橘高泰治は月に引かれる
鈴元
一 彼女とは何ですか
衝動は避けなければならない。
それは人を蝕み、侵食していく毒なのだ。
私は衝動が怖い。
衝動というものに脳を支配されてしまうのが恐ろしい。
自身の肉体が衝動によって動く機構と化すのが嫌なのだ。
だが我が心の中にすでに衝動が住み着いている。
服に落とされた一滴の染みのように確かに存在している。
ゆっくりとこの衝動が広がる前に、手を打たなければならない。
律するのだ。
己を律さなければ。
そう思う私を二人の人が笑うのだ。
「そんな規範に何の価値があるんだい?」
「もっと自由になればいいでしょう?」
私はそれでも律の字を愛する。
愛さなければならない。
×
彼女との関係を始まりを思い出すことは出来ない。
正しくは、彼女との出会いを正確に思い返せないのだ。
しかし私の人生に彼女が、あるいは彼女の人生に私が深く関わることになるきっかけは覚えている。
それはある初夏の日の夜だった。
当時の私は(あるいは見ようによっては現在の私も)放蕩に身をやつしていた。
親元を離れ、学徒としての生活を送っていたが、次第に孤独の恐怖におびえるようになった。
それは未来への不安といってもいい。
私が身に付けようとする学問は、私が吸い込んでいる知識は、私に染みつきつつある社会という構造が私を怯えさせる。
目をつむり獣道を歩くようだ。
多くの人はきっと、学問や知識といったものが目を開かせるものだと信じている。
あるいは道に光を差し込ませるものだと信じている。
私もそうであった。
だが私という人間は強く強くまぶたを閉じた。
縫い付けんばかりに己の手に力をこめて、目を押さえる。
それはあらゆるものへの不信感になり、不信感は倦怠感になり、果てには半ば捨て鉢な感覚へと変じた。
死に体。
己を暗い闇の谷の底へと放り込んでしまった。
いつの間にか抱えていた頭痛が私に何かを告げているようだ。
それは前進か後退か、それとも停滞の勧めか。
答えはない。
あるとすれば、私の中にのみ存在する。
そんな状態の中でも、私は心の中で生きながら死んでいる自身が後ろめたく、昼間大通りを歩く時には、意味の分からぬ警戒に押しつぶされそうになっていたものだ。
閑話休題。
はじめに声をかけたのは彼女の方からだった。
「おや、文士殿じゃないか」
夜の街の中に彼女はいた。
彼女はいつも私を文士殿と呼ぶ。
私の住まいの近くには教会があって、弟と一緒にそこで世話になっている。
なんでも早くに両親を亡くしたため、生前に親交のあった神父様が彼女の後見人として面倒を見ているとのことだ。
しかし彼女は敬虔な信仰者ではない。
彼女が尼だったならば破戒を尽くしていたのだろうと考えてしまう。
ただこの時の私は彼女のそういう性質を理解してはいなかった。
「どうしたのかね、もしや一人で酒を飲みに来たのかい?」
そういって私を見る。
白いシャツにズボン、サスペンダーと衣服や言葉遣いは男性的だが、彼女自身は女性的な雰囲気を持っていた。
有り体に言って、豊満である。
男装の麗人の言葉は少々似つかわしくない。
だが、服と彼女自身が合っていないというわけでもなく、適切な表現が私には思い浮かばなかった。
被っているハンチング帽のツバをトントンと叩きながら彼女は私の答えを待っていた。
「いや、友人と酒を飲んでいたんだけれど、喧嘩別れをした」
「なんとそれは大変だ。しかし、文士殿が喧嘩をするとは珍しい。僕は文士殿が人と争うところを見たことがなくてね」
どこまでが本心なのだろうか。
歯を見せて笑ってはいるが、決して明るいものではない。
いたずらをする子供がほくそ笑んでいるようだ。
本当にそう思っているのだとしたら、失礼極まりない想像だが。
「僕が悪いんだ。頑固になり過ぎたから」
争った相手は学友の川端君だ。
氏は非常に義侠的で親切な奴だが、その真面目さや彼の中にある一本の筋が私の神経に障るのだ。
彼の前に立つと自分が惨めな虫になった気持になってしまう。
しかし、彼の言う言葉の通りになるほど物事は美しくはない。
もっと言えば、物事に美醜の観点を持ち込むなど酷く無意味なのではないかしらと私の心の中で何かが呟くのだ。
美しいものは汚れていて、汚れたものは美しく、合理は非合理であり、非合理は合理なのだ。
割り続け、解体し続け、分解し続ければ、あらゆるものに意味などないのだ。
それを彼は分かっていない。
人の出会いに何か特別なものがあると信じ、人の繋がりを貴ぶ彼には理解などできようはずがない。
「ふうん、そうか。もし飲み足らないのなら僕が相手になろうか」
「冗談でしょう」
「本気だとも。いやなに、僕は時にあてもなく酒場に顔を出すのだけれど、文士殿のように友人と酒を飲む経験はないと思っていてね。だから私も文士殿のようにしたくなったのさ」
友人と言われるほど、我々の仲は深くないでしょう。
そう言いたかった。
でもそんなことを言ってもどうしようもないことである。
この場合は親しいか親しくないかが問題なのではない。
彼女と共に行くか行かないかが問題なのだ。
正直な話をすれば、どちらでも良かった。
彼女と行けばきっと普段心の中で首をもたげる意味のない不平不満の類や、その夜の川端君とのことを話してしまうだろう。
聞くに堪えない話だが、向こうだってそれを承知で誘いをかけているはずだ。
もしくは求めていない話を聞かされるうちに自分から下がるだろう。
「分かりました」
結局、私は彼女と近くの店に入ることにした。
そうしなければ私はきっと穏やかに無意味な日々を送れただろうに。
×
妙なことになってしまったと思ったのは夜の街を彼女と駆けている時だ。
気分はまるで大罪人である。
酔いが余計に回っているためか腹の中から気持ちの悪いものが上ってくる。
吐き出してしまいたかったが、そうしている場合ではなかった。
なんとか路地裏に隠れ、ゼエ、ゼエ、と息を吐く。
「いやあ、まさに韋駄天! 中々の健脚ぶりに僕は驚いてしまうよ文士殿。文筆を生業とする者はこのようなことは不得手だと思っていたが、心得違いだったとは」
彼女の何ともなさそうな顔には腹立たしさすら感じる。
頭が痛い。
私のこめかみの内側から裁縫針が顔を出す錯覚に陥りそうである。
どうにも出来ず渦巻いたものが口から零れ落ちた。
「ははぁ、悪いことをした」
地面に落ちる私の中身を私は静かに見つめていた。
何もかもが元ある形を保てずに酒と混じった何かになっている。
当然のことがなされたそれに不思議と安心の感情が湧く。
確認作業と何ら変わらない。
「気分はどうかね?」
私の背を擦る彼女に私は「最悪です」と返した。
その後も二度三度と逆流を起こして、やっと私の体は落ち着きを取り戻す。
私の目を覗き込む彼女の顔は、愉快とも不安とも取れない顔だった。
私は彼女を冷めた目で見ている。
「苦労をかけた」
「お互い様です」
私たちが駆けなければいけなかった原因は彼女にある。
予想通り、私は自身のつまらない身の上の話などをして、彼女がそれを聞きながらあれこれを物を言って返していた。
彼女はウワバミの類らしく次から次へと酒を飲み干していく。
私の話を肴に酒を飲んでいるのかと思われる。
思い返して腹を立てるようなことでもないが、蓼食う虫も好き好きと言いたくなる。
他人の人生の話に意味などない。
無味無臭である。
そして、自分の人生にも意味などはない。
空気を肴に酒を飲むのは、正気の沙汰ではないように思えた。
「なんであんなことをしたんですか」
問題が起きたのは何人かの酔っ払いが、我々の座る席の近くに来た時だった。
どこかですでに酒を飲んでいたのだろう。
店員に通されて奥の席に座ろうとしていた。
私は酔っ払いが嫌いだ。
彼らの多くは大きな声でがなり立て、己が地主や有力な政治屋になったような振る舞いをすることがしばしばある。
そういった性質に迷惑をした経験は一度や二度のことではない。
川端君との一件の話の途中であったこともあり、私は心中穏やかではなかった。
無意識のうちにそちらに視線を向けていたらしい。
「何見ている」
私の視線に気付いた一人がわざわざ突っかかってきた。
面倒だ。
そちらを見たからなんだというのだ。
見られたら石にでもなるというのだろうか。
「別に何でもありませんよ」
「怒ってるのか?」
怒っている訳がない。
通りすがりの酔っ払い程度に起こる理由などない。
だが、その物言いは明らかにこちらに対する敵意があるのは分かる。
こちらが否定してその場が収まっても、どうせ酒を飲みつつ私の話をするのだろう。
そうして自分がその気になればなどと言ってありもしない武勇伝を作り始めるのだ。
不愉快である。
「怒ってませんよ」
ただ何も言わずにまた突っかかられるのも面倒だ。
無駄な問答にならぬようにそうとだけ返しておこう。
いぶかしんだ目をしてから、何か合点がいったという風に一人納得した顔をする。
それも腹立たしいことだ。
腹を立てても仕方のないことではあるのだが。
「女の前だからと調子に乗ってみたのだろう?」
明らかに挑発的な言葉だった。
反応をするに値しない。
その男の連れ合いが流石に良くないと思ったのか声をかける。
席につこうなどと言いながらも何人かはニヤニヤと男と同じような笑みを浮かべている。
心臓の音が速く聞こえる。
平常では聞こえないほど大きな音を響かせる。
太鼓の音ではないかと思ってしまえるほどに。
「いい格好をするような肝がないのなら、そんな目をしないことだ。どうだお嬢さん、そんな男と飲んでいても楽しいかね?」
馴れ馴れしい声を出しながら、彼女に男が肩を組む。
思わず呟くような声が出た。
言葉として認識が出来ない音だった。
それは相手には届かなかったのだろう。
機嫌良さそうに言葉を続ける。
「なんなら俺たちと酒を飲まないかね」
「はは。どうしようかな」
「焦らすじゃないか、退屈だろうこんな人間が相手では」
「ふむ。その前に一ついいかね?」
相手が言葉を返すよりも早く、彼女は酒の入っているガラスのグラスを男の顔に叩きつけた。
突然のことだったせいか男はその場に尻餅をついて倒れる。
中身の酒が宙に舞い、机や私の服にかかる。
私も男の連れ合いも呆気に取られていたが、倒れた男が声を荒げたのを合図に意識が現実に戻った。
男が起き上がるより先に彼は男の顔を踏みつけるように蹴り飛ばした。
私同様はっとしたらしい連れ合いたちが彼女を押さえようと動いている。
「何をしている!」
彼女を怒鳴りつけながらグラスを振り上げている腕を引っ張った。
近くの店員にポケットから取り出した金を渡す。
その時の私の全財産であり、あの夜の食事代としては少し大きすぎる額だった。
私は彼女を引っ張ったまま、店を出た。
それが事の顛末である。
「ふむ。なぜあんなことをしたんですか、と言われてもな」
「理由がなかったんですか」
「馴れ馴れしくて、酒臭くて、不愉快だったからとしか言えないんだ」
「それだけの理由であんなことをしたんですか?」
「十分だよ文士殿」
笑って彼女が私の手を引く。
彼女の言っていることを理解は出来るが承知は出来なかった。
ただ、彼女の笑う顔は後ろめたさなどが一切ない顔で、不覚にも私はその顔を美しいと思ってしまった。
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