ポテトサラダ

あじろ けい

第1話

 呼び鈴が鳴った。キッチンに立つ私は明宏を探した。夫の明宏は庭先でソーセージを焼いていた。肉の焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐる。もてなし料理の味見をしているだけで食事らしい食事をしていない空きっ腹がぐうと喚いた。


 ボテトチップスをボールにぶちまけ、インターホン越しに「開いてるから勝手に入ってきて」と私は言った。来客のあるたびにドアを開けて出迎えるのは面倒だと鍵はかけていない。BBQに招いた客は、日頃社内で親しくしている人間ばかりだ。


 ボールを手にダイニングにむかうと、玄関から入ってきた野上弥生と目があった。「おじゃまします」と「こんにちは」は同時だった。弥生は、恋人の小森哲明と一緒だった。


 野上弥生は同じ部署の二つ年上の先輩だ。サイトを運営している会社で、私たちはイーコマース事業部、オンラインショッピングサイトを運営管理している部署で働いている。


 仕事は弥生から教わった。教えてもらえないことは見よう見まねで盗んだ。弥生は私の憧れであり、目標とする人物であり、時々、羨望のあまり苛立たせられてしまう女性だった。弥生は仕事が出来る上に美人だった。


 弥生は、パーツ一つ一つが大振りで、特に口が大きかった。本人は口が大きいのがコンプレックスだといっていたが、目や鼻とバランスを取って配置されているのでかえってチャームポイントになっていた。


「お肉ばかりになるとアレかなと思って」


 弥生は手に下げた紙袋からプラスチックの容器を取り出した。中身はポテトサラダだった。


 肉とビールは用意するが、他に飲みたいもの、食べたいものがあれば自前で用意するようにと事前に通達したら、独身男性たちが用意したものはスナック菓子かコロッケだとか唐揚げだとか揚げ物が多かった。そうなるだろうと予測して野菜中心の料理を用意したが、孤軍奮闘にも限りがある。援軍は大歓迎だ。


「ありがとうございます。先輩、お料理上手だから、みんな喜ぶと思います。今、器に入れてきますね」


 弥生から容器を受け取り、私はキッチンに戻った。


 趣味が料理だという弥生は、時たま私たちを自宅に招いて手料理をふるまった。そのどれもがプロ級の味と盛り付けだった。


 容器のフタを開け、私は真っ先にタマネギを探した。明宏はタマネギが苦手だ。火を通せば食べられるが、生のタマネギだけは受け付けない。弥生の作ったポテトサラダにタマネギは入っていなかった。


 弥生が持っていたようなこじゃれた器にセンスよく盛り付けたらポテトサラダも立派になるかと思ったが、そんな器もなければ、センスも私にはなかった。


 大皿だのボールだのを動かし、ダイニングテーブルの上にポテトサラダの置き場所を確する。ニンジンのオレンジ色とキュウリの緑がテーブルに彩を沿えた。


「朝から準備、お疲れさまでした」


 テーブルに並ぶ皿を眺めまわしながら弥生が言った。私はかえって恐縮してしまった。野菜スティックは切っただけ、ディップは市販のものだ。レタスはちぎっただけ、一口大に切ったトマトとキュウリを投げ入れた。フルーツは洗って皿に盛りつけただけだ。


 フレンチ、和風、中華と用意した三種類のドレッシングをかわるがわる掛けて弥生はサラダを食べた。


「ドレッシング、手作り? 味が変わって、同じサラダでも飽きないで食べられるね」

「ドレッシングが苦手な人もいるだろうし、ダイエット中の人には油分は大敵かなと思って、別にしたんです」

「レシピ、教えてね」


 片付けがあるからと私はキッチンに戻った。弥生は私についてキッチンまでやってきた。


「私たち、結婚するの」と弥生は言った。


 弥生の左手薬指には一粒ダイヤの指輪が輝いていた。婚約指輪なのだなと、ポテトサラダの入った容器を受け取った時に気づいていた。デニムにTシャツというカジュアルな装いの中で、指輪は悪目立ちをしていた。


「おめでとうございます」

「ありがとう。まだ誰にも言ってないの」


 弥生は庭先に立つ小森哲明に視線を送った。小森哲明は、トング片手の明宏と言葉を交わしていた。弥生と婚約したという話を明宏にしているのかもしれない。

 カラカラに乾いていく口に唾を飲み込ながら、私は小森哲明の笑顔を見つめた。


 私はかつて小森哲明の二番目の女だった。


 小森哲明は私と同期だ。共に三十歳。哲明は頭の回転が人並み優れてよく、話をしていて思いがけない言葉や反応が返ってくるので、会話に飽きなかった。話題も豊富だった。甘めの童顔も彼の魅力を引き立てるのに一役買っていた。


 付き合ってほしいと私は告白した。彼女がいると断られてしまったが、諦めきれず、「二番目でもいいから」とすがりついた。哲明が付き合っていた女性は弥生だった。私は知っていて、哲明と付き合い始めた。


 哲明の二番目の女になって一か月後、私は飯田明宏に告白された。


 明宏は二つ年上、弥生と同期で、サイトに掲載する広告を扱う広告事業部に所属していた。仕事の関係上、明宏とは密接にやり取りをしていたが、自転車という共通する趣味を持つ哲明がいるという理由で、明宏は頻繁にイーコマース事業部に出入りしていた。


 付き合ってほしいと言われ、私は戸惑った。嫌いではなかったが、恋人にしたいという感情はなかった。交際を受け入れた理由は、好きな人に好きになってもらえない辛さがよくわかるからだった。


 明宏にとって、私は大好きでたまらない女だった。愛されたら、愛し返すことができるかもしれないと思っていたら、明宏に対する私の気持ちは常に二番だった。一番は哲明だった。


 そうして私は知ってしまった。


 哲明に対する私の気持ちが一番であり続けるのと同様、哲明にとっては弥生が一番なのだと。


 明宏がいくら私を大事にしてくれても、私の熱は低いままだった。いくら私が熱い気持ちで哲明にむかっていったとしても、哲明の反応は冷たい。


 私は、哲明にされた仕打ちを明宏にむかってした。


 翌日の朝が早いとわかっていながら、わざと長電話に興じた。「いいよ」と言ってくれた服を選ばない。さんざん我儘をいい、ケンカになっても自分からは謝らなかった。気持ちをつなぎとめようとも考えなかった。別れたいというのならそれでもいいと強気でいた。


 自分が明宏に抱いている気持ちは、哲明が私に抱いている気持ちだと判って、ようやく踏ん切りがついた。哲明の気持ちは変わらない。彼の一番は弥生だ。


 私は哲明に別れを告げ、明宏のプロポーズを受け入れた。


 もし男だったら、私は私みたいな女とは別れると言ったら、「わがままだとしても、自分を出せる人がいいんだ」と明宏は笑った。



「結婚生活はどう? 少しは落ち着いた?」

「半年経つので……それなりに」

「インテリアは……七恵さんの好みなのかな」


 弥生はダイニングからリビングにむかって視線をめぐらせた。汚れが目立たないという実用的な理由からソファーは濃い茶系を選び、差し色の赤いクッションを置いている。明宏は柄物を置きたがったが、シンプルにまとめたかった私はうるさくなるからと言って却下した。 


「はい、好きにさせてもらってます」

「……私は好きにできなかったな。全部、彼の好みに合わせちゃった。食べる物も、観る映画も聴く音楽も。あっさりした和食が好きなのに、こってりした物が好きな彼にあわせてそんな食事ばっかり用意したっけ。アクション映画は好きじゃないのに映画館デートでは大作映画ばかり観てた。ロックが好きだけど、二人で行く時はビート系のライブだった。彼のことが好きすぎて、自分でいられなかった。嫌われたらどうしようって怖くてね。彼に、『好きな人が出来たから別れて欲しい』って振られて……。そんな時に小森くんに告白されて付き合いだしたの。小森くんと一緒だと楽なのよ。自分をさらけ出せるの。好きすぎなくて、嫌われる恐怖がないからかな。浮気されても気にならない。彼、浮気してたのよ」

「相手が誰だか知っているんですか?」

「言ったじゃない、気にならないって。だから誰だか探ろうだなんて思わない」


 哲明が来るからと、私はドレッシングを別に用意した。哲明はドレッシングが苦手で、少しでもかかっているとそのサラダには手をつけないからだ。弥生は気づいただろうか。


「ねえ、七恵さん、『二番目に好きな人』と結婚するとうまくいくって聞いたことない?」

「恋愛とは違って結婚は生活だから、相手に対する期待値が低い方がうまくいくっていう話ですよね」

「なんだか味気ない気がしないでもないけど」

「生活ですから」

「そんなもの?」

「そんなものです」

「そんなものかあ……」

「結婚を決めた理由は、小森くんが二番目に好きな人……だからですか?」


 弥生は指輪をしきりともてあそんでいた。


 視線の先に明宏と哲明がいた。二人とも男性としては小柄な方である。顔も小さい。自転車乗りに共通する特徴なのか、二人とも引き締まった体をしている。ぷりっと盛り上がった臀部が好きで、ふざけながら私は明宏の尻をわしづかみにする。明宏は嫌がってみせるが、まんざらでもないらしい。哲明の尻をわしづかみにするなど、到底できなかった。


 明るい茶色の髪も共通しているが、明宏は地毛で、哲明は染めている。見た目では分からないが、指を通すと、地毛の明宏の髪は細くて絡みついてきたが、哲明の髪は固くしっかりしている。哲明の毛を今は弥生が染めているのだなと、嫉妬した。


「私ね、明宏さんと付き合っていたの」と弥生は言った。


 嫉妬もしなければ、驚きもしなかった。


 ポテトサラダは明宏の好物だ。普通は入っているタマネギを、弥生は抜いた。明宏が生のタマネギが苦手だと知っているからだ。

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