女性エロ漫画家のアシスタントをしているんだが締め切り間際なのに欲情して原稿を描いてくれない

皐月

良いニュースと悪いニュース


「真鍋くん。良いニュースと悪いニュースがあるんだがどちらから聞きたい?」


 物が散乱していて足の踏み場もないマンションの一室。

 エアコンの稼働音しか聞こえない沈黙を破り先生が声をかけてきた。


「良いほうからお願いします」


 俺はそう返事をしたが、いくら待っても続きがこない。

 どうしたのかと思ってPCモニターの横から顔を覗かせると、反対側で同じように顔を出した先生と目が合った。

 潤いのなくなったぼさぼさの髪を後ろでくくり、おでこには冷えピタ、眼鏡のフレーム越しでもはっきりとわかる目の隈。

 その化粧っけのない顔はわかりやすく不満気だ。


「なんです?」

「このやりとりのセオリーでは、悪いニュースから聞くものじゃないか?」


 たしかに悪いニュースを聞いて下がったテンションを、良いニュースで中和するのが定番かもしれない。


「どうせ良いニュースもろくなものじゃない予感がするんです」

「ペシミズムはよくないぞ。人生がつまらなくなる」


 そんな大層な主義主張の話をしているつもりはない。そんなことよりもこの無駄な時間で先生の手が止まるほうが問題だ。


「わかりました。じゃあ悪いニュースから教えてください」

「ネームからやり直したくなった」

「駄目です。ペン入れを続けて下さい」


 即答で却下すると、先生はおおげさなため息をついた。


「作者のモチベーションは作品の質にダイレクトに関わってくるんだぞ。それでもキミはこのまま作業を続けろと言うのか?」

「先生が本当にネームからやり直したいのならそれでもいいですが、俺には単なる現実逃避にしか思えないんです」 


 図星だったのだろう。先生はすごすごとモニターの向こうに姿を隠した。

 少し強く言い過ぎたかと思い、わざとらしくも朗らかに尋ねる。


「それで良いニュースはなんです?」


 モニターの向こうから声だけが聞こえてきた。


「絶賛欲情中でむらむらしている。リビドーが充満して今なら空も飛べそうだ」


 どこが良いニュースなんだ。やっぱりろくでもなかった。


「……じゃあそれを創作意欲に向けてくれませんかね」

「だからネームからやり直したいと言っているんだ」

「締め切りまで十九時間を切っているんですが」


 今は二十二時。締め切りは明日の十七時だ。


「具体的数字を出すのはやめてくれ。今ので生涯排卵数が四つ減ったぞ」

「自分の寿命を減らすのは勝手ですが、罪のない卵子を減らすのはやめましょう」


 俺は不毛なやりとりに小さくため息をついた。


「しかしキミはなびかんな。目の前に発情中の襲い放題の雌がいるというのに」

「俺のストライクゾーンは岩鬼いわきなみですが、締め切りを守らない女性だけは好きになれないんです」

「それは意味深だな。逆にとるとわたしがド真ん中ストライクという告白か?」

「くだらないこと言ってないで、さっさと手を動かしてください」


 先生はつまらなそうに鼻をならした。




 俺が先生のアシスタントをすることになったのは去年の夏からだ。

 アルバイトを探している時に美大の先輩から紹介されたのだ。

 たとえエロ漫画でも絵に関わることだから勉強になるだろうと引き受けることにした。まさか『お湯割りザーミルク』というペンネームの作者が女性だとは思わなかったが。

 ちなみにこれはデビュー前のペンネームで、商業誌では『お湯割りtheミルク』に変更されている。

 エロ漫画誌の編集部にも良識が残っていることを知り、日本もまだまだ捨てたものじゃないと思った。

 もっとも先生はそれが気に入らないらしく、同人誌では以前のペンネームを使っている。


 その先生の作風はとにかく潔い。

 どちらかといえば写実的な絵なのだが芸術っぽさを排除しエロに全振り。とことん使を意識している。

 それでいてストーリーをなおざりにしていない。

 個人的には一般誌でも十分にやっていけると思っているのだが、先生にはその興味がないようだった。


 これは本人には言っていないが俺は先生の作品が好きだし、創作に対して妥協しない確固たる信念も尊敬している。

 不満があるとしたらとにかく筆が遅く、さぼり癖があることだ。

 セクハラまがいの発言についてはもう慣れたし、そもそもエロ漫画制作現場で何をか言わんやといったところだろう。




 静かになった先生の様子を見に席を立つ。

 その途端、慌ただしく物を動かす音が聞こえた。

 先生は隣に来た俺のほうを見ようとはせず、液晶タブレットにわざとらしく

ペンを動かしている。


「……まさかさぼってゲームなんかしていませんでしたよね?」

「真鍋くん、わたしは悲しいよ。漫画家とアシスタントといえば一心同体少女隊。それなのに信用されていないとは」

「よくそんな古いフレーズが出てきますね」

「それを知っているキミもどうかと思うぞ」

「とにかく時間がないんです、真面目にやってください。狭い業界なんですから締め切り破りの噂が広まると仕事がこなくなりますよ」

 

 軽く脅してみる。

 先生はそんな俺のことをジト目で睨んだ。


「だったらなにかやる気になる御褒美をくれ」

「なんで俺が? 原稿を落として困るのは俺じゃなくて先生なんですが」

「真鍋くんのバイト料も出なくなるぞ?」

「いきなりブラックなことを言い出しますね。訴えたら絶対俺が勝ちますよ」


 先生はしばし考えた後に手を打った。


「わかった。バイト代は体で払おう!」

「名案を思いついたみたいに言わないでください」

「実際に名案じゃないか。お金は払わなくていい、創作にも役立つ、欲求不満解消でストレス知らず! 一石三鳥だぞ」


 俺はため息をつくと席に戻り自分のバッグから包みを取り出した。

 それを持っていくと先生に差し出す。


「なんだい、これは?」

「御褒美の代わりにホワイトデーのお返しですよ。バレンタインにチョコを貰いましたから」


 もっとも先生がくれたのは休憩中のおやつのブラックサンダーで、箱入りのほとんどを自分で食べていたが。

 綺麗にラッピングされた包みを受け取ると、先生はそれをじっと見つめている。


「開けてもいいのかな?」

「もちろんどうぞ。甘い物でも食べて気分転換してください」


 俺が席に戻ると、ラッピングをはがす音が聞こえてきた。


「評判の店のなんでおいしいと思いますよ」

「……マカロン」


 中身を確認したらしい先生の声は、心なしか戸惑っているように聞こえる。


「ひょっとして嫌いでした?」


 あまりマカロンが嫌いな人というのは聞かないが食感が苦手なのだろうか?

 だがしばらく待っても返事がない。


「先生?」

「ああ、いや。……真鍋くん。キミはホワイトデーのお返しの法則というのを知っているか?」

「三倍返しっていうやつですか?」


 それなら文句を言われる筋合いはないはずだ。そのマカロンのセットは結構な値段がしたのだ。


「いや、そっちじゃなくて。花言葉みたいにお菓子によってそれぞれ意味があるというやつだ」

「知っていますよ。中学、高校の頃は女子がそれでいちいち騒いでいましたからね。たしか『クッキーが友達でいよう』『キャンディが好き』『マシュマロが嫌い』でしたっけ?」


 それを知っていたからこそ、関係のないマカロンをわざわざ選んだのだ。


「そこで終わり?」

「どういうことです?」


 お互いの間に微妙な沈黙が流れた。それを破ったのは先生の方だ。


「今はマカロンにも意味が付けられているんだが……」

「え!?」


 それは初耳だった。まったく製菓業界は商魂たくましすぎる。なんにでも意味を持たせるのはやめて欲しい。


「それでマカロンはどんな意味なんです?」


 この流れで聞かないわけにはいかないだろう。

 あなたとは縁を切りたい。とかではないことを祈る。


「あなたは特別――だそうだ」


 先程にも増して微妙な沈黙が流れた。今回もそれを破ったのは先生だった。


「いや、すまない。二十七にもなってなにを乙女チックなことを言っているんだろうな。キミが意味を知らずに買ってきたのはわかっている。気にしないでくれ」


 誤魔化すように話す先生の言葉をさえぎった。


「その意味で受け取ってもらって構わないですよ」

「なにを言って……。ああ、そうか。たしかにアシスタントにとって漫画家は特別な存在といえるか」

「違います。女性としてです」


 今度の沈黙は長かった。


「……そういうことは軽々しく口にしないほうがいい。年増の喪女はすぐ本気にするぞ」

「本気にしてくれないと困りますね。これでも真剣に告白しましたから」


 だが先生から返事はなく、代わりにマカロンを齧る音が聞こえてきた。




 マンション前の通りを救急車が走り過ぎるサイレン音が聞こえた。

 先生は先程から一言も発していない。

 先走ったことを俺が後悔し始めた頃、先生が声をかけてきた。


「真鍋くん。良いニュースと悪いニュースがあるんだがどちらから聞きたい?」


 俺は少し考えてから答えた。


「セオリーを無視して良いニュースからでいいですか?」

「キミもなかなか頑固だな、まあいいだろう。実はさっき、立場上ずっと恋心を抑えていた相手から告白をされた」

「よかったじゃないですか。両想いということですよね?」

「そうなるな」

「それで悪いニュースというのは?」

「今すぐにでも同衾したいのだが締め切りの迫った原稿がある」


 俺は苦笑した。


「それじゃあ仕方ないですね。早く原稿を終わらせましょう、手伝いますから」

「うむ。今のわたしはいろんな意味でやる気に満ちているぞ」


 先生が液晶タブレットに軽快にペンを走らせる音が響いてきた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女性エロ漫画家のアシスタントをしているんだが締め切り間際なのに欲情して原稿を描いてくれない 皐月 @Satsuki_Em

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ