私なりに箱を作ってみた

薄里 理杜

第1話


「煙草、頂戴」


 夜の摩天楼、地面からでは目視出来ないほどの、一際目立つ超高層ビルの最上階。

 そこには壁代わりに、見晴らしの良い一面が硝子張りで構成されている、仄明かりだけが灯されている薄暗い部屋が存在していた。


 硝子の壁から外を見下ろせば、まるで目に入る世界の全てを、神に見下すことが赦されたかのようだった。

 通常の勤務時間などとうに超えた今、眼下にビル灯りを伴い働く人々の営みは、まるでチカチカと輝く星のようにも思われた。


 しかし、その傍らで働き蟻の如く働いている庶民からすれば、今自分達を見下して存在しているビルの存在など、見上げてみても高すぎて、最上階は視点に収めることすら叶わない。

 むしろ一般的な人々の目には、手に届くどころか、まず足を踏み入れることすらもないそのビルは、ずっと金の顕示欲に溢れた、強欲さと貪欲さの象徴として映し出されていた。

 もしくは、そんなビルの最上階など、もはや想像も意識も出来なくなる程に、酷使され搾取され、すり切れきって己の首を上げる余裕もなくしたような、そんな人間達の集まりが茫洋と見上げるだけのものだった。


 そのような高層から見下ろせば、眼下には午後十時を過ぎようとも消えることのないオフィスビルの灯りが煌々と付いている。

 少なくとも、このガラスの破片をばらまいて七色の光を当てたかのような光景は、己が望んでいなくとも、先に挙げた人間達の手によって生み落とされていたものだった。

 超高層ビルの最上階。仄かな灯りの下には一人の男が、硝子越しの景色を眺めて立ち尽くしていた。

 歳の程は三十代に満たない。場違いではと思われる程に若い男は、見える世界で人々があくせく働く風景を想像して、しばらくの間それを光彩に映し続けていた。


 その傍には、スーツ姿の男と同じく、女性らしくフィッティングされた一着に身を包んだ女が立っていた。

 この部屋には、この一間以外に境目となる壁は存在しない。大きく開けたその空間には、部屋の広さに相応の豪勢な机と、来客用と思わしき豪勢な革張りをしたソファーが幾つか、と本当にごく最低限のものだけが置かれていた。

 女は、そのソファーではなく大きな机に寄り掛かるように、細いが引き締まった肉を強調するセクシャリティ溢れる尻を乗せていた。そして、見るからに軽やかな脚を静かに組んで、何処を見るともなく見る無言の存在感だけを重ねている。


 一人は窓から外を見て、一人は黙して机に身を預けている。

 二人とも、それ以外に何をしている訳でもなかった。

 ただ単純に、その男女が共にいる部屋の光景だけを切り取るならば、この男と女は片方を取れば片方が無意味であり、風景として捉えれば、共通点のなかった二人はどちらかが邪魔な存在だった。


「あなたの吸ってる煙草の銘柄、好きなんだ。ビジネス中に吸う訳にはいかないからね」

 最初の言葉を女は無視した。しかし、理由を伴われた男の言葉は、今、確かに二人がいるこの景色に意味を生んだ。

 生活の気配をまるで感じない、人形のようなの細くしなやかな女の手から、男の胸元へと煙草ケースに収まっていた一本が差し出された。

 男は良くある白ではない黒い巻紙で形取られたそれに指に添えると、口許にそれを運んだ。何もないままに、五秒程度の沈黙がその場に落ちた。


「せっかくだから火も付けてくれるのが、女性らしさというか優しさってやつじゃない?

 僕は、ライター一つ持っていないというのに」


 女は半眼にした瞳と寄せた眉根だけで、それが不快である意を雰囲気共々露わにする。

 しかし男の言葉に反応した手前、それをなかった事には出来ず、女は胸ポケットから鈍色をした赤紫の色合いを放つオイルライター取り出した。そこから一連の軽やかな手つきで、流れるようにライターに火を灯す。

 それを男が、女の持つライターに煙草を近づけて、煙草に火が燻り移るように軽く吸う。吸い慣れた銘柄の煙草はメンソールとはまた違う、舌の上にのし掛かるような特有の重みと共存する聡明さが男の脳に心地良い刺激を与えた。

 肺にまでは入れず、唇の中でふかしただけの煙草の煙を軽く吐き出す。白い煙は、指の狭間に挟まれた紫煙とは既に違う、見るからに薄白いだけの浅はかな色をしていた。

 男がもう一度、煙草を口にして、今度は深い落ち着きと共に肺へと煙を流し込む。

 肺を通して脳へ全身へ、本来形にならないはずの安堵が煙を媒介にして身体中に満ち満ちた。


 これが、男の毎日の安らぎだった。

 煙草を吸いながら、それでも先程と同じように、目に映る街の灯りに、受けた感傷を抱き続ける。

 それは単に、この街を見下ろす側に立つ自分も『ただの、立ち位置の違う蟻である』と認識をしていたかったからだった。


 たとえ百万人の人間の、全てが『コイツは違う』と口にしても。

 男が自分の目的の為に、この街の労働者を金と権力で踏み潰そうとも。

 それでも男は、自分は少し居場所が違うだけの蟻だと、自分はただの人間だと思っていた。思い込み続けてきた。

 それが、男がこの摩天楼を一望できるだけの世界に巣くう、傲慢と強欲という化け物に獲って喰われない為の、数少ない自衛の手段だった。


 女は何も話さない。

 しかし、その一連の姿を見続けていた女も、煙草ケースから同じ煙草を抜き出した。煙草の黒の巻紙は白とは異なり、スーツ姿の女に非常に似合ったものだった。

 唇の赤いグロスの上に黒煙草が乗せられる。煙草に灯された煙は、まるで柔らかに空気になびく神秘的な帯のようにたゆたい静かに流れていく。


 言葉は無い。しかし今、それでも煙草という共通を得た二人は、ようやく共有の時間を見出した。


 女が出した携帯の灰皿に、男はそっと灰を落として、名残惜しそうにその時間に閉じた。

 それから間を置かず、女は男とは対照的にあっさりとその時間をゴミに捨てるように、携帯灰皿に吸い殻を捨てた。


 女は気にする事のない落ちる沈黙。だが、男は堰を切ったように語り始めた。


「ねえ姉さん、話をしよう。

 もうどんな人間も駄目なんだ。どんなに高潔な人を側に置いても、共にいて傲慢と強欲に染まらない人間は何処にもいない。

 皆、自ら金の話をしてくるようになる。今日も皆、他者弱者をゴミ虫のようだと発言をするようになる。僕が『それは醜いことだ』と、どれだけ耐えているかを話して聞かせても、今度は陰で話し始める。そうして皆が僕をおいて、まるで水ぶくれのように肥大する。自分は働き蟻だと自負していた存在さえ、蟻を超えて、人を越えて、皆が化物に成り果てる」


 男の言葉は圧縮されたデータのように、どこで息を継いだのか分からない程に、滑らかに嘆きと共に溢れ出た。

「だから、姉さんだけなんだ。話をしよう、姉さん。どうか、僕が今日も働き蟻でも人でも……何でもいいから、とにかく化け物ではないことを感じられるように」


 縋るように、泣きじゃくりそうな様子で男が叫ぶ。

 女は、一度ゆっくり瞑目し、男と同じ遺伝子を受け継ぐ瞳で淡々と言葉を紡いだ。


「──では社長。

 明日のご予定についてなのですが」



 そうして男は、弟は大きく安堵した。

 今日も、己を人に引き留めてくれる姉が、話をしてくれた。

 弟は、毎日その鈴のような声を耳に、まだ己は化物ではないと思う。

 そう、この言葉とこれからの話声を聞く限り、まだ権力の獣などではない『社会の仕組みに取り組まれた、多数の中にいるただの人間である』と思えるのだと──


「──

 ぐ、ぅっ!? がっ……!!」

 

 不意に、安寧に巡ろうとしていた思考が切れた。

 相槌を示そうとしていた弟の手から煙草が零れ、煙草が絨毯に落ちて、その毛足をジリジリと焼き溶かした。

 脳の意思と反して、肺が強制的に呼吸を停止した瞬間。吸っていた空気が、全て吐息にもならず、逆に身体の中に引き込まれるような苦しさ。

 同時に、弾けるような心臓の痛みに耐えきれず、弟がその側にうずくまる。

 持つものをなくした手が己の喉を掻きむしり、そして、声も上げずに淡々とその姿を見下す姉へと力一杯伸ばされた。


「ね……ざ……」

 そして、喉と絨毯に爪で今生最後の痕をつけ、それ以上の反応を得ることはなく弟はただの物としてその場所に転がった。

 姉はそれを見ていた。微笑み、そして慈悲深く。



 哀れな弟だと、秘書として身をやつしながら、ずっとずっと思って来た。

 落ちた煙草に付着させたものは時間で消える、肺を冒し心臓病を誘発する薬物。

 部屋に防犯カメラはついていない。


 このグループは、今時にしては極めて古い世襲制であったから。この計画を立てるまではずっと、姉が秘書として弟を世話するのは屈辱であり、その煙草を吸わせ始めた頃は、早く死ねば良いのにとそのような感情ばかりが先立っていた。

 色々と焦りもした。吸っている途中で死なれるのには色々とややこしいから、この時間では死なないで欲しいと、何度も祈ったこともあった。


 弟の席は、私にこそ相応しかったのだ。


 弟が、理性の端で最後に縋った姉は、とうの昔に、自分の一番身近にいた化物であったのだ。



「ばかね」

 それでも──姉であった女が、床に転がる弟を目に入れた。

 いつ死ぬか、最初は憎しみしか湧かなかったのに、無意識であろうが薬物で肺と心臓が弱っていく弟が見せるか弱い心は、化物の心を大いに満たした。

 最初は、心底憎んでいた相手に対して、いやいや煙草を渡す態度は、いつしか演技に化けていた。


 弟が死ねば、自分にその権力の全てが渡る。そう妄想していた時期も確かにあった。

 だが、実際に実行してみればどうだろう。煙草は絨毯に落ち、調べれば熱反応を起こした薬物が残っていてもおかしくはなく、更に思えば本当に検出されない毒薬なのかも怪しいものだ。何しろそんなもの自分では確認のしようがないのだ。


 社会権力者の心臓マヒなど、検分されない訳がない。

 捕まる可能性は十分にあった。十分どころか、毒を仕込む作業の中で最早確信しかしていなかった。

 それでも、姉はやめなかった。自分に懐く弟を殺そうと思ってやめなかった。

 

 結果、今この部屋は、一匹の怪物によって一つの箱の呈を示していた。

 一時ではあるが、この箱は今、この瞬間金と地位に権力と傲慢、強欲と怪物の全てを収納していた。最後の良識を抱えていた弟の死まで、支配欲の片端として付け足し収められ、最後には自己の破滅までもが整えられているという、女にとってのはこの上のない完璧な箱だった。


 この部屋に、外への接点が生まれれば──箱の蓋を少しでも開くのならば、それらの全てが飛び出すだろう。

 この箱は、女が自他の欲の全てを喰らい尽くして形を整えた、己の為の最高傑作だ。開く瞬間を想像するだけで胸がチャペルの鐘の如く鳴り出して仕方がない。

 背徳と愉悦の中に身を委ねた女が、今にも浮かびそうな足取りと共に、恍惚な笑みを浮かべている。


「ほぉんと馬鹿よね。あるもの全部ほしいままに受け入れられたら、こんなに気持ち良くなれたのに」

 弟が最後に聞いた鈴のような言葉が、今や水飴をたらし込んだように、耳にした者にまとわりついて離れない音になる。


「でもあなたが本当の正直者だったら、こんな愉しみ得られなかった。あなたのお陰で、今ここは、ここだけは私の楽園。ああ、なんて幸せ!」

 富も名誉も今だけは、全てが欲を食らう女の元に揃っている。女は、狂おしいほどに身じろぎし己の身を両腕でかき抱いた。

「……それでも。惜しいけれども」

 女は、うっとりと目を細め自分の胸に収められていた携帯に、三桁の番号を打ち込んで通話先の相手と話し出した。


 己の野望も欲も全てを詰め込んでは、密やかに作り続けてきた怪物の箱。

 女は、怪物は完成したその箱を完全に開けて、手にする欲に伴う自己破滅までをも、己の悦として飲み干すことに決めたのだ。



「ええ、社長が突然倒れられて!」



 ──そして今、怪物の足元には、それに喰われた一つの男の骸が何処も見ていない苦悶の瞳で転がっている──

 しかし、これは神話でもない不出来なパンドラの箱。本来、最後にあるとされた『希望』までは、用意されていないようだった。







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