彼女の残した言葉はまるで呪いのように

ベルサ

第1話

 私は同級生の親友に恋をしている。

 いつから彼女にこんな感情を抱いていたのか、私もよく覚えていない。

 ただ気が付くと勝手に視線が彼女を追い、彼女が私に微笑みかけてくれるだけで私の鼓動は誤魔化しようがないくらいに高鳴るのだ。

 ただ一つ問題があるとすれば、彼女と私が同性であるという点である。



 私の親友である那倉麻理恵(なくら まりえ)はいわゆるクラスのマドンナのような存在であった。

 透き通る色白の肌に、濡れたカラスの羽のように艶やかな黒髪。思慮深い切れ目がちな瞳に見つめられるだけでほとんどの人は自然と居住まいを正し、彼女の視界に入るにふさわしい人物であろうとする。肉厚な唇から放たれる言葉は一つ一つが思いやりとその明晰な頭脳で練られた理論に満ちており、生徒のみならず教師も一目置く存在であった。

 そんな品行方正という言葉がぴったりとあてはまるような人物と、どうして何の取り柄もない私が知り合い、ましてや親友という地位を得たのか。

 きっかけは一冊の本だった。

 高校一年生の三学期、多くの生徒たちが仲の良い仲間たちで集まり語らう中、私一人だけひっそりと教室の隅で三島由紀夫の『仮面の告白』を読んでいた。重厚な文体であるそれを私は一文一文噛み締めるように読み込んでいた。

 同性愛者である「私」の告白は異性愛者である私には理解しがたい感情であり、また難解な単語が多く使われるそれは、暇つぶしに読むには一筋縄ではいかないような作品であった。

 教室で一人ぼっちで座っていることへの言い訳に借りた本だったが、正直すでに私はそれ以上読み進めることを諦めていた。

 「はぁ」と一息吐き本から目を上げると、いつのまにやら前の席に横座りしこちらを見つめている麻理恵と目が合った。彼女は微かな微笑みを浮かべながらじっと大きな目でこちらを見つめ、驚きのまま固まってしまった私に向かって突然話しかけてきた。

「それ、三島由紀夫先生の本ですよね? お好きなんですか?」

 同い年の私にですら敬語を使って話す彼女の口調に釣られ、私は茫然としたまま「は、はい……」と答えていた。

 その時の私にとって彼女は殿上人としか表現できないような存在で、いつも教壇の前か檀上の上に立っているのを遠くから眺めているだけだったのが、急に目の前で親しげに話しかけてきたという状況に私の理解が追い付いていなかった。

 私の返答に彼女は瞳を輝かせると「嬉しいです!」と言って私の手を握った。その柔らかな感覚に私は更に頭が真っ白になり、わなわなと口を震わせて握られた手を見つめた。

 その頃からいつも多くの人に囲まれていたはずの彼女だが、なぜかこの瞬間だけは誰も私たちの方を見ておらず、周囲のざわめきすら遠ざかったかのように思えた。二人きりかと錯覚するほどの静けさの中、彼女は今まで一度も聞いたことのない弾んだ声で言った。

「私も三島由紀夫先生の作品が大好きなんです。よければこの後お話しませんか? おすすめの本などお聞きしたいです」

 子犬のような目で縋ってくる彼女に、私は頷く以外の選択肢がなかった。



 あの日から三年経った今、私たち三年生は卒業という別れから目を背けるように今日という一日一日を全力で過ごしていた。

「りおんさん、お待たせしました。さあ、帰りましょう」

 名残惜しそうに彼女を囲む人々の群れをすり抜け、彼女は一直線に私の机に歩み寄り、私に誘いかけた。もう毎日の習慣となって慣れた私も軽く「うん」と頷いて彼女の横に並んで教室を出た。私と違って『お友達』が多い彼女がすれ違う多くの人に「さようなら」と声をかけるのを横目に見ながら私は歩く。

 ざわざわとする心を抑えて、私は何事もない風を装った。私にとって彼女はただ一人の友達だが、そうではない彼女にとって私は多くのうちの一人だ。いつか私より気の合う友達を見つけて私から離れてしまうかもしれない。高校を卒業し大学や社会という広い世界を知ればなおさらだ。

 この二年間彼女の気を引き留めるためにできることは何でもやった。苦手な本を読むようになったし、少しでも彼女の思考に追いつけるように必死に勉強した。見た目も気にするようになった。それでもまだ不安なのだ。

 彼女の一番になりたい。彼女が私だけを見続けるという保証が欲しい。彼女の全てを支配してしまいたい。

 友情という枠を超えた感情に揺れる私にも彼女は親しげに接し、私はより一層その思いを募らせた。

 高校を卒業をしてしまうまであと三か月もない。一週間もすれば三年生の授業は終わり、麻理恵と会うことができるのは卒業式予行と当日しか残されていない。

 今しかない。今しかないのだ。

綺麗な黒髪を揺らして歩く彼女を盗み見ながら、私は精一杯の勇気を振り絞って声を出した。

「あのさ!」

 麻理恵がこちらを見る気配がした。だが、恥ずかしさと不安のあまり下を向いてしまった私には麻理恵の顔は見えないし、麻理恵も私の顔を窺うことはできない。

「麻理恵はさ……好きな人とか……い、いないの……?」

 とっくに校舎を出た私たちの周りには時折すれ違う通行人がいる以外は誰もいない。麻理恵の足音が止まったことに気づいた私が足を止めて振り向くと、夕日を横顔に受けながらまっすぐに私を見据える麻理恵と目が合った。夕日のせいで赤く染まった麻理恵の頬になぜか心臓がドキリと高鳴る。

 麻理恵は小さく深呼吸をして、

「いますよ。卒業式の日に、その方に告白するつもりです」

きっぱりと、そう宣言した。

 まるで、世界が死んだようだった。すべての色がなくなって、すべての音が止まった。自分の呼吸すら止まったようでひどく息苦しい。

 終わった、と。そう思った。私は一番になれなかった。二年間の努力は報われなかった。私は彼女を繋ぎとめておくことはできなかった。彼女ほど素敵な女性に告白された男が、それを受け入れないはずがない。

 すうっと冷えていく足でぐらつく体を必死に支えた。もう何も考えたくない。この会話ごと全部なかったことにしたい。

 わあっと泣き出しそうな自分を唇を噛んで堪えながら私は笑った。

「……そうなんだ! 応援してる!」

「ありがとうございます」

 かけらの邪気も宿さない彼女の笑みが胸に刺さった。



 次の週から授業がなくなった。

 学校に行く必要がなくなり、まるで何かから逃げるように私は受験勉強に打ち込んだ。麻理恵と同じ大学に行くために、自分の実力よりも相当偏差値の高い学校を選んだ。そのため睡眠時間も削って勉強し、なんとか合格圏内ギリギリにまで漕ぎつけたのだ。全ては麻理恵と同じ大学に行き、彼女との関係を続けるためだったのだが、その意味も先週全部なくなった。

 麻理恵の一番じゃなければなんの意味もない。それでもペンを握る手は止まらなかった。どうしても私と麻理恵を繋ぐ最後の糸を手放す勇気は持てなかった。



 卒業式の前日になり、予行練習のために三年生たちが数か月ぶりに再会した。何人かいない生徒もいるが、麻理恵はいつものように早めに到着し、同級生たちと雑談していた。

 私が教室に入ってきたことに気づいた麻理恵が同級生たちの間から小さく手を振った。いつもなら手を振り返して応える私も、今はどうしてもそんな気分になれず顔を背けて彼女を無視した。麻理恵の顔を見る勇気はなかった。

 自分の席に座ると麻理恵が心配そうな顔で歩み寄ってきた。

「りおんさん、何かあったのですか? それとも、私が何かりおんさんに……」

 麻理恵の気遣いに満ちた声がむしろ気に障って仕方がない。私は苛立ちに任せて、思いをそのまま吐き捨てた。

「なんでもないから。放っておいて。そういうの、うざいんだけど」

 自分が言ったとは思えないほどの刺々しい言葉にハッとした私は慌てて麻理恵を見上げた。麻理恵は驚いたような泣く寸前のような表情を浮かべていた。私が急いで謝ろうとする前に麻理恵が緩く首を振って「ごめんなさい」とつぶやいた。

「無神経に話しかけてすみませんでした。お話しできる気分になりましたら、いつでも話しかけてくださいね」

「あ……」

 私が何かを言う前に彼女は立ち去ってしまった。あっという間にクラスメイトに囲まれた彼女に話しかける勇気が出ず、私はその場から動くことができなかった。



「ねぇねぇ、アルバムになんか書いて!」

「あ、私も私もー!」

「みんなで書きあお!」

 卒業式当日は配られた卒業アルバムの白紙のページにお互いへのメッセージを書き合う伝統らしい。クラスのあちこちでグループ同士が集まってアルバムを広げている光景が目に入る。見ると、麻理恵も色んな子たちからメッセージを書くことを求められてるようだ。

 今日を逃せばもう会えないかもしれなし、大学の合否も明日までわからない。そもそも昨日のことだって謝らなきゃいけない。

 腹を決めた私はアルバムを手に取り、丁度人波が引いた麻理恵に声をかけた。

「あの、麻理恵……」

「あ、りおんさん……」

 ごくりとつばを飲み込んだ後、私はアルバムを麻理恵に突き出した。

「あの、私のアルバムにもメッセージ書いてください!」

「……!? こちらこそ喜んで!」

 そう言うと麻理恵は私のアルバムを受け取り、さらさらと何かを書いてアルバムを閉じた。

「はい、どうぞ。あ、今は見ないでくださいね? 家に帰ったら読んでください」

「え? ……わかった……?」

 麻理恵のお願いを疑問に思いながらも一も二もなく私は頷いた。

 その後私も麻理恵のアルバムに長々としたメッセージを書き、卒業式後もたくさんおしゃべりして私は麻理恵と別れた。



 その日、麻理恵は死んだ。

 私と別れた後に信号を無視した車に轢かれたらしい。

 家に帰って私を出迎えた母から、それを聞いた。

 何を言っているのかわからなかった。

 ただよくわからないまま数日を過ごし、ある日制服を着せられて葬式に連れていかれた。

 お経の声が響く部屋の中を進むと、蓋の閉じられた棺桶が置かれてあった。その中に麻理恵の遺体があるらしい。損傷がひどく、化粧でも誤魔化せなかったようだ。満面の笑顔を浮かべた遺影を見ていると、今にもどこかから「冗談ですよ」という言葉とともに麻理恵が出てきてくれるような気がする。

 麻理恵が死んだ。そのときはまだ実感がなかった。でも、外に出て泣いているクラスメイトを見た瞬間にどっと沸いて出た実感に、心臓が握りつぶされたような感覚がした。次々と流れる涙が止まらず、親に引きずられるように歩いていると気が付いた時には自分の部屋で布団にくるまっていた。

 真っ暗な部屋の中で半身を起こす。ぼんやりと腫れぼったい瞼を開閉しながら視線を巡らすと、点けた覚えのないデスクライトが机の上に置かれた卒業アルバムをスポットのように照らしていた。

 それを認識した瞬間意識が急激に冴えわたり、私はベッドから飛び起きた。机に飛びついてアルバムを乱暴にめくる。

 ここに書かれているのは麻理恵の最期の言葉だ。麻理恵が卒業を目の前にして私に残した言葉。そしてページを開いて、その言葉を見た瞬間、私は激しく嘔吐した。



ずっと前から好きでした。私と付き合ってください。  那倉麻理恵



 麻理恵の丁寧な文字で書かれたそれは私がずっと前から欲しかったものだった。

 私はそれを彼女がいなくなって初めてもらうことができた。

 まるで呪いのようだった。





 その日の朝、彼女が受けたのと同じ大学から通知が届いた。

 私は合格していた。

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