二 彼とは何ですか
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次の日の朝に私たちは分かれ、それからは平常の人生に戻ると思われた。
しかしあの日以来、私は彼女とよく会うようになっているのが現実である。
実際に数を数えたわけではなく、体感としての回数が増えている。
あるいは意識したのでそういう風に感じるだけで、以前と何ら変わっていないのかもしれない。
それを確かめるのは困難であり、同時に私はそういうことには興味が湧かない。
畳みの目を数えるのと、彼女とひと月にどれだけ出会ったかを数えるのは似たようなものだ。
それに意味を見出す者もいるかもしれないが私ではない。
きっとそれは、彼女や彼の役目なのだろう。
彼女との夜からひと月と少し経った頃に私と彼は彼女の手引きで出会った。
「やぁ文士殿、こうやって腰を据えて話すのはいつ振りだろうね?」
白々しくそう言われたのは晴れた日の昼であった。
会わせたい人がいるなどと言われ、店に呼び出されたのだ。
「つい昨日、貴方に付き合って酒を飲んでいたのは気のせいでしょうか」
あの日から彼女は私を呼びつけては出かけるようになった。
大抵、彼女が私を街に連れ出す時というのは酒を飲む時である。
そうでない時は服や食料品の買い出しだ。
私を小間使いと思って連れ回していると思ったが詳細は不明。
恐らく、意味などないのだろうが。
「これは冗談というものだよ文士殿。いやいや、分かったうえでそう答えたのだと心得ているとも」
機嫌良さそうに話して彼女が椅子に座る。
店に置かれた蓄音機から流れるバッハの音楽に合わせて、指で机をトントンと叩いた。
落ち着きがないというよりも、癖のようなものだった。
どうにも彼女は音を聞くと拍子を取ってしまう性質がある。
しばらくすると満足したのか止めてしまうので、慣れてしまった。
始めこそ鬱陶しく思ったが、仕方がないことだと諦めを付けた。
「それで私を会わせたいというのは、そこで立っている彼のことですか」
「勿論」
彼女が連れてきた少年。
小さく、少々華奢な体つきで痩せっぽっちだ。
どこか彼女に似ている。
雰囲気のような身に纏わりつく何かがよく似ていた。
「はじめまして」
そう言って彼が頭を下げる。
名乗られて、私は彼が彼女の弟なのだと理解した。
彼が椅子に座り、向かいにいるのが彼女と彼の二人になる。
珈琲を注文して私から切り出した。
「どうして私に会いたい、と?」
私にとって、その日における最大の疑問である。
褒められたことではないが、人に会ってみたいと思われるような人間ではない。
それによしんば怖いもの見たさなどで私に会ったところで、一体何の意味があるのだろうか。
「姉さんがよく先生の話をするので」
「先生はよしてください。私はそんな風に言われる人間じゃありませんから」
「じゃあ、なんと呼べば?」
「文士殿の事は文士さんと呼べばいいさ」
笑顔で言ってしまう彼女を恨めし気な目でにらみつける。
それでも彼女は全く顔色が変わらない。
目の前の彼は承知したようにそれに頷いた。
訂正するのがいささか面倒になり、そのまま彼に文士と呼ばせることにした。
「姉さんは文士さんに良くして貰っているみたいで、お世話になっています」
彼が私に笑いかける。
やはり彼女に似ている。
私と同じ男性とはとても思えない。
不思議な人物もいたものである。
「お世話なんてしていませんよ。私がしているのは彼女の遊び相手という程度で」
「遊び相手にしても大変でしょう。姉さんは自由な人だから」
「はは」
笑うが、否定は出来ない。
本当に彼女は縛られない。
彼女と付き合っていて理解したのは、あの夜の行動は彼女にとっては平常の事だということだ。
思うままに行動する。
衝動的故に暴力も考えなしに行う。
絡まれたから殴る程度で済ませてくれているからまだありがたい話である。
女性にしては力が強いが男と比べれば力負けすることもしばしばで、その度に私が間に入ったりあるいは手を引いて逃げることもある。
無差別にその力を振るわない分制御はされているが、彼女の中で何か一線を越えてしまえば素面でも酔っぱらった時と同様に拳を上げる。
つまり彼女は、酒の勢いで喧嘩をしているのでないのだ。
そうなれば喧嘩の場は夜の街だけでなく、昼間でもそうだ。
やはり衝動は憎まなければならない。
衝動を遠ざけてこそ人の世で問題なく生きていられる。
さらに厄介なのは彼女の性質なのか蛍光灯の光に蚊が群がるように人を寄せることだった。
「長い付き合いになるかもしれませんし、ご挨拶とお礼を言いたくて」
「そうだったんですか」
「ご迷惑でしたか?」
申し訳なさそうにこちらを見上げる。
この辺りは姉には似ないらしい。
彼女は私にこんな表情を見せたことがない。
謝罪はしても反省はしていないのか、次から次へと問題を持ち込む。
私がいくらよせと言ってもいいじゃないかと笑って受け流す。
「いえ、全く」
「言ったろう? 文士殿はいい人なんだ。具合もいい」
「具合とはなんですか?」
「おや、淑女方もいる店で僕に言わせるつもりかな」
その言葉に何故か弟の方が頬を赤くする。
彼の反応からか私は理解した。
彼女が言っているのはそういうことらしい。
いたずらにした時間の中にある彼女との思い出。
夜の帳が下りてから上がる幕というのがある。
薄暗い部屋の中で汗を浮かべて笑う彼女の顔が思い出される。
彼女の口から投げつけられる甘い言葉と同じぐらい甘い匂いを嗅いだような気分になって頭の中がかき混ぜられる。
別れを惜しむように手に力を込めて握る。
その一瞬だけ彼女を制御しているような気持ちになるが、現実はそうではない。
「別に後ろめたいことでもないし、言ってしまっても問題はないがね」
「……やめてください。彼に話したんですか?」
「姉の交際を弟に話すことに問題があるかな?」
「わざわざ話すことじゃないでしょう」
「文士さん、僕が望んだことです」
見計らったように珈琲が配膳される。
口に含めば苦みが口の中いっぱいに広がっていく。
「熱くなりました。すみません」
あまり意味のある行為ではなかった。
彼女はそういう人間なのだと分かっているはずだろうに。
あんな風に言ってみせてもこんな店の中で言い触らしたりはしない。
弟に言われて交際を話しても多分詳細は事までは明らかにしていないはずだ。
彼女の中で引かれた線を跨がぬように動いている。
「文士殿が謝ることじゃない、僕の配慮が足りなかった」
そうしてまた彼女は笑うのだ。
橘高泰治は月に引かれる 鈴元 @suzumoto_13
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