まれた感情を光として吐き出すことで思いを伝える。僕らが表情や言葉を紡ぐことで伝えるように。

 しかしそれには代償があった。子供が言葉を話し始めるとされている一歳の頃には、彼女は声を失っていた。

 まるで足を手に入れた人魚姫が声を奪われたようだと世間では御伽噺のように語られた。


 曇天の空から降る雨はまるで世界中の人々の涙のようで、それが今彼女に向かって降り注ぐ。

 校舎で一番空に近い場所で、彼女はただ天を仰ぎ、それらを受けいれる。彼女を守るものはなにもない。

 一度深く息を吐いてから、彼女へと歩みを進める。こころなしか足取りは重い。


 自らを覆っている晴天の澄んだ空のような天色の傘の中に、彼女もそっと入れてあげる。

 それは彼女をこの世界から隠し、無数の悲しみから守るようだった。

 程なくして、彼女は俺の存在に気づき、ゆっくりと目をあける。まつ毛についた雨粒を払うように、2度瞬きをした後、こちらに目線を向けた。亜麻色の髪が揺れてふたりぼっちのその世界は甘い香りに包まれた。幼い頃に飲んでいたミルクを思い出させるような、優しくとても落ち着く香りだった。


 零れ落ちそうなほど大きな瞳は、髪色よりも少し暗く、しかしとても澄んでいた。綺麗な平行二重でありながらも、垂れ目が幼さを印象づける。すらりと通った鼻やぷっくりと膨れた唇は、主張し過ぎず、しかし余白の少ない顔立ちだった。真っ白な肌に華奢な身体は女性の憧れる女性そのものだろう。

 だが、微塵も表情を変えないその姿はまるで人形のようであり、余計なものがすべて洗い流されたような透き通る肌と纏う雰囲気はまるで透明人間だった。


 彼女と目が会った瞬間、用意していた言葉はふっと零れ落ちた。この時のためにいくつものパターンを用意してはシュミレーションを繰り返してきた。

しかし、今となってはどんな言葉をかけようとしていたのかすら思い出せない。零れ落ちた言葉たちは足元の水溜まりに落ちてそのまま溶けていった。

 落ちた言葉を眺めては、何とか違う言葉を絞り出そうとしては見るものの、僕の中に浮かぶ言葉はすべて彼女には届かないように感じられて、いくつもの言葉を飲み込んだ。


 ふと水溜まりに一粒の雫が落ちてきた。傘を差しているのに不自然だと感じ、ふと視線を空に移そうとする。

 彼女と目があった。いや恐らく、正確には引き寄せられたのだろう。彼女は真珠のようだと表されていれその涙を目の縁に溢れさせていた。瞬きをしては頬を伝うそれを拭うことなく、ただその感情に従っている。


 自然と僕の右手は彼女へと伸びて、涙と雨で頬に張り付いた髪の毛を払い、目の縁に溜まったそれを掬いとる。当然のことながら真珠などではないが、普通の涙のように透明でもない。

 彼女の瞳の色は深海のようで、そしてそれに呼応するように涙も色づいた。それがいつの間にか現れていた晴れ間から差し込む光で輝いて、まるで一粒一粒に感情があるように見えた。

 透明人間のようだと思っていた彼女が色づき出し、それはまるで世界の始まりのようだった。


 その髪が風で靡くと、太陽の光と混ざり合い宝石が散りばめられたように輝き、その華奢な身体からはまるで言葉を吐き出すように光を溢れさせていた。その光は、遠いあの日の空の色を思い出させるようだった。薄めずに使った絵の具を伸ばしたようなあの空。確かにこんな青だった。盗み見た横顔に見とれて溢れさせたラムネの味まで思い出せる。

 その光は彼女を囲むように、そして僕まで飲み込まれそうなほど広がる。

 嫌という程思い知らされる。これは御伽噺ではないということ。彼女は確かにここに存在して、思いを伝えようとしていること。

 声をかけることができないまま、ただ彼女が織り成す光に魅了されている。このまま、彼女が魅せるその世界に飛び込んだら、あの頃に帰れるだろうか。すべてがシンプルに見えて、願いは全て叶うと信じていたあの頃まで。


 誘われるように足を踏み入れようとしたその瞬間、彼女は操り人形の糸を切られたように、その場に倒れ込んだ。光は空に散って、また僕らの時計は動き出す。

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