思い出の春
温媹マユ
思い出の春
「きれい……」
さくらの薄いピンク色と菜の花の鮮やかな黄色のコンビネーション。
この季節に両方を楽しめるところは数あれど、ここは穴場的存在なのか。それともただ私が知らなかっただけか。
「でしょ。僕も久しぶりに来たけど、今日は天気も良くて桜も満開。明日香さんの門出を祝ってくれているみたいだ」
彼の笑顔に私は胸が熱くなった。
こんな気持ちになるなんて、昨日の私には全く想像も出来なかった。
***
今日は関西支社に出社する最後の日。荷物も昨日発送したので、机の中も空っぽ。今日は特別することはない。せいぜい近場の挨拶回り程度。
私は四月一日付で関東の営業所に異動する。いわゆるローテーション。
でも今回は少し違う。
私は営業所の所長として異動することになったから。小さい営業所とはいえ、三十路前の私なんかが役目を果たせるのだろうか。
定時までもう少し時間がある。机の上には空っぽのペットボトル。いつもこのペットボトルのように空っぽの私なのに、今は不安でいっぱいだ。早く捨ててしまおう。
「あ、明日香さん。お疲れ様です」
振り返ると後輩の桜井くん。その目は不思議そう。
休憩室のゴミ箱の前で佇んでいたからか。
彼はすでに休憩室にいたらしい。全く気が付かなかった。
彼のいるテーブルの上には数枚の書類と社用携帯。
「こんな所で仕事? 感心しないわね。コーヒーでいい?」
空のペットボトルを捨て、缶コーヒーを二本買う。
もう片付けられたテーブルの上にそれを置くと、彼は「ありがとうございます」と缶を開けた。
「事務所はうるさくて、大事な電話は出来ないですよ。あ、今日の送別会、本当にすみません」
彼はこの後大事な商談があることは私はもちろん知っている。商談の後もすぐには帰ってこれないだろう。
彼の申し訳なさそうな顔に、寂しさを感じてしまう。
「気にしないで。今日は大事な商談でしょ?」
特別な異動の前だからかも知れない。不安を寂しさと勘違いしているのか。
「そうだ、明日の出発まで時間あります? 見せたいものがあるんですよ。というか、僕が見たいだけなんですけどね」
なんとなく、今ここで詳細を聞くのは野暮だと思った。
夕方の新幹線に乗ることにしている。朝一で引っ越しの荷物を出したら新幹線に乗る時間まで予定はない。
それに、明日の夜はホテルに泊まるため、ある程度時間に融通が利く。
でも彼には。
「大丈夫ですよ、ご心配なく。この前ふられちゃったんですよね。でも何でふられたのかさっぱり」
一応私と出かけても問題ないと言いたいのだろう。
でもこう言いつつも目はなんだか寂しそう。
彼の言葉から、彼女の伝えたい気持ちや寂しい気持ちに気付かなかったのだと思う。なんとなく。
「未練がないとは言いませんけど。いや明日香さんと出かけることは関係ないですね」
彼の中ではまだ、彼女が一番なのだろう。
私は「空いてるよ」と伝えると、彼は「迎えに行きますね」と待ち合わせ場所をメモ帳に書いてくれた。
こういう律儀な性格がお客様からの信頼を得ているのかも知れない。
「そろそろ僕は行きますね。今日は楽しんできてくださいね」
ひらひらと手を振り休憩室から出る彼に、私は小さく手を振った。
この気持ち、不安と期待とはひと味違う。
***
「桜井くん、ありがとう。すごくきれい」
少し照れた彼の横顔に気持ちが高ぶる。
ここは藤原宮跡。
「桜を見に行きましょう」と連れてきてくれたところ。
車の中でいくら聞いても行き先を教えてくれなかった。
近くの駐車場にとめて歩いているときにやっと教えてくれた。
ここは観光名所のように観光客が押し寄せる様な所ではなく、地域の人々の憩いの場のように感じた。
転勤が多く、地方出身の私にとって大阪城や蹴上げのように有名どころしか知らない。
少し高いところにさくら並木、そこから見下ろすと菜の花の黄色いじゅうたん。
秋はコスモス。美しい山々も見所だと教えてくれた。
さくら並木の下を二人で歩く。
「写真が趣味なんです」とさくらと菜の花を撮る合間に、何枚か私も撮ってくれた。写真に撮られながらも楽しそうな彼を見て、気恥ずかしさの中になんとなく心地いい、新しい気持ちに気がついた。
少し歩きづらかったけど、菜の花畑の中も歩いた。
今まで菜の花畑の中を歩く経験をしたことがなく、子供のようにはしゃいでしまった。
そんな私もカメラに収めてくれた。
たださくら並木を歩いただけなのに。
ただ菜の花畑を歩いただけなのに。
ただ後輩くんと歩いただけなのに。
この時間はとても楽しく、そしてはかなくもあるもの。
「そろそろ送りますね」
私は小さく頷くことしか出来なかった。
京都駅まで送ると言ってくれたけど、近くの駅まで送ってもらうことにした。長く一緒にいるとつらくなりそうだったから。
ここから京都駅まで一本。初めて来た私でも迷わないだろうと教えてくれた。
「本当は昨日のお詫びに夕飯でもと思ってたんですけど、時間がないと思って。これ新幹線の中ででも食べてください」
それは小さな紙袋。
私が「ありがとう」というと「お元気で」と手を振ってくれた。
精一杯の笑顔を作った、つもりだったけどちゃんと出来たかな。
改札を抜け時々振り返る。
彼はいつも私を見てくれていた。
新幹線に乗ってから、もらった袋を開けた。
柿の葉寿司と書かれた小さな箱と、一枚のメモ用紙が入っていた。
『明日香さん、今日は一日僕に付き合ってくれてありがとうございました。
新しい営業所でも活躍を期待しています。無理は禁物ですよ。
今度出張でそっちに行ったときはご飯でもおごってください。
こっちに来たときは、またどこかへ行きましょう。
それではお元気で』
いつの間に書いたんだろ。ちょっと字が汚いけど桜井くんらしさを感じる。
私はスマホを取り出し、感謝のメッセージを送った。
そして最後に付け加えた。
『春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山』
百人一首の二番目、持統天皇が読んだ歌だ。
彼はこれを読んでどんな返事をくれるのだろう。
思い出の春 温媹マユ @nurumayu
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