純情リサジュー

御子柴 流歌

純情リサジュー

「そもそもな話だけど」

 目の前の椅子に座る男の子が自分の鞄から紙とシャーペンを取り出すと、私はさりげなく身構えた。さっさと手近な椅子に座れば良かったと後悔すら覚える。

 私と彼以外、誰も居ない夕暮れの教室は、ロマンチストが喜びそうなシチュエーション。

 だけれど、可憐な少女の相方が《この彼》である場合、ロマンティックは凍りつく。

 何故って……。

 それは、今からの話を聞けばわかること。






「こういう図形、知ってる?」

「……数学の教科書の裏表紙に載ってるやつでしょ?」

「そう。知ってるなんて流石だね」

 ――テスト順位学年一桁をなめるな。

 というか、教科書は新学期が始まったときに生徒全員に対して配られたのだから、見ていない方がどうかしている。

 でもこの青年の成績はこの私をも上回るから間違いなど無く、何も言い返せないから性質たちが悪い。悪すぎて、困る。

「名前も解るよね」

「リサジュー図形」

「そう。二つの、直角に交わる振動をかけて動かすとこれが得られる。最初のうちはどう見たって気がおかしくなりそうな容貌かたちだけど、時間をかけてやれば、どんな風にしてもスタートに戻ってまた同じ容貌を描き出すんだ」

 そこまで言って、彼は先ほど自分が出した紙に図形を描き出す。

 本来、正確なリサジュー曲線を描くには特別な装置を使う(と言っても、振動制御の器械がついた振り子だ)か、パソコンを使うのが多い。

 だが、彼の手元を見ていればわかる。

 コンピュータか何かで制御されているような無駄のない動き。

 限界まで贅肉を省いた拒食症のファッションモデルでも敵わないような無駄のなさ。

 陶磁器のような彼の横顔を見つめていると、本当にこの人は生身の人間ではないような、温かい血の必要ない電気制御のアンドロイドのように見えてくるから、怖い。

「でーきた」

 きりりと張りつめていた空気を急激に緩開するような、間抜けな完成の合図。

 見れば、コンピュータもフリーズしそうなほどの出来栄えなリサジュー曲線があった。

「ここまで巧く描けたのは初めてかな」

 じゃあ、これは何回目の作画なのか、と訊きたくなった。

 だが、訊けなかった。

 頭の何所かでは《訊け》。別なところでは《訊くな》。

 二つの意見が、私の中で交錯し、衝突し、炸裂する。

 結論は出ない。

「どうしたの? 黙っちゃって」

「……、……まあ、こっちに言わせれば『君こそどうしたの?』って感じよね」

 軽口を叩けるのも、彼が笑顔で訊いてくれたから、なのかもしれない。

「いや、別に大した意味はないんだ……、って言ったら、君はお冠だよね」

「当たり前」

「うん、まあ安心してよ。意味はあるから」

「……聞こうじゃない」

 話に少しの区切りができたと見た私は、ようやく椅子に腰かける。背骨ががりがりと音をたてたのには彼が気付かなかったので、彼の言うところとは別のところで安心感。だけど、椅子に座っても何故か落ち着かないのは、心のどこかに浮遊感があるからだろうか。

「こうして見ると、この線って、何かを求めているように見えない?」

「……どうしてよ」

「だって、この教科書に描かれてるのを引き合いに出すけど」そう言って、今度は教科書を取り出す。「こうやって仕切られた領域の中を、一杯一杯埋め尽くすように線が描かれているんだ。これって、何かを探しているように見えてこない?」

「何かって何よ?」

「そんなのリサジュー曲線に訊かなきゃわかんないよ」

 数学マニアでも、そんなことをあっさりと言えるのだろうか。

「でも、勝手に解釈をつけていいのなら、僕は恋を捜してるんじゃないかと思うんだ」

「……へえ」

「あ、その反応はひどいなあ。もう少しいいリアクションがくると思ってたのに」

 そう言って彼は残念そうにリサジュー曲線に向き合う。

 どんな反応を見せれば、私は今の彼を満足させられるのだろう。

 ――そもそも、私以外の人ならここまで彼の話を聞いてあげられないと思うのだ。

「……どんな恋なわけ?」

 お気に召したらしい。彼はにっこりと笑う。そして、こちらに身を乗り出してきて、

「自分をずっと好きでいてくれる人をさ」

 曲線を見つめていた視線をそのままに、今度は私の顔を真っ直ぐに見てくる。

 近い。

 触れようと思えば――いや、触れようと思わなくても、簡単に触れ合える距離。

 時々変人的なことを言うが、普段は大人しく笑い穏やかに話す男だ。顔も決して悪い方じゃない。夕焼けに薄く彩付いた彼の頬は赤い。私の頬も火照っていたことに気づく。

「だって、たとえばこれを振り子で描いたとしたら、揺れが止まるまでずっと同じところを歩み続けるんだ。自分に一番必要な何かを捜し求めているような気がしない?」

「恋を捜しているのだとすればね」

「うん。そう考えると、リサジュー曲線って純粋なやつだなあって思うんだ」

「話はそれだけ?」

 満足げに語っていたところをぶつ切りにしたらしく、彼は唇をへの字に曲げた。

「……あるけど言わない」

「……そう」

 そう言って、彼は鞄を持って静かに教室を出て行く。置いていかれそうになりながらも、私は彼の後を追った。

 あまりにも真っ直ぐな、リサジューを解いて真っ直ぐにしたような視線。

 そして、私に対して(かなりマニアックだが)真っ直ぐに話してくれた、リサジューにも負けない純粋さ。

 そのふたつに、私は中てられてしまった。












「……なにこれ?」

「幕間に演るんだしこれでいいかなー、位に書いたシナリオだってさっき言ったけど。ご注文の通りに」

「訳がわかんないんだけど?」

「私も訳がわかんないけど?」

「じゃあ何でこんなん書いて持ってきたー!」

「これしかできなかったんだから知らーん!」

「せめて書き手本人は理解できるものにしろー!!」

 どっかーーん、という効果音が付きそうな感じで、目の前の火山が大噴火した。部室が、部長の火砕流で満たされていく。

『ファンタジックな短いお話を』との発注を受けて、数学の授業中に裏表紙を見て、そこから必死に編み出したタイトルから捻りだしたのだが。

 我等が演劇部部長にはやはり理解されなかった。

 ――よくよく考えれば、これ、ファンタジックでも何でも無いような気がしてきた。

「頼むよー、副部長……」

「いや、そう言われても、だって私、本職じゃないし」

「しょーがないだろー。頼みの綱が急性胃腸炎ってシャレにならんことになったんだし。俺だって他の仕事っていうか作業が入っちゃった所為で書けないからさ。お前なら大丈夫だと思ったんだよー……」

「『しょーがない』は私の台詞でもあるんですけどー」

 演じるのはそこそこ経験してきてはいるが、台本とか脚本とか、そういうのは未経験だった。

 せめてもう少し時間をくださいよ、と。

 今朝言われて締め切りが放課後って。それを未経験者に言うのか、と。

 全く以て、よりにもよって、という話なのだ。

 けれど。

 でも、これって――。

 ――私を案外信頼してくれてるってこと?

「っていうか、さ」

 少しの静寂を破った彼を見やる。

 頬杖をついて、顔はこちらを向きつつも視線は窓の方を見ている。

 逆光になった西日で、色素の薄い彼の髪はいつも以上に紅い。

「これ、どういう心で書いたんだよ」

 どういう心、と申されましても。

「誰か、……モデルでも居るのかよ」

「え」

 視線を逸らしたまま、少しだけ口を尖らせて。

 ――こんな表情、今までに見たことがあっただろうか。

 少しおかしな思惟を吹き飛ばしたくなって、別な思考を手繰り寄せる。

「モデルって言われても……。よくわかんない、かな」

「……そうかよ」

 結局、思考どころか、藁すら掴めなかった。

 ちょっと掴み所が無いときもある彼だけど、今日はとくに掴めない。

「あと、もう一つ」

「……なに?」

「これさ。俺とお前でるんだけど、問題無いんだよな?」

「う? うん。……たぶん」

「……ホントだな? いいんだな?」

 何故、そこまで念押し?

「……いいよ?」

 不意に、音を立てて倒れる椅子。彼が座っていた椅子。

 そして、間近に迫った、彼の表情。

 動けない。

 身体も、視線も。

 彼に向き合ったまま。

 動かせない――。

 そして――、

 ――にんまりと笑う彼。

「お前、これに似たようなことを、ここに書いてるんだからな?」

「……へ?」

「……んな色気もへったくれもないリアクションすんなや」

 横を向き、噴き出しながら笑う彼。

 ――失礼な。

 そう文句の一つでも付けようと思ったのだが。

「……まぁ、いいや。幕間にやるにしちゃ動きが無いかもしれないけど、簡単にプロジェクタとか使えば、ちょっとは映えそうだし。……無茶言ったのは俺だしな」

 何事も無かったように演出の話に入られた。

「……あー、そうそう。たしかにそうなんだよね。ただ向き合って話してる感じになっちゃうなぁ、とは思ったんだけど」

「それこそ、背後にリサジュー曲線を延々描いてる映像でも流しとけば良いんじゃね、って。不思議空間の演出的な感じで」

「なーるほどね」

 いつも通りの時間に戻った、気がする。

 でも、完全に元通りでは無い。

 リサジュー曲線のようにはならず、書き始めの位置からは少しズレてしまって、そのまま同じ図形を描き始めているような。



 ――――こんな気持ちになっているのは、自分だけ?

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