セカンドラブ

神辺 茉莉花

第1話 セカンドラブは突然に

 結婚記念日をあと二週間後に控え、俺の心は荒れ狂う海に放り出された小舟のように大きく揺らいでいた。

 誰もいない居間のテーブルで頭を抱え、小さなICレコーダーを睨みつける。数か月前に固定電話の近くで置き忘れたものらしい。録音があることを示す赤いランプがレコーダー発見のきっかけだった。もっとも、不安を呼び起こす原因にもなったが。

 何度も押した再生ボタンを震える指先でもう一度押す。

 録音自体が嘘であってほしい。

 テレビの砂嵐のような音が数秒。そして、最愛の女性の……妻の声が聞こえてきた。どこか上ずった、それでも充分に甘さを含んだ声色だ。


 ――できるだけ素敵なセカンドラブを……お願いします。……はい、できれば家族には秘密で。


 録音されたのは三日前。そして休日の今日、妻は朝食を食べ終わるや否や、あと片付けもそこそこに「ちょっとコンビニに振込に行ってくるね」と出て行った。すれ違う瞬間、普段はつけない香水の香りが鼻先をくすぐった。


 セカンドラブ。

 家族に内緒。

 コンビニでの振込。

 嗅ぎ慣れない香水の香り。


 そういえばこの一週間で妻は随分とおしゃれと美容に気を使うようになったと思う。シャンプーもなんだかワンランク上の物を買うようになったし、結婚後いつの何か中断していたフェイスパックも再開した。

「まさか……浮気?」

 心臓がどくりと跳ねた。

 そりゃあ、妻は控えめに見ても美人の部類に入ると思う。きりっとしてて仕事もできていつも笑顔で堂々としてて……。社内恋愛で今もお互いに同じ社内にいるが、キャリアウーマンとしても尊敬できる。

 ――何が駄目だったんだろう。

 ふうと深く溜息を吐いた時、妻が帰ってくる物音がした。しゃらしゃらとした音はコンビニのビニール袋だろうか。ソプラノの鼻歌は、機嫌がいいときにしか出ない十八番のラブソングだ。慌ててレコーダーをポケットに突っ込み、そ知らぬふりを装う。

「寒かったからさ、肉まんと餡まん買ってきちゃった。半分こしよ?」

 ――いつもは一個しか買わないのに。

 そんな些細なことすらも今の俺には気になった。



 それから数日。妻の、女としての魅力はどんどん上がっていった。岩盤浴にフィットネスクラブのお試し入会。いい香りのする入浴剤入りの風呂に、派手ではないが丁寧な化粧。

 何も知らなければ喜んだだろう。一番身近にいる異性が急にきれいになっていくのだから。しかも何かを埋めるように会話を増やす。いつになく甘える。


 いっそ探偵にでも浮気調査を頼もうか。

 それでも浮気の確証が持てないまま二週間がたった。ついに今日が結婚記念日だ。お互いに定時まで仕事をして、夜から少しいい食事を家でとろうということになっている。


 ……なっているはずだ。昨日の夜から大きめに切ったビーフシチューを煮込んでいたし、ワインも冷やしていた。オードブルの注文だって済ませている。

 でも……、どうしてこんな真昼間に妻が見知らぬ若い男性と一緒に歩いているんだ?

 遠くからではあるが、楽しげな妻の笑みが目に入り、外回りの営業で出ていた俺は思わずさっと路地裏に隠れこんだ。

 心臓が暴れ回っている。ダウンジャケットを着こんだ体が熱くて、冷や汗が背を撫でる。見間違いであってほしいというわずかな希望を抱き、たまらず職場の、妻のいる部署に電話をかけた。

「みのり主任ですか? 今日は退勤しましたけど……」

 妻の在席をそれとなく確認すると、電話口に出た女性がごく自然に退勤を告げた。何も含むものはない対応だ。


 張り詰めていたものがぷつんと切れて、たわむ。崖から突き落とされた気分、というのはこういうことを言うのだろう。

「え……あ、そうですか」

 おざなりにそう言って、あとは無気力なままに仕事をし、定時で退社し……。

 ……どうしてもまっすぐに帰ることはできなかった。



 結局、重たい気分を引きずって帰宅したのは夜の十一時近くのことだった。何度か家からかかってきた電話にももちろん出ていない。どんよりと暗い気持ちで明かりの漏れる居間へと足を踏み入れる。

「あ、ようやく帰ってきた! もう、あんまり遅いから心配したのよ。仕事で遅くなったんなら電話くらいくれればいいのに」

 弾んだ声。

 いつも通りの笑顔。

 拗ねてぷっくりと膨らんだ頬。

 ――ああそうか。妻は……みのりは昼間、俺に見られたということに気が付いていないんだ。


 好きなのに。

 好きなのに。

 好きなのに。

 それでも、どうしても想いは交わらない。


 ――何一つ変わらない妻の態度に、何一つ変わらずに対応できたらよかったのに。

 たくさんのごちそうが並んだテーブルを見やり、とうとう俺はその場にへたり込んだ。



「ちょっと、大丈夫?」

 妻の汲んでくれた水というのがなんともしゃくだったが、それでもコップ一杯飲み干すとようやく人心地がついた。

「どうしたの? 何か会社であったの?」

 アーモンド形のぱっちりとした大きな目にハリのある肌。鎖骨のくぼみ。つやつやとした長いストレートの髪。

 ――これは野郎だったら放っておかないよな……。

 妻の、昼間のあの笑顔が脳裏で蘇る。

 再度「どうしたの」と問われ、フローリングに尻をつけたままぽつりぽつりと今までのことを話し始めた。

 静寂に時計が時を刻む音と、力のない糾弾が広がった。



 初めのうちこそ「やだ、あれ録音に入っちゃったの!?」と慌てていた妻だったが、話が終盤に向かうにつれてだんだんと大人しくなった。うん、と時折小さな返事があるだけだ。返事ではなく、相槌みたいなものかもしれない。

 目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「そうだったの……。はじめから気が付いていて……それで誤解しちゃって……」

「誤解? …………!?」

 対面で目の高さを合わせていた妻が不意に真正面から抱き付いてきた。熱い抱擁。受け止めることもできずにおろおろしているとすぐに腕が離れた。


「セカンドラブっていうのはね……」

 言って、バルコニーから白い不織布に包まれた何かを持って戻る。

 鉢植えの花だろうか。ヒヤシンスみたいにびっしりと白い花が付いているのが布越しに分かる。

 新聞紙を下に敷いて俺の近くにその鉢を置くと、妻はゆっくりと白いベールを取り外した。

 白い花弁の先が淡い赤紫色で飾られた、何ともかわいらしい小型の蘭だ。


「これは?」

「デンドロビウムの『セカンドラブ』よ。セカンドイヤー……記念となる二番目の年に好きな人に贈るとずっとその幸せが続くっていう言い伝えがあるの」

「じゃあ、じゃあなんであんなに急に化粧とかに力を入れるようになったんだ! それにあの男の人は……」

 言葉が強さを増した。

「あの男の人は花屋の店員よ。行ったことのない店だから迷っちゃって。仕方がなく電話をしたら迎えに来てくれたの。化粧は……」

 言いよどむ。砂糖菓子みたいな甘い香りが薄く広がった。うっすらと頬が朱に染まる。

「好きだから。あなたのことが好きだし、ちゃんと私を見てもらいたいし、他の女の人なんかに目を向けてほしくなかったから。インターネットでこのセカンドラブっていう花を見て、この花を贈るまでに私も一生懸命美しくなろうと思ったの」

 再度、妻は俺の体に腕を回した。温かくて柔らかくて……いとおしい。

 なんだ、お互いに想っていたのか。

「綺麗な姿を見てほしいっていうのはね、子供でも学生でも大人でも……しわくちゃのおばあちゃんになっても同じなのよ。好きな人の前ではずっとずっと続くの!」


 泣いているのだろうか。

 泣かせてしまったのだろうか。

 これからも泣かせてしまうのだろうか。


 いや、これからはもう泣かせたくはない。結婚して二番目の冬。これからもずっと一緒にいよう。

 自嘲が漏れた。

「疑って悪かった。誰かほかの人に取られるかもしれないって考えたら悔しくて……めちゃくちゃ悔しかったんだ」

「それって……」

「ああ、好きだよ。みのり。これからもずっと一緒に生きていこう」

 二度目のプロポーズ。

 返事の代わり、唇を重ねる音が俺の耳に響いた。


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