ラッキースケベは起こらない

starsongbird

ラッキースケベは起こらない

 お茶でもしますか、と入った喫茶店は店内が満員で、わたしと瑞樹は二人、オープンテラスに案内された。

「む、外か」と眉をひそめる彼にまあまあと言いながら、通りを見渡せる席に腰掛けてみる。四月初めの風はまだちょっと冷たいけれど、うららかな日差しが心地いい。

 と、そんなご機嫌な気分でいたのだけれど。

「さて、何にしようかなー」とメニューを眺めるわたしたちに、「お帰りなさいませ、ご主人様」とロングドレスのメイド服に身を包んだウェイトレスがお冷やを運んでやってくる。

「――瑞樹」「うむ」

 わたしたちは頷き合うと、椅子を浅めに座り直す。

 そんな様子を見て「ご主人様?」と彼女が首を傾げたそのとき。

 一陣のつむじ風が、桜の花びらとともに駆け抜けた。

 街並みを抜け、オープンテラスを吹き抜け。

 そして、わたしたちの目の前にいる彼女のロングスカートをめくり上げる。

「え? なに? きゃー!」

 慌ててスカートを押さえつけようとする彼女の手から、お冷やごとお盆がこぼれ落ちていく。

「瑞樹」「うむ」

 わたしたちはするりと椅子から立ち上がると、「よっ」「はっ」とお冷やとお盆を受け止めていく。

「あ、その、すみません」

 はっと我に返った彼女にお盆を返しつつ、「ホットを二つ頼むよ」と何事もなかったかのように注文をする瑞樹。

「瑞樹」「うむ」

 小走りで店内へと戻っていく彼女の後ろ姿を見ながら、わたしと瑞樹は二人、手にしたお冷やをちびりと飲む。

「黒だったね」「うむ、そしてガーターベルトだった」

「ラッキースケベだね」「ああ、いつもどおりのラッキースケベだな」

 わたしと瑞樹はグラスを置いて、そして同時にため息をついた。



【ラッキースケベは、起こらない】



 会計を済ませて店を出たわたしは、外で空を見上げていた瑞樹に「おまたせー」と声をかける。

「さて、どこに行きますか」

「ふむ、家に帰るというのはどうだろうか」

 わたしを見てぽつりと呟く瑞樹。

「いやいや、来たばかりだし。まだ今日の外出腹一分目くらいだよこれ?」「俺はすでに過食気味なのだが」

「そこを何とか、ほら、映画館なら大丈夫でしょ? でしょでしょ?」「……ふむ、そうかもな」

 納得しかけた瑞樹の手をとり、わたしは通りへと彼を引っ張った。

 そのとき。

 一人の女子高生が、わたしたちの横を過ぎようとして、彼女は携帯電話に夢中であって、そして、そうして。

「きゃっ!」

「むぐうっ」

 次の瞬間。

 わたしに手をとられまろび出た瑞樹と女子高生は見事にぶつかり転んで、二人揃ってもつれて倒れる。瑞樹が下で、女子高生が上。

「……瑞樹」「ぐむ」

 なぜか分からないけれど、瑞樹の顔は彼女のスカートの中だった。さすがだ瑞樹。

「もう、いっったいなあ……ちょ、え、きゃ」

 頭を押さえた女子高生が自分の状況に徐々に気づいていく中。

「瑞樹、相変わらずのラッキースケベだね……」「うむ。しかし、この後は警察だな」

 くぐもった声をかき消すような「きゃーっ!」という叫び声の中、わたしは一人、大きくため息をついた。



 わたしの幼馴染みの海原瑞樹は病人だ。ちなみに病名は『ラッキースケベ症候群』という。昔わたしが付けてあげた。

 瑞樹はとにかくラッキースケベな目に遭う。外を歩けば道行く女子のスカートが風に巻かれてめくり上がる。角を曲がれば女子とぶつかり、転んだ彼女のスカートがこれまためくれる。ちなみにその子がズボンの場合は転びもつれて胸が当たる。長年見てきたわたしからすれば、これはもう喜劇を通り越し悲劇も通過して、もはや災厄といったレベルだ。瑞樹にとっても、彼と出くわした女子たちにとっても。



「なかなか面白い映画だったね、瑞樹」

 映画館の帰り道、通りの端を歩きながらわたしは大きく伸びをした。

「ふむ、傷を負った主人公を救うために、幼馴染みが異界に姿を現したシーンは思わず震えたな」「うんうん」

 満足げな瑞樹の様子に、映画に誘ったわたしも嬉しくなる。

「しかし主人公がいきなり魔術を使うというのは設定として――」

 そこで途切れた瑞樹の言葉に、わたしは彼の顔を、続けてその視線の先を追って、そして。

「――あ」

 そして、その先にある喫茶店のオープンテラスを見て、そこにいたウェイトレスを見て、わたしたちに気づいた彼女が、スカートを押さえて慌てて店内に戻っていくのを見て、そしてわたしは瑞樹へと振り返る。

「瑞樹」「――ああ、帰ろう」

 歩き出す瑞樹の背中を、わたしは慌てて追っていく。


 わたしの幼馴染み、海原瑞樹は『ラッキースケベ症候群(他称)』にかかっている。

 だから瑞樹は、わたしが連れ出さない限り、家から一歩も出ることがない。

 高校を途中で辞めてから、ずっと。



 瑞樹の周囲で、どうしてそんなことが起きるようになったのかは分からない。いつからだったのか、彼自身ももう覚えてない。

 その現象は、どうやら瑞樹が「意識」した対象に起こるみたいなのだけれど、それも結局、どの程度の意識の深さ強さが引き起こすかは見当もつかないのだから、瑞樹やわたしにはどうしようもないのだけれど。

 けれど、その不可思議で理不尽な現象が起きるたび、瑞樹の回りからは、人が遠ざかっていく。当然と言えば当然だ、誰だって、公衆の面前で自分の下着を披露したくはないし、胸を触られたくないだろうから。

 そして。だから瑞樹は、家を出ない。自分から後ずさる人たちを、もう、できるだけ見たくないから。

 そうして瑞樹は、わたしの幼馴染みは、わたしと彼の両親以外の、誰とも付き合わなくなってしまった。



「さてと、家に着いたね」

 電車を乗り継ぎ家路へと歩き、わたしたちは瑞樹の家へとたどり着く。

「それじゃ、またね」

「ああ、またな」

 そう言って家に入っていく瑞樹を、わたしは軽く手を振りながら見送る。

 そして、ぱたんとドアの閉まる音に、わたしは大きくため息をつく。

 今日は、気合いを入れておめかししたんだけどな、わたし。

 ちょっと寒いけれど春色のブラウス。勇気を出してはいてみた短めのスカート。わたしにしては結構な頑張りだったと思うけど。


 それでも。わたしには、ラッキースケベは起こらない。



 幼馴染みで瑞樹と一緒にずっと過ごしてきて。

 瑞樹がラッキースケベな目に遭うのをずっと見てきたわたしだけれど。

 わたし自身がそんな目に遭ったことは、いまだかつて一度もない。

 瑞樹は「ああ、またな」と言って、一緒に出かけてくれるけど。

 けれどわたしの心は時々ちくりと痛むのだ。瑞樹はいったい、わたしをどう思っているのかな、と。

 ラッキースケベな目に遭う子たちは、みんな可愛い子たちばかりで。

 その子たちには意識が行くのに、わたしには向かないのかなとしょぼくれてみたりして。

 でも、瑞樹と一緒にお茶をして、映画を見て、ぶらぶら公園を歩くのはとても楽しくて。

 でも、けれどとわたしは思う。瑞樹にとって、わたしは一緒に遊べる、気のおけない幼馴染みにすぎないんだろうか、と。

 それを直接確かめることなんて、臆病なわたしにはできないのだけれど。


 だからわたしは、瑞樹の部屋の窓をこうして見上げながら思うのだ。

 いつかきっと、ラッキースケベがわたしにも起こりますように、と。

 気合いを入れて用意した服が全部吹き飛ぶくらいの奇跡が、いつか起こりますように、と。

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