うどんの国一揆・半生編

@shibachu

うどん禁止令

 江戸に幕府が開かれて三十年ほどの月日が流れた頃のことでございます。

 寛永十四年に九州で起こった島原の乱が治まったのも束の間、その翌年から日本の至る所で夏は日照り、秋には大雨と異常気象が続き、深刻な飢饉が訪れました。

 寛永十九年、時の将軍、徳川家光とくがわいえみつ公は家臣を集めて評定をお開きになりました。

 ある家老が訴えます。

「作物が育たず、米が不足して値段が上がったことから、貨幣の価値が下がり財政が厳しいものになっております。幕府の台所を支えるのは米でございます。米の生産量を増やさねばなりません」

 家光公はその家老に訊ねられました。

「うむ。なにか妙案はあるか」

「調べましたところ、米を作る代わりに旱魃かんばつに強い麦などの雑穀を作る百姓が増えておるようでございます。百姓の腹は膨れましょうが、石高は下がり年貢は減る一方。これらの作付けをやめさせなければなりませぬ」

 それを聞いた家光公は仰いました。

「あいわかった。余に名案がひらめいたぞ。百姓達に米の作付けを命じるのは当然として、雑穀を使った食べ物、うどん、そば、饅頭などじゃな。それらを作るのも売るのも禁じようではないか。消費がなければ作り手もおるまいて」

 家臣達は家光公の思いつきを褒めちぎりました。これに気をよくした家光公は、さっそく全国の諸大名にお触れを出すようお命じになります。

 江戸城の本丸で決められたこの法令に一番振り回されたのは、讃岐国さぬきのくに高松藩たかまつはんの住民達と、入封したばかりの新しいお殿様、松平頼重まつだいらよりしげ公に他なりません。


 讃岐国と申しますのは、今でいう香川県。四国の北東部にございます。おだやかな瀬戸内海に面しており畿内に近いことから海運業が発達し、四国の玄関として栄えておりました。

 元々は生駒いこま家が統治しておりましたが、寛永十七年に生駒家は改易となり、讃岐国は幕府直轄の御領ごりょうとなりました。このあたりのお話は、またの機会がございましたら語らせていただきたいと存じます。

 生駒家が改易された翌年、讃岐国の西半分が山崎家治やまざきいえはるさまに与えられ、丸亀藩まるがめはんが興りました。さらに翌年、残った東の高松藩を譲り受けたのが頼重公であります。

 この頼重公、水戸黄門で有名な徳川光圀とくがわみつくに公の実の兄君でございます。弟君の光圀公が水戸徳川家の世嗣ぎになられ、頼重公は御連枝ごれんしとして高松松平家を興しになられたのです。


 さて、お触れが書かれた立札が辻に置かれると、物珍しさから砂糖に集る蟻のように町人達が取り囲みました。

「なんて書いてあるんな? 読めんが」

「饂飩……麦……ハ……ズル?……米……ニ……ルベシ? 意味わからんが」

「うどんがどしたんな? だれか読めるもん呼んでいた」

 この時代の識字率はまだ低く、立札に書かれている文字が読めない町人がほとんどでした。人々が騒ぎ立てているところへひとりの男が通りがかり、「わし読めるで」と得意げにしゃしゃり出ます。

「ほんまか。なら読んでいた」

 群衆は男の腕を掴むと、立札の前に引っ張り込みました。衆目を一身に浴びた男はまんざらでもなさそうでしたが、立札に書かれている内容を読むと顔色が海のように真っ青になりました。

「どしたんな? はよ読みまい」

 人々はお地蔵さまの如く動かなくなった男を急かしましたが、男は押し黙ったままです。錆び付いた門扉のような口からやっとのことで零れ出た一言。

「わしら、うどん食べれんくなる」


 うどん禁止令。

 立札の噂は城下町だけではなく、讃岐中に瞬く間に広がりました。

「新しい殿様はなにを考えよんじゃ。うれしげなな」

「生駒のほっこよりごじゃはげじゃわ。おがっしゃげたる」

 近隣の村々では、血気に逸った若い衆が頼重公を口汚く罵り、鍬や鋤、竹槍などを手に蜂起しようとしていました。

「お前らがこらえんのはようわかる。ほなけど短気はいかん。殿様を説得するけん、ちょっとこま待ちまい」

 村長達は若い衆を宥めましたが、頼重公を説得するよい考えは浮かびません。

「わしらみたいなのがなんぼ考えても、どっちゃこっちゃならんわ。ここはひとつ、お寺の和尚さんに殿様のとこ行ってもらうんが一番ええんちゃうか」

「おお、そうやな。和尚さんやったら賢げなけん、なんとかしてくれるわ」


 JR高松駅や琴平電鉄高松築港駅のすぐ近くに、玉藻公園という観光名所がございます。

 日本三大水城として知られる高松城の一部を整備した公園で、現存する櫓や御門などは国の重要文化財に指定されております。

 現在では道路とフェリー乗り場に隔てられておりますが、当時のお城は海に接しておりました。今でも玉藻公園のお堀には海水が引き込まれ、真鯛がお堀の中を泳ぐ姿を見ることが出来ます。

 老朽化に伴い明治年間に天守閣が取り壊されましたが、この時代には戦国武将、生駒親正いこまちかまささまによって建てられた天守閣がそびえておりました。


(しかしなあ、この武張った印象がどうも好きになれぬ)

 墨色に塗られた天守閣を見上げ、頼重公はそうお感じになりました。

 海に接した高松城は敵に攻められて篭城したとしても、海から兵站を繋げることができる戦国の理にかなった城です。

 頼重公は十一歳まで京の公家の許に預けられ、秘密裏に育てられました。

 御三家のうち紀州、尾張の御家に世子せいしがまだ御生まれでなかった為、あるいは母君が正式な側室ではなかった為に、ご懐妊の際に堕胎を命じられたと伝えられております。

 ともあれ、寺社仏閣の多い京の都で育ち、高い教養と文化感度をお持ちの頼重公にしてみますと、戦国の城は武骨に映るのでしょう。

(戦国の世は終わった、これからは太平の世じゃ。政を能くし、文化の振興に努めねばならん)

 思索に耽る頼重公の元へ家臣がやって来て告げました。

「殿、僧侶が謁見を求めておりますが、如何致しましょう?」

「おお、そうか。今まさに、戦で荒れたままになっている寺社の復興について考えておったところじゃ。一刻ほどで参るゆえ、書院に通せ」

 頼重公は家臣にそう仰ると、傍に控える小姓に謁見の準備をお命じになりました。


 お触れ書きの件で民草が困惑している、と聞かされた頼重公は仰いました。

「天下の物差しは米である。米の生産高を上げ、村落を富ませることが引いては民の為になるのだ」

 それを聞いた和尚さまは頼重公にこう申し上げました。

「右京大夫さまの仰ること、いちいちもっともでございます。しかしながら、讃岐の民にとって問題なのは米ではないのです」

「ではなんだと申すのだ」

「うどんが食べられなくなる、この一点が民にとって我慢ならぬことなのです」

「うどんとな。米よりうどんが大事と申すか」

 頼重公は今ひとつ納得がいかないご様子です。

「左様にございます。いらっしゃったばかりの右京大夫さまにはお分かりにならないとは存じますが、うどんを食べること、これがこの国の民にとって一番大事なことなのです。例え戦があろうとも、災害があろうとも、うどんさえ食べられれば民は幸せなのです」

 頼重公はううむ、と唸られました。

「丸亀では、お城の石垣の補修工事に人足を遣った村落はうどん禁止を免除されるということで、すべての村が人を出しました。なにか条件を付けることで、免ずるわけには参りませぬか」

 暫く黙っていた頼重公ですが、折衷案をお出しになりました。

「では、こういうのはどうか。検見けみを廃し、豊作、凶作に関わらず毎年一定の年貢を納めるのだ。年貢米が担保されれば、江戸の御上おかみもお許しになるだろう」

「寛大なご処置、ありがとうございます。村長達に伝えますが、おそらくみな喜んでその条件を呑むでしょう」

 和尚さまは頼重公に丁寧に頭を下げ、御前をまかりました。


 こうして讃岐国高松藩のうどん文化は守られ、一揆の危機はからくも去ったのでございます。

 その後、頼重公は城下町に亀井戸かめいどを水源とした上水道を敷設されたり、ため池を築かれたりと水不足の解消に取り組まれました。

 特別名勝の栗林公園りつりんこうえん仏生山来迎院法然寺ぶっしょうざんらいごういんほうねんじなど、頼重公ゆかりの地は現在まで残り香川県民に愛されております。仏生山では毎年秋になりますと、頼重公の大名行列に扮した市民が練り歩くお祭りが催されています。

 また、頼重公が高松城の天守閣を改築した際には、その壁は漆喰でうどんのように真っ白に塗られた、ということでございます。


 讃州さぬきは 高松さまの 城が見えます 波の上  〜讃岐の民謡より〜


                了

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