第2話 やわらかい赤
彼女の首と足を支えて、その華奢な身体を持ち上げる。俺がここに来る前から傘もささずに佇んでいた彼女の身体は冷え切っている。
さて、彼女を運ぶのに適切であろう保健室はここからは遠く、人々の好奇の目に晒されることに間違いはない。さらに身体が濡れていることからも彼女を運んだ後に校内を掃除する羽目になることは目に見えている。
となると運ぶ場所は一つだ。
階段を降りて3階へと移動する。到着してすぐ左手に曲がって一番奥の突き当たりの部屋。今日から俺の職場になる場所だ。
彼女を抱き抱えているため手は塞がっており、少々行儀は悪いが足を使ってなんとか扉を開ける。
突き当たりの窓から、すっかり機嫌が良くなった空から柔らかな光が差し込む。昔は当直室として使っていたらしいこの部屋は、古い型ではあるもののコンロや冷蔵庫などの電化製品も揃っているため、一人暮らしのワンルームのような雰囲気がある。
ひとまず彼女を部屋の中心にある真っ白なソファーにゆっくりと寝かせる。どうやらこのソファーは買い替えられたばかりのようで、汚れ一つない。彼女のようだと思った。
紺色を基調としたセーラー服から見える彼女の肌はより一層その白さが際立つ。陶器のような肌を傷つけることなくここまで無事に運べたことに安堵する。大袈裟だと思うかもしれないが、彼女はそれだけ特別な人間であるということだ。俺にとってではない。世界中にとってだ。これもまた大袈裟ではないのだから、改めて俺にのしかかる責任の重さを思い知らされる。
一刻も早く濡れた彼女の身体を拭かなければいけないが、手持ちのタオルはない。保健室に借りに行くしかないだろう。濡れ具合から察するに、体操着も借りなければならない。
少しでも服が乾くように、そして彼女が風邪をひかないようにエアコンの暖房をつけ、部屋を後にした。
都合よく保健医は外出していた為、事情を説明する必要もなくタオルと体操着の一番小さいサイズを拝借できた。すぐ隣に貸し出しの際に名前を記名する用紙は見ないふりをした。
校内には、胸に花を飾ったまだあどけない表情の生徒達と、ちらほらと保護者の姿が見え始めた。
部屋に戻ると、丁度彼女は目を覚ますところだった。
まだ夢の世界に留まっていたいと身を捩りながらゆっくりと身体を起こそうとするが、瞼は閉じたままで、油断すれば再び夢の世界へと誘われてしまいそうだった。
重い瞼を擦りながら徐々に彼女の視界は開いていく。ぼんやりとした頭で部屋の中を見渡し、俺の存在に気づくと少しずつ現実に繋ぎ止められるように意識がはっきりとしていくのが見て取れた。
その姿は、屋上で見た彼女の姿とは別人のようで、随分と幼い印象を受けた。先程の彼女はどこか無機質な人形のようで、そんな空の状態にふいに乗り移った感情の奴隷になり、意識を失くした。
そんな姿からは想像もできないほど、この状況に対する動揺を隠しきれずに視線は泳ぎ、心做しか頬が紅潮しているように見えた。
彼女の座るソファーの近くにしゃがみこみ、視線を合わせる。タオルと着替えを手渡す
なるべく威圧感を与えないように、そして警戒心を解くようにあえて隣には座らない。
彼女の目の前で零れ落ちていたのが嘘のように、自然とかけるべき言葉が口から出ていた。
「これ使ってください」
この程度の言葉も、屋上にいた彼女にはかけられなかった。目の前の彼女と、決定的になにかが違う。
彼女は、軽くお辞儀をした後にタオルと体操着を受け取り、タオルで毛先から雨粒を吸い取る。
着替えが終わるまで外に出ている旨を伝え、速やかに廊下に出て声がかかるのを待つ。
さて、これからどのようにするべきか。一つ一つ慎重に、僕が知っているべきこと、知っていたらおかしいことを整理し、彼女と接しなければならない。今後のプランを考えているとすぐに、そのドアは開いた。
体操着は一番小さなサイズを選んで正解だった。上下ともに袖があまっている。先程抱き抱えて分かったことだが、相当彼女は小柄だ。身長は推定150cmといったところだろうか。俺を見上げている姿は首がとても辛そうだ。
まずはこの状況を説明する必要がある。それには素性を明かすことが先決だ。
今度は先程と違いきちんとソファーには座る。しかし、彼女とは反対側の端に腰掛け、距離を保つことは忘れない。彼女の警戒心が解けるまでは慎重にだ。
俺が腰掛けると、肩を震わせ横目で僕を見る。
目を逸らそうとするが、その瞬間を逃さずに彼女の視線を捉え、こう続けた。
「僕は柚木紡です。今日からスクールカウンセラーとして働くことになっています」
なるべくわかりやすく簡潔に、俺が何者なのかという彼女の最大の疑問を取っ払う。我ながら胡散臭い笑顔を貼り付けて。
すると彼女は、乾かすためにソファーの角にひっかけていた制服の胸ポケットを探ると、彼女の手にも収まりきるほど小さな花柄のメモ帳とシャープペンシルを取り出す。そしてこう綴り、俺に見せてきた。
『ご迷惑をかけたみたいですみません』
想像していた言葉とは違った。この流れは自己紹介だと思ったのだが、それよりも彼女はこの現状について知りたがっているようだ。
『私、覚えてなくて』
俺が文字を見たのを確認すると、また何かを書こうとペンを走らせるが、書いては消してを繰り返す。彼女にはまだ伝えたいことがあるようだ。
単純に考えて、30程前の出来事を覚えていないのはおかしい。だとするとそれはなぜなのか。分からなければペンを置いて俺から事情を聞くだけだろう。しかし彼女には他になにかを伝えようとする意思がある。そしてそのなにかを俺は知っている。彼女は、"30分前の記憶"はないが、"30分前の記憶がなくなった原因"は知っている。そして、それを話すべきだと思ったのだろう。しかし俺が彼女のことをどこまで知っているのかが分からない為、迷っている。
彼女が自身について語るのは、先程の俺の自己紹介みたいに二言で終わらせられるような簡単なものではないのだ。
文字を書く彼女の手にそっと俺自身の手を重ねる。首を横に振り、目線を合わせてこう告げた。
「白百合芽依さんですよね」
名乗ってもいないのに自分の名前を知っている理由。それを即座に理解し、視線をメモ帳へと移す。
そして、その瞬間、ようやくもう一つの俺の"自分を知っている"ことを示す行動にも気づいたようだ。それは、彼女が紙に文字を書くことで会話をすることになんら疑問を持っていないことだ。
そのことを踏まえ、彼女は話す必要はないと答えを出したのだろう。
『なにがあったのか教えてください』
簡潔に、そして一言だけ丁寧に添えられた言葉に答えるように、こちらもまた簡潔に一連の流れを説明する。
話しの途中から彼女はずっと下を向いていた。シミなどひとつもないソファーに、はじめて色がついた。それは春を象徴する花の色。しかし何故だか花見などで親しまれているあの花ではなく、果物として有名な方の花を思い出した。
色がついたとは言ったが、それはすぐに消える。救いとろうと手を伸ばしてもすぐに空気に溶けてしまう。そしてまた彼女の瞳からそれは零れ落ちた。
彼女が記憶を飛ばした原因は一つだ。
例えばコップに水を注ぐとする。許容量を超えたら当然水は溢れ出す。それと同じで、彼女は自分の身に余る程の感情を持つと、揺らぎがあるとそれが光の粒となって身体から溢れ出すのだ。
初めは瞳。そう、こんな風に瞳いっぱいに宝石を散りばめる。そして涙へと変わり零れ落ちる。
ふいに顔を上げた彼女は、眉をひそめて申し訳なさそうに笑った。
この程度ならば記憶を飛ばすことはない。感情の揺れは見て取れるが、記憶と引替えになる程ではないということだ。コップの中の水は5割と言ったとことだろう。
やはりこの光に俺は魅力を感じているようだ。自然と手が伸びて、瞳に溜めるその宝石を救い取りたいと思ってしまう。
しかし先程とは違い、彼女は俺の腕から逃げるように距離を取った。わかりやすい拒絶反応。もちろん深追いはしない。
それから彼女が顔を上げることは無かった。差し出したハンカチは受け取られることはなかったが、彼女のすぐ側に置いておいた。
僕の身体からはまた全ての言葉が抜け落ちたようで、ただ彼女の流す涙を見つめていることしかできない。
暫くして式典の開始を告げる放送が鳴り、俺は部屋を後にした。
始業式を終えた後、相談室に戻るとそこに彼女はいなかった。彼女がいた痕跡は何一つない。
差し出した時よりも綺麗に畳まれたハンカチがテーブルに置かれているだけだった。
携帯に、一通のメッセージが届く。
『彼女は迎えに行かせた。今日の夜、俺の部屋に寄ってくれ』
差出人もメッセージの内容も、想像通りではあった。だがそんなことはすぐに頭の片隅に追いやられた。
彼女の涙の理由が知りたい。ただそれだけだ。
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