芳醇の奈落

村本鹿波

芳醇の奈落

 初夏。

 教室の窓から爽やかな風邪が流れ込む。強くはないゆるい風。青々しい匂い。窓に目をやれば緑色の 木々が嫌でも目につく。


 時刻は昼過ぎ、四限目。物理基礎の時間。

 黒板の前に立つのは白衣を身にまとった女性教師。少しウェーブのかかったセミロングの茶髪。少し底の厚い靴を履いているせいか目線が女性にしてはやや高い。まだ27という若さ、幼さと大人の色香が合わさり男子生徒から人気が高い物理基礎の四ノ宮香しのみやかおり


 腕時計をちらりと見る。終わりには少し早いが授業はキリの良い所まで進んだ。


「──それでは少し早いけれど今日はここまで。教科係の子は実験結果のレポートを集めて放課後準備室に持ってきてください。」


 香がそう告げると教室から静けさが消え、騒がしくなる。

 少し高い目線。生徒の顔がよく見える。

 様々な生徒がいる中一人の生徒が目につく。


 明るいブラウン色のポニーテールの女子生徒。覇気のない顔をしているがそれはいつものこと。表情の読めなさはクラス一、いや学校一である。


 目が彼女を自然と視界に入れてしまう。しかし声をかけるようなことはしない。かけてはいけない。

 教師が生徒に肩入れをしてはいけない。ましてクラス担任でもないのだ。香ゆっくりと教室を後にした。


 放課後。教師個人に与えられた狭い準備室で次の授業の準備をしていた。

 コンコン、という音が準備室に響く。


「桂木です。四ノ宮先生いますか?」


 若い男の声が扉の向こうから聞こえる。入ってくるよう促す。

 自分よりはるかに背の高い男性教師の桂木虎太が入ってくる。座ったままでは失礼かと立ち上がる。


「どうしたんですか桂木先生。何か困り事でも?」


 香より一つ下の虎太。歳が近いせいもあってか接する機会が多い。特に気兼ねなく訊ねる。


「実は今度の親睦会の幹事のこと──って四ノ宮先生、指輪しなくなったんですか?」


 香はさっと左手を右手の下へとやった。

 どうして今頃気づくのかしら。内心で舌打ちをする。


「確かそれ──」


 言わないで。せっかく忘れかけてたのに。お願いだから。


「──婚約指輪でしたよね。」


 右手が無意識に左手を強く握る。

 ああ、この男は本当に。

 苛立ちと悲しみと後悔と色々な負の感情が心を染めていく。


 四ノ宮香は一か月前婚約していた人物と別れた。理由は仕事でのすれ違い。学生時代と違って一度歯車がずれるとそこから直ることは無く永遠にずれたまま。長い時間をかけて築いたものが全て止まり枷とかした。


 邪気のない目の前の虎太の顔。ほかの教師は気づいていても言わなかった。生徒でさえもこちらを気づかうように訊ねてきたというのに。


「──出て行ってください。」


 努めて怒りを抑えて声を出す。語調が強くなったが致し方ない。


「え、出て行けって、相談事が。」

「この後生徒が来ますので。」

「なら生徒が来るまで……。」


 この男は。はっきり言わないと分からないのだろうか。もう一度、今度は強く出て行けと言おうと口を開く。


「出て──」

「四ノ宮先生。レポートの提出をしに来ました。それと分からないことがあったので聞いてもいいですか?」


 平坦な抑揚のない声が香の声を遮った。

 開いた扉の先には香が担当しているクラスのあの明るいブラウン色の女子生徒、田中秋子がクラス全員のレポートを片手に抱えて立っていた。


「田中さんありがとう。質問は、ええ、全然構わないわ。そういうことで桂木先生。生徒が来ましたのでお話はまた今度にしましょう。」


 怒りが霧散し穏やかな心が訪れる。少し困り顔で虎太の話を断る。虎太はどこか残念そうだったが素直に準備室から去って行った。部屋には香と秋子が残った。


「四ノ宮先生大丈夫ですか?」


 レポートを机の上に置いた秋子が香の顔をのぞき込む。平坦な声に動かない表情は心配しているのか分かりにくいが何となく心配しているというのは分かる。


「大丈夫よ。特に何もなかったし。それよりもどうして田中さんがレポートを? もしかしてまた雪城くんサボったのね。」


 秋子のクラスの物理基礎の教科係は雪城圭。秋子の幼なじみでよくこういうった提出関連を秋子に押し付けている。


「今日は違いますよ。今週末の発表会に向けて練習しないといけないみたいで、私が自分から引き受けたんです。」

「へえ、何の発表かしら?」


 机の上のレポートの枚数を確認しながら訊ねる。


「ピアノです。昔からやってるんですよ。」

「意外ね。それでわからない所って──!」


 言葉が途切れる。秋子の方を不意に向くと目前に秋子の顔があったのだ。感情が読めない。揺れのない瞳が真っ直ぐに香を見つめている。


「先生。いくら教師同士でも二人っきりはダメですよ。今の先生に防御はないんですから。」


 防御。それが何を指しているか分かってしまう。左手が自然と拳を作る。


「桂木先生、私まで──とは言いませんけど先生のこと気に入っているみたいですから。」


 嫉妬なのか、それとも怒りか。香には判断つかない。

 長い間見つめあっている気がするがそれは十秒ももたなかった。

 秋子の顔が僅かな隙間を一瞬で詰める。香の頬に柔らかな感触がする。先程よりずっと近づいた瞳はずっと香を見ている。羞恥心は見て取れないまったく変わらない目。なのに触れる唇からは確かな熱を感じる。

 ゆっくりと熱が離れていく。香はどこか呆然としている。


「先生。それじゃあ、私は部活に行きますね。」


 くるりと背を向けて扉へと離れていく。


「た、田中さん!」


 慌てて呼び止める。謎の焦りが香を襲ったのだ。

 秋子がゆっくりと振り向く。その顔は少し笑っていた、気がした。

 ──ああ、捕まってしまった。


「先生。早く私に落ちてきてください。私は四ノ宮香さんが好きです。」


 それだけ言うと秋子はあっさりと準備室から去ってしまった。


 香は秋子の後姿が消えると崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。ぱらぱらとレポートを捲る。けれど何も頭に入ってこない。

 唇の柔らかさと熱さ。秋子の揺るぎない目が脳裏から離れないのだ。

 なにも秋子からの告白はこれが初めてではない。香が婚約者と別れたと知ったその日から何度も好きと言われてきた。しかし、今日のような接触は初めてだった。


 香は嫌でも彼女がいかに本気か教えこまれてしまう。何度も何度も告げられる。感情のない顔と声で思いをぶつけられる。


 言の葉は毒のように香の心へ一滴一滴沈み、広がっていく。香本人は気づいていていない。すでに軽くあしらうことが出来なくなっているのだ。


「はあ……。」


 小さく息を吐く。

 それは呆れか、それとも迷いか。それは香にしか分からなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

芳醇の奈落 村本鹿波 @muramoto_kanami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ