みかえり

@Dr_maguro

第1話

 今朝のことだったか、1か月前だったか、3年前だったか。

 それが朧げになるくらいには、僕はその記憶に苦しめられていた。

 玄関で、娘が吐き捨てるように言っている。顔に顰蹙の色を滲ませて。

「早く家から出てってよ」

 ああ、これは僕に言っているのか。そこで僕はようやく気づくのだ。




 パパと会うのは久しぶりだ。なんせ、私たちは離れて暮らしている。

 最後に会ったのは、たぶん3か月くらい前。

 十時に駅で待ち合わせ。パパの姿はすぐに見つかった。今日も律義にワイシャツとズボンだ。

「おはよ」

「英梨、見ないうちにまた大きくなったなあ」

「え~そうかな? そんな変わらないよ」

 こうして私はママの目を盗んで、ときたまパパと会っている。


「この、『明太とバジルのパスタ』を二つお願いします」

「以上でよろしいですか?」

「はい」

 昼過ぎ、私たちは少し高めのイタリアンレストランに来ていた。席は殆ど埋まっていて、品のいい紳士淑女やお洒落な大学生が楽しそうに食事を摂っている。

「映画おもしろかったね」

「僕あれ楽しみにしてたんだあ。やっぱかっこいいよね、マーヴィン・ガードナー」

「ね! かっこよかった~」

 私たちはついさっきまで映画館にいた。見ていたのは「ブルーグリーフ」シリーズの最新作。今作はいままでのサスペンス色が一気に抜けて、主人公のラブロマンスが描かれていた。

 パパと会うときは映画を観た後にこのレストランで昼ごはんを食べるのがルーチンになっている(映画館とレストランが同じ建物内にあるのだ)。

「明太とバジルのパスタでございます」 

 スパイのヒロインを救ったところがよかっただの、湿原でのアクションシーンの迫力がすごいだの、そんな話で盛り上がっていると、あっという間にパスタはやってきた。

「おいしいね」

「うん、美味い美味い」

 フォークに巻き取られた麺がパパの口に運ばれていくのをじっと見ていると、口に麺を入れたまま「ん? 何かついてるか?」みたいな顔をするから、私は「ううん、なんでもない」と笑う。


「英梨、学校は最近どうなんだ?」

 食事がひと段落したところで、パパは皿に残った麺を集めながら問うてきた。

 親が子供にする質問ランキングで堂々の1位を獲れるくらいオーソドックスな質問だ。

「楽しいよ! 最近ゼミの活動が始まったんだけど、すごく仲いい友達ができたの。大学ってサークル入んないとなかなか出会い無いしさ」

「あれ、サークル入ってなかったっけ?」

「うん」

「仲良い友達もできたんだ、よかったね」

「毎日楽しいんだ~。ミカっていう子なんだけどね、あ、写真あるかも……」

 私はスマホのカメラロールからミカと映っている写真を探す。写真はすぐに見つかった。一昨日、ふたりでパンケーキ屋に行った時の写真だ。

「ふーん、この子がそうなんだ。なんか頭についてるけど」

「これはSMOWっていう写真アプリで、加工しながら撮れるんだよ。これはウサギの耳だよ。パパも撮る?」

「いや、僕は恥ずかしいからいいよ」、とパパは照れたような表情を見せた。

「それで、ゼミではどんな研究してるんだ?」

「葉の鋸歯が形成される原因物質を研究してる。鋸歯ってのは葉の縁のギザギザのことね」

「へえ、なんだかすごいことをやってるんだね。僕にはわからないよ」

 パパは目尻を下げてケラケラと笑う。そうかなあ、と私も笑った。

 腕時計を見たパパは、そろそろ時間だねと言う。確かに、もうそろそろ2時だ。

 結局10分以上も私の話をしてしまった。ちょっと喋りすぎたかな、とも思う。でもパパに質問するのもよくない気がして、このへんの塩梅はいつも迷うのだ。

 

 私たちは店をあとにして、いつも通り駅前にやってきた。

「今日は楽しかったね」

「ありがとパパ。またいい映画会ったら誘ってよ」

「うん。またなんか探しておくよ」

「…………」

「…………」 

 パパは一瞬虚ろな顔をして、すぐにぎこちなく笑った。

「はい、じゃあお小遣い」

 パパが財布から出した3枚の1万円を渡してくる。

「いつもありがと~」

 これは親が子に渡すお小遣いではない。

 これは雇用者が被雇用者に渡す報酬だ。

「じゃ、またねパパ」

 彼は「パパ」だけれど、私の父親ではない。

 私は「パパ活」をしている。「レンタル彼女」と呼ばれることもあるけれど、「お小遣い」をもらって食事やデートをする交際の形だ。「援助交際」と違って、そこに肉体関係は存在しない。

 彼にとって私は「二番目の娘」だし、私にとって彼も「二番目の父」だ。

 彼にも私にも自分の生活があって、そこから逃れることはできない。

「じゃあ、大学がんばってね。ミカちゃんとも仲良くね」

 その理由は、寂しい独身生活をしていたり、会社のストレスの発散であったり、――家庭の問題からの逃避、などとさまざまらしい。

「うん! また今度!」

 私はその日いちばんの笑顔をパパへ贈る。




 僕は帰路についていて、もう家の玄関先まで来ている。

 ヴ。布づたいからか、スマホのバイブ音がいつもより重い。

 LINEの通知が入っていた。

 送信者は「美香」。娘の名前だ。


「パパ活」は現実逃避でだ。家庭は円満とは言えない。

 妻は言語障害が出るほどの脳腫瘍を患っている。自宅介護だが、以前の妻の姿は無く、リビングで叫び続ける姿を見ていると胸が痛み、彼女を変わらず愛していると言える自信もない。

 そんな事情を抱えた娘に余裕があるはずもなく、日々強い当たりを受けている。娘にいくら罵倒されても、そこにはっきりした意識はない気がする。第三者の視点から、娘に怒られる父親の姿を、ぼんやりと傍観しているのだ。父親失格かもしれない。


 僕は、僕の人生に疲れてしまった。くたくたに疲弊しきってしまった。

 すっからかんになってしまった。中身は何もない。誰のために、何をしたくて生きているのか、とうに忘れてしまった。

 そんな僕に夢を与えて一瞬でも僕の人生を忘れさせてくれるのだから、「彼女たち」は本当に素晴らしい。心の底からそう思う。


 僕は美香からのLINEを表示させた。


美香『今朝はごめん』


 あれは、今朝の記憶だったか。そういえば、玄関で「早く家から出てってよ」と美香に言われたんだった。


美香『うどん作ったから、一緒に食べよう』


 英梨から美香の大学生活の話を聞いたとき、僕は嬉しかった。

 帰り際の「ミカちゃんをよろしくね」は、僕の父親としての言葉だったのかもしれない。


 娘にいい友達ができていてよかった。

 娘の私生活なぞ、聞ける間柄でもないから。


美香『帰ってきて、お父さん』


 でも今日はちょっとだけ、娘と話してみたい。


 ただいま、と玄関のドアを開けて。

 僕は久しぶりに家に帰ってきた気がした。

 


 










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