第3話 突き刺す琥珀
日が沈み出した頃、学校を後にして向かうのは椎名総合病院。学校の屋上から見えるほど近く、車で5分程度で到着した。
すれ違う看護師さんに会釈しつつ目指す場所は最上階。何度来てもここには慣れない。
呼吸を整え、2度ノックする。入室を促す声が聞こえたため、重厚感のあるその扉を開け、足を踏み入れる。
「失礼します」
その人は視線を窓の外から俺に移すと、不気味なほど機嫌の良い笑みを浮かべた。椅子に深く腰掛け、背もたれにめいいっぱい体重をかけながら天を仰ぎくだらない言葉を紡ぐ。
「まずはご苦労だったな。初日からこんなに成果がでるとは思わなかったよ。一体何をしたんだ?」
いやらしい笑みを隠すことなく一言一言をやたらと溜めながら話す。古臭い悪役でも演じてるつもりなのだろうか。
「特には」
「あの胡散臭い笑顔、俺は好きだぞ」
彼の言葉は耳に入ってくることはない。ただ音として"聞こえる"だけだ。感情はここに来る前にすべて置いてきた。彼の言葉に一喜一憂するのは無意味だからだ。この人にとって俺はロボットのようなものであり、残念ながら、空っぽの言葉を吐くところは似てしまったようだが。
「これで、ご要件は。まさか俺の顔が見たかったなんてことはないでしょう」
「この報告書についてだよ。不可解なことが多すぎる」
嘘だ。報告書を送ったのは電話が来た後だ。
「彼女については、理解をしようと思うことが間違いな気はしますが」
彼は眉をひそめてあからさまに機嫌が悪くなる。とてもわかりやすい。自分の感情もコントロール出来ないような人が、人の感情について研究しているのだから滑稽と思わざるおえない。
「そこに書いてある通りです」
「目が合ったら泣き出しましたって随分とロマンチックなんだな。運命の再会でもしたのか」
わざとぶっきらぼうに話すと先程よりも声をはりあげて早口で返す。
ああ、なんと無意味な会話だろうか。しかし、やはり俺の言葉は本来、考える余地などなくスラスラと出てくるはずなのだと再認識できた。
ふと今朝のことを思い返す。涙を流したことばかりに気を取られていたが、肝心なのはその前なのではないだろうか。
「なにかを思い出したような、そんな表情を浮かべていたような気はします」
そうだ。確かにあの瞬間彼女の表情は揺れていた。感情の奴隷となり、まるで人形のように涙を流す前、微かではあったが、眉は上がり、瞳孔が開いていた。
「まあいい。これからは頻繁に見られるだろうからな。10年も無かったことが、お前と出会ったことで起きたんだ。その点に関してはお前に感謝するしかないな」
果たしてあれは相手が俺だったからなのだろうか。好きなもの、嫌いなもの、そして彼女の体質についてなど基本的な情報はすべて資料で読んだ。だがそうではない。彼女の感情を引き出すということは、彼女と向き合うということは、心に触れるということだ。あの段階では、会話すらしていなかったのだ。単なる偶然ではないかと思わずにはいられない。
「明日の昼には学校に行かせる。ここで休ませて研究するよりもお前と一緒にいる方が面白いことが起きるだろうからな」
抗えない事実は二つ。俺は彼に従うしかないということ。そして俺と彼女は恋をすること。タイムリミットは1年。
彼女の涙がまた、脳裏に浮かんだ。
翌日の昼。彼女がいる場所として検討がつくのは1箇所しか無い。鉄の扉は、昨日よりもなんだか軽く感じた。
昨日とはうってかわってつい微睡んでしまいそうな陽気だ。鼻の奥がむずむずして春の訪れを感じさせる。
見渡しても彼女の姿は確認できなかったが、そう慌てはしなかった。
俺の立つ扉の前から死角になっている塔屋の影を覗き込む。
彼女は体育座りをして塔屋に背を預けながらなにかを頬張っていた。彼女は会う度に表情を変える。それは泣いているとか動揺が見えるとかそういうことではなく、彼女を纏う雰囲気がまるっきり違うのだ。 今の彼女は"人形"という言葉が似合う。初めて会った時と同じだ。この彼女の前では少し自分の言葉に重さを感じる。一呼吸置いてから歩みを進める。
「こんにちは」
そう声をかけて俺が近づくと、横目で一瞥した後すぐさま距離をとる。案の定、警戒心はまったく解けていないようだ。しかし、俺もなんの考えもなしにここに来た訳では無い。
彼女の頭上を天色の傘で覆う。天気も相まって花が咲いたようだと感じる。持ち手を手渡すと戸惑いながらも受け取り、傘を差すというよりは被るように、自分自身の顔を隠し、1人の世界を築いていた。今日は日差しが強い。傘を差し出す理由は、その肌が焼けてしまわぬように、とでも言っておこう。
彼女と俺の間に人が一人入るくらいの距離をあけ、腰掛ける。
「お昼はもう食べましたか?」
2度頷いて、お菓子の箱を見せてきた。黒を基調とした高級感のあるパッケージで、恐らくフランス語であろう文字があしらわれている。スーパーやコンビニで売ってるものではなさそうだ。
彼女は、なんの疑問も持っていないように首を傾げては、箱を膝の上に乗せて一粒頬張る。
やはり彼からの情報は正しいということだ。俺はあぐらをかき、大事に持ってきた巾着袋の紐を解きいて木目調の弁当箱を取り出す。
蓋を開けると醤油ベースの香りが鼻腔をくすぐる。メインのおかずである唐揚げがその所以だろう。和風でまとめた本日のメニューは、お弁当の王道と呼ばれるものを詰め込んである。
やはりまずは一際存在感を放つ唐揚げを食したい。昨晩から特性の甘辛いタレに漬け込んでおいたお陰で、十分に柔らかくなった鶏肉は、噛むとほろほろと解け、口いっぱいに肉汁が広がる。自然と白米に手が伸びた。白米の甘みとその肉汁が相まって食欲が増す。
次はだし巻き玉子を頂こうと思い手を伸ばす。が、とてもではないがその視線を無視することはできない。彼女は全ての意識を唐揚げに囚われているようだ。
今気づきましたとばかりに彼女に視線を送れば、チョコレートの箱に視線を移し、知らん顔をする。
そしてまた俺が弁当を食べ進めようと箸を伸ばすと横目でその獲物を狙う。
彼女の獲物を箸で挟むと欲望には忠実な俺はまたあの肉汁を堪能したくてつい己の口元へ近づけてしまう。すると彼女は、ら恐らく無意識なのだろう、徐々に口が開いていく。気の抜けたその表情につい口元が緩んでしまう。
さりげなく移動し彼女との距離を縮めるが、俺が近づいた分だけ移動して、相変わらずの距離感をキープしている。 しかし今回はめげずに彼女を追ってみる。
逃げる、近づくを繰り返すと、ついに彼女の右肩がフェンスに触れた。逃げ場がなくなったことに気づき立ち上がろうとするが、それよりも先に俺の身体は動き、唐揚げを彼女の口元に近づけた。
すると彼女の鼻が小刻みに動いてその甘辛い香りを堪能するが、唇はしっかりと結んで抵抗する。その脆い抵抗を打ち砕くため、 唐揚げを今にも唇に触れてしまいそうな距離まで近づける。小さな唇でかぶりつくと、瞳は木漏れ日の光を散りばめたように輝いている。全身で美味しさを表現してくれているようだ。
これはまた新しい"彼女"だ。心に触れるというより、胃袋に触れたというのが正しいが。
口の中の旨みが消えると、ハッとしたように彼女は俺に背を向ける。どうやら意識は唐揚げから返して貰えたようだ。
背を向けたまま、チョコレートの箱を俺の前に置いた。
受け取れということだろう。遠慮なく1粒もらい、口へ運んだ。
「ん、おいしい」
大袈裟に声を張り、リアクションをしてみせる。彼女の肩がぴくりと動くが、こちらを向いてくれそうにはない。そのため、お弁当を持ったまま立ち上がり、彼女の目の前に腰掛ける。傘で防御されたため顔は見えないが、気にせず食事を再会する。
食べ損ねただし巻き玉子や、きちんと足を生やしたウィンナーを白米と共に味わう。大袈裟にその旨みに唸る声を上げると、少しずつ防御された天色の壁から彼女が姿を現す。
今度はその視線を気にせず食べ進めて行くと、再び彼女に背を向けられてしまった。
想像していたよりも彼女は、"彼女"としてこの世に存在している。俺はなにを期待していたのだろうか。彼女は人形ではない。空の身体にふいに乗り移ったように感情の奴隷になり涙を流す彼女に、夢を見てしまった。道具である俺と、同じなのかもしれない、と。だから気になった。二度目の涙の理由が。二度目の涙は確かに、"彼女"の涙だったから。
道具である俺には理解できなくて当然なのだ。
昼食を終え、彼女に軽く声をかけて屋上を後にした。彼女の元に置き土産を残せた時点で作戦は成功したと言えるだろう。
明日、必ず彼女はあの部屋にくる。
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