一つの玉繭

九十九

一つの玉繭

 女は雨が窓に叩き付ける夜が好きだった。怖がりな子だ、と笑う姉と共に一つのベッドに入って毛布を頭まで被る、そんな夜が好きだった。

 強い光を放って地を裂いた雷が雨に濡れた窓から差し込む。轟々と轟く雷は艶やかな黒髪が床を這う姿を扇情的に映した。女は右手を姉の細くて白い首に掛けたまま、左手で姉の艶やかな黒髪を掬う。

 女は地に縫い留められた姉の姿を、感情を失った顔で見詰めていた。 


 私と彼女は殆ど同じ頃に生まれました。

 同じ日の殆ど同じ時間に生まれ落ちた私達は、一番目に生まれた彼女を姉とし、二番目に生まれた私を妹としていました。

 私達にとっては一番目も二番目も変わらなかったのですが、周りの人達は皆「姉」と「妹」に分けたがったので、私達は「私」と「彼女」となり、「妹」と「姉」となりました。

 思えば其れが間違いだったのではないかと思うのです。一番目と二番目の記号を付けてしまいましたから、私達は別たれてしまったのではないかと思うのです。


 姉は何時も一番でした。姉は何でも良くできました。勉強も運動も何時も彼女が一番なのです。大人達に一番褒められていたのも姉でしたし、一番容姿が良かったのも姉でした。

 私は何時も二番目でした。勉強も運動も他の子より出来ましたが、姉と比べてしまうと劣っていました。大人達は自然と姉と比べていましたので、余り私の事を褒める事はしませんでした。容姿は姉と似通って居ましたが、性格と言うのでしょうか、人当たりと言うのでしょうか。やはり比べると姉が一番なのです。

 それでも私は気にしてはいませんでした。理由は簡単です。「姉」と言う「私」が居たからです。彼女は姉であると同時に私だったからです。劣等感などよりも己自身が褒められることが私は何よりも嬉しかったのです。

 姉が私の事を一番に想ってくれていたのも気にならなかった理由の一つです。私が二番目だと言われる度に姉は私の事を「貴女は私の一番よ」と言って撫でてくれるのです。比喩の言葉が過ぎた教師や同い年の子供達を私の代わりに怒ってくれた事も一度や二度では有りません。

 私自身、姉が一番なのは当たり前だと思って居ましたので、二番目だと揶揄われても私は気にする事も劣等感を抱く事もありませんでした。


 成長すればする程にどうして私達は離れてしまうのでしょう。どうして何時までも一緒ではいられないのでしょう。私は姉と違って行く事が怖かったのを覚えています。

 時が経つにつれ美しく成長した姉は異性に良く好かれました。ですが、姉が男達を相手にする事はありませんでした。私もそれなりに好かれてはいましたが、最後は皆口を揃えて姉の方が良いと言うのでお付き合いをした事はありませんでした。姉がよく怒っていたのを覚えています。

 そんなある日の事です。私の元に彼が訪れました。私を一番目に愛しているとその人は顔を真っ赤にして言うのです。姉と間違えたのかと首を傾げた私に彼が困っていたのを覚えています。

 周りから二番目だと言われていた私に、姉以外の誰の一番目にもなれなかった私に、初めて一番目をくれた「私」以外の人が彼でした。私にとって初めて姉以外の世界が増えました。あの頃、姉と彼と過ごした日々はとても穏やかな物であったと思います。

 ですが、そんな平穏も長くは続きませんでした。

 今にも雨が降り出しそうな日の夕暮れ時の事です。私が傘を持って姉を迎えに湖まで赴いた時、運悪く彼が姉に想いを告げた時に立ち会ってしまったのです

彼は私達の周りに居た男達の誰とも違う、誠実で優しい人でした。そんな彼に心惹かれるのは仕方の無い事です。姉もまた誠実で優しい人でしたから、彼が姉に惹かれる事も何の不思議も有りません。

 責める気は有りませんでしたし、当然だとも思いました。それでも私は二人の姿に耐え切れなくなって走り出しました。


 何をどうして帰ったのかは覚えていません。

 傘を抱えて戻って来た姉は全てを悟った顔をしていました。気が付いた時には私は姉に詰め寄っていました。

「私の事をどう思っているの?」

 私がそう言うと姉は一度言葉を詰まらせました。

恐らく姉は後ろめたさがあったのでしょう。姉は優しく、清い人でしたから。恐らく初めての罪悪感であったのだと思います。それでも恋情というものは到底どうにか出来る物では有りません。其れは私も良く知っています。

「謝って許される事では無いと思うわ。私、それでも……」

「……私の事を愛しているの?」

 姉は今にも泣き出しそうな顔をしました。苛まれていたのでしょう。私と彼と、愛情と恋情とで。

 私が責めていると思ったのかも知れません。実際私の口調は厳しい物でしたが、姉を責めるつもりは無かったのです。唯、私は言葉を待っていたのです。確かな言葉を。嘘でも欲しかったのだと思います。

 それすらも叶いませんでした。姉は誠実です。誠実故に残酷です。

「貴女の事は愛しているわ。でも……彼が、好きよ……」

「彼が一番目?」

 言葉は自然と出ました。一番恐れていた言葉だったのに、するりと口から零れ落ちていました。そうして、姉は何処までも誠実で残酷でした。私が聞きたくて、それでも一番聞きたくない事を真正面から受け止めて答えてしまいました。

「えぇ、私の一番目の愛は彼へ……。彼は良い人よ。誠実で、優しくて」

「私は?」

 答えを聞かずとも分る事をどうして人は尋ねてしまうのでしょうね。

「貴女の事は二番目に――」

 そこから先の記憶は曖昧です。ぷつり、と何かが途切れてしまったのです。押し寄せていたのは深い、深い、絶望です。

 気が付いたら事切れた姉を私が床に縫い留めて居ました。苦悶、悲しみ、後悔、渇望。姉の顔には様々な色が浮かんでいました。それでも憎悪を読み取れなかったのは私の都合の良い妄想だったのでしょう。

「愛していたの」

 雨が叩き付ける窓、雷の光に照らされた私の顔は底冷えする程、感情が有りませんでした。

「私は貴方の一番目だったらそれで良かったのに」

 姉に掴みかかった時もその言葉を吐いたような気がします。けれども、それが私の全てだったのです。

「貴女を愛していたの。私は、貴女を愛していたの。何時だって貴女だけが私の一番で、何時だって貴女の一番は私だったのに」

 姉が、彼女が私を「一番目」だと言ってくれればそれで良かったのです。誰かにとっての「二番目」でも、彼女にとって「一番目」だったら何だって良かったのです。

 成長してしまったから駄目だったのでしょうか。「一番目」と「二番目」を付けてしまったから駄目だったのでしょうか。恐らく全てが駄目だったのです。間違いだったのです。私達は別れるべきでは無かったのです。


 女は感情の抜け落ちた顔に一筋の涙を流して、姉の身体に寄り添うように項垂れていた。雷で照らされた二人の影はまるで女が姉の中に入り込もうとしている様で、女は少しだけ可笑しくなった。

 再び強く雷が地を裂く。光が差した部屋の中、長い影が伸びたのを見て女は顔を上げた。

「やぁ」

 男は穏やかな顔で女を見ていた。先刻、想いを告げた女性がその妹によって事切れているのにも関わらず、まるで目の前の光景が見えていないみたいに何時ものように男は笑った。

 女は虚ろな眼で男を見て首を傾げる、がそれも一瞬の事。次の瞬間には目を見開くと、大きな眼から次から次へと雫を落した。

「あぁ、可哀想に。たった一人の君の一番の、二番目だったんだね」

 男は穏やかな笑みのまま、女の顔を武骨で大きな手の平で包むと節くれだった指で眦から零れる雫をそうっと掬った。

 男の顔を見た女は再び雫を溢れさせた。目から溢れた液体は止めど無く男の指を濡らす。

 女は男のその顔を知っていた。男のその眼を知っていた。男のその感情の色を知っていた。男のその顔は女自身だった。男のその目は女自身だった。男のその感情の色は女と同じ色をしていた。

「愛しているよ」

「あぁ」

「死者と言う物は生きている側によって美化されがちだ。死んだ時点で恐らく何物にも代えがたい。近い者であれば有る程其れは顕著だ」

「私は」

「だが、薄れる。望もうと望まざろうと色褪せてしまう。それに何より生者と死者とでは立ち位置が違う。役割が違う。だから同じ一番目が成立する。彼女が生きている限り俺はずっと二番目だ」

「あなたと」

「君の手でなければ意味が無かった。そうでなければ君は何時までも彼女のままだ。君を偽りで傷つける事だけが怖かった俺は、二番目に大事だった友の心を蔑ろにした俺は、君達と違っていたが故に間違っていたのだろう」

 男は女の背を、幼子をあやす様に撫でながら言葉を紡いでいく。

「彼女を愛しているの」

「其れは尊ぶべき事だ」

「彼女の一番目だったらそれで良かったの」

「其れでも二番目は恐ろしかった」

 沈黙が部屋の中に落ちた。

 男は女の身体を強く抱すくめていた。女は唯それに寄り添った。

「愛しているよ」

「私も愛しているわ」

 男を否定する事など到底女には出来なかった。男を否定してしまえばそれは己を否定するのと同じだったのだ。

「ねぇ、俺は何番目?」

 そう尋ねた男の掌は迷子の子供の様に女の手に縋っていた。男の言葉に女は男を真っ直ぐに見詰めると、男の眦に細い指で触れた。

「貴方は一番目よ。生きている一番目」

 女はそう言って男の眦を撫でた後、事切れた片割れの額に口付けを落した。額への口付けは怖がりの妹に姉が贈る守りの口付けだ。

「貴女を愛していたの」


「それなのに先に逝ってしまうなんて、なんて酷い人でしょうね」

 皺が増え随分と細くなった女は、冷たくなった男の身体に寄り添うと、眦をそっと撫でた。

「共に眠る雨の降る夜が好きでした」

 女は寂し気に笑う。

「一番目も二番目も無くなってしまいました」

 窓も屋根も無い古ぼけた屋内で、女は雨に打たれながら男の身体に寄り添い横たわった。男の額に口付けを落して、嘗て姉が横たわっていたその場所で、女は静かに眠りに落ちた。

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