当家の使用人が不器用すぎる
信濃 賛
第1話
朝。ことりがさえずる清々しい光のなか。
「いってえええええぇぇぇ!」
ヨーロッパ風の豪華けんらんな屋敷に、悲痛なさけび声が響く。
出どころは厨房。どうやら料理をしていた男が、包丁でさっくりやってしまったようだ。切った箇所から血がしたたり、食材に赤黒いみずたま模様をつくっていく。
「あぁ、ああぁ……、血が、血があぁ!」
とめどなくあふれでる血。冷静さを失っていく男。やがて、台所は血で染まっていき――
「あちゃー、またやりましたか、クラムさん」
男――クラムの叫び声によばれ、給仕服を身にまとったおしとやかそうな女がひとり、血まみれの厨房にやってきた。
「あ、アティー……。おれ、もうダメかもしれない……」
「何バカなこと言ってるんですか。……みせてください。とりあえず消毒しますよ」
ウィルスが入ってしまったかもしれませんからね。アティーと呼ばれた女はそういうと、クラムの手をとって生傷を消毒しはじめた。
「い、いってぇぇ。もっと、やさしくできないのか……!」
「あいにく、これがやさしさマックスです」
「限界でもっ、相手がそれ以上を求めたら、もっと上を目指すのがメイドの奉仕スタイルじゃねぇのか!」
「残念ながら、私はあなたのメイドではありませんので。それに、毎回毎回けがするクラムさんに優しくし続けたら私のほうが倒れてしまいます。だから、これは正しい省エネです」
薬効成分をぬったテーピングを巻きながらそうのたまうアティー。その顔はどこか楽しそうだった。
「やさしさに省エネがあってたまるか! そんな世界、おれは認めねぇ!」
「クラム君が認めなくても、世界はあるものなんですよ」
「あ、まあそうだよな、、、って、そういう話をしていたんじゃ――」
「――はい、終わりましたよ」
テーピングを巻き終えるとアティーはそう言って、手をポンと叩いた。
「ってぇ! まだ、治ってないんだぞ!」
噛みつくように叫ぶクラム。そんな彼を横目で捉え、ふふふ、と小さく笑うとアティーは血でまみれた台所に立った。
「こんなに汚して……まったく、掃除のしがいがありますねっ.......!」
アティーは腕まくりをすると血を落としにかかった。
「……そればっかりは面目ない」
さっきまで噛みついてきていたのに急に牙をひっこめるクラムをみて、アティーは静かにほほ笑んだ。
「……それにしても、何でノノ様はクラムさんに料理をさせたがるんでしょうね」
「それは愚問だろ、アティー。ノノ様は酔狂なお方だからな。おれの不器用さを見て楽しんでいるとかそんなところだろ。まぁあ、それでノノ様を楽しませられるんだったら、おれはそれでもいいけど!」
「……クラムさん、なかなかMっけありますよね」
「ん? なんか言った?」
「いえなにも。――よしっ。これで掃除は終了です。料理の方に取りかかりましょうか」
料理にてこずるクラムにアティーが手を差し伸べる。これはいつもの流れだった。
「お世話になりっぱなしで頭が上がらねえ。――よろしくお願いしまぁす!」
こうして、屋敷のいつもの日常が始まる。
「血まみれの食材は放棄で」「ほんっと申し訳ない!」
「おはよー! きょうの食事もおいしーね! おいしいってことはクラムはまた失敗したってことだね! 残念!」
明朗快闊にそういう十二歳の少女。彼女がここノーランド家の主でありクラム、アティーそのた使用人の雇い主、ノルフィーユ・ノーランド。通称ノノ。この年にして酔狂を解する変わり者。
「まあでも、落胆することはないさ、クラム。キミもいつかはアティーみたいに料理ができるようになるから。めげずに明日もがんばっていこー! おー!」
「勘弁してくださいよー。おれ、失血で死んじゃいますってー」
「だいじょぶだいじょぶ! クラム、めちゃくちゃ不器用だけどへんにタフだから死んだりしないって」
「そんなこといいますけどノノ様、今日のおれの出血量みたらきっと倒れちゃいますよ。凄かったんですから」
「ボクが倒れる? そんなわけないさー。だって血の『クラム』チャウダーみてるもんねー。大丈夫なんだなこれが」
血のクラムチャウダーというのはここで起こった悲惨な出来事で、その名の通り、血で染まったクラムチャウダーが食卓に出された事件(事故)だ。クラムの名前とかかっていて印象深い出来事だったため、たびたび話題に上る。
「ノノ様も好きですね。あの衝撃に忘れがたいものがあったのも確かですが」
静かに食事していたアティーが口を開く。
「クラムチャウダーを血でつくっても死んでないんだからだいじょぶさ!」
「なんか物騒なこと言いましたね! 今! そんなことしてませんよ!」
「まあ、挑戦には傷がつきものだからね、がんばりたまえ、クラム君」
「……なんかまたうまく丸め込まれた気がする」
朝食の場は和やかに進む。
朝食を終えると、使用人であるクラムとアティーはさっそく仕事にとりかかっていた。
「やっぱり明日もやることになりましたね」
「なー。……まあ、今日も楽しんでくれたみたいだしいいんだけどな」
へへっ、と笑うクラム。
「クラムさんってほんと、ノノ様のこと好きですよね」
「ノノ様は雇い主だからな。それに、やっぱり好きにならないと真に丁寧な仕事はできないから。そういうアティーも、ノノ様のことは好きだろ?」
「そういう意味で言ったんじゃないんですがね……ええ。もちろん。ノノ様といると毎日がとても刺激的で、楽しく感じられますから」
「刺激的すぎて死にそうだけどな。まあ、おれはノノ様のためなら死んでもいいって思っているけど」
「……そういうところですよ」
「ん? なにか言ったかアティー」
「いいえ。なんでもありません。そろそろ、ちゃんとお仕事しないとですね」
アティーの謂いにクラムは頷き、それから二人は黙々と仕事に取りかかった。
「やーやーふたりとも。ちゃんと仕事しているかい? しているみたいだね! これはよいですぞ!」
黙々と仕事にとりかかっている二人に声を掛けたのは屋敷の主、ノノだった。
「これは、ノノ様」「何のご用でしょうか」
「なんかちゃんと対応してくれて嬉しいボクなのであった! いやねー、クラム君にちょっと頼みたいことがあってね」
ちょいちょいと手招きするノノに一切のためらいなく近づくクラム。
「なんでしょうか」
「これよこれー。これをね、解いて欲しいの! き、み、に!」
はた目から見ていたアティーは、驚かせるためにクラムを呼んでいるのかと邪推していたが、そうではなかった。
「これは……糸?」
ノノの小さい手の中にあったのは絡まりぐちゃぐちゃになった赤い糸だった。
「そそー! もつれっちまった赤糸さ! これをほどいてほしいの! なるはやで! できたら、明日の朝ごはんはつくらなくていいよー。あ! その間、別の仕事はしなくていいよー。べつに仕事しながらでもいいけどね!」
「そんな器用なことできませんよ。――自分、不器用ですから」
決め顔だった。
「ワー、オモシロ。ぜんぜん面白くなかったけどネ。じゃあ、コレ! はい! キミならできるサ! がんばれ!」
クラムのネタを軽く流し、そういって絡まった赤い糸をクラムに押しつけると、ノノは嵐のように去っていった。ぐるぐる回って。
「……なんで回ってるんだ?」
「さあ。酔狂だからじゃないですか」
「そっか。ほんっとあのお方といると飽きないよな」
「まったくですね。それにしても、赤い糸、ですか」
アティーはクラムの手にある複雑に絡んだ糸を見ながら言う。
「……ほんとうに、酔狂ですね、あのお方は」
クラムは見なかったが、その瞳にはクラムにはとうてい推し量ることのできない感情が含まれていた。
「これをほどけば明日のごはん当番はなしなんだよな! ようし、やってやんよ!」
気合を入れてとりかからんとするクラム。
「では、わたしはクラムさんがそれをやっている間、本来やるはずだった別の仕事を片付けてしまいますね」
アティーはそんな彼に一声かける。
「確かにやらない訳にはいかないからな! すまない、まかせた!」
彼の返答をきくとアティーはその場から離れていった。
「……さて」
やるか! クラムは気合を十分に赤い糸をほどきにかかった。
数十分後――。
クラムの手にはこれ以上ないというほど小さくまとまった赤い球ができ上がっていた。
「……なんで?」
糸をほどく際に重要なのは何重にも絡まった糸のうちどの糸を先に引っぱるか。クラムはそれを理解していた。そして、彼の聡明な頭でこの糸を引っ張ればほどけるというのは分かっていた。たしかだった。なのに。おかしい。いつの間にか、糸は小さくまとまり、ビーズのようになっていた。
「あちゃー、やっぱりやりましたね、クラムさん」
絶望しているクラムに声を掛けたのは、一仕事どころか三仕事くらい終わらせた様子のアティーだった。
「……これは、どういうことなんだ?」
あまりの出来事に理解が追いついていない様子のクラム。
「クラムさん、あなた、自分が不器用だっていうこと忘れてないですよね?」
「……ハッ!」
不器用。手先が器用でないこと。また、そのさま。
まして、クラムは稀代の
「おれは、ノノ様に図られたのか……」
「……ええ。おそらく、ノノ様はその赤く丸まった糸をみて大笑いすることでしょうね」
軽く瞳を閉じ、ノノの姿を想像しながら言うアティー。
「はあ、くそっ。……明日もごはん当番、頑張っか」
もう一度はあ、息をつき、クラムは常務に戻った。
予想通りクラムが大笑いされた晩ご飯の後のこと。
アティーは静かに日記を開いた。
『あの人は今日も気づかなかった。私の気持ちに。でもノノ様は。
複雑に絡み合った赤い糸には意味がある。赤い糸は愛の糸。それが複雑に絡んでいるということは……。きっとそういうことなのでしょう、ね。
でもこんなことに気づかないなんてまったく――』
『まったく、当家の使用人は不器用すぎます』
当家の使用人が不器用すぎる 信濃 賛 @kyoui-512
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