10 くも
大学は隣の市にあって電車でも十分に通えたけれど、わたしは両親に頼んで一人暮らしをさせてもらった。片道一時間弱ではあるが、電車の運行時刻なんかを考えると色々と不便なのだ。
……と、それは建前の理由で、実家にいれば何かにつけて本家に行かなければならないからだった。
親不孝だとわかっていても、私はほとんど実家に帰らなかった。たまに顔を見せるときも、何でもない日を選んで日帰りする。そうしていれば春之に会わなくて済む。
それでも大きな冠婚葬祭は免れない。いつかは春之に会わざるを得ないだろう。例えば私が結婚式をするなら、春之は絶対に呼ばなければならないのだ。
いつか誰かを好きになって、その人と幸せそうに笑う姿を春之に見せられるだろうか。そんな覚悟はまだまだできそうになくて、それ以前に春之の顔をまともに見る勇気もなくて、逃げ出した私は神社の境内でぼんやり座っている。
免れない冠婚葬祭、祖母の十三回忌法要だ。
母には直接本家に行くと言ってあり、実際家の前までは行ったのだけど、怖じ気づいて逃げてきてしまった。
ブラブラと歩いてきた先にあの夜宮で行った神社があり、行く宛のない私の足は引き寄せられるように石段を上った。約十年振りだった。
イベントのない日は誰もいない寂しい場所だ。社務所ですら呼び鈴で人を呼ぶシステムなので、あたりに人の気配はない。
お財布から百円を出して放る。鈴を鳴らして、二礼、二拍手。十年経ってもやっぱり何も願い事もなく、私は空っぽだった。春之を忘れたいとも思わないし、会いたくないかと言えばそれも違う。
━━━━━神様、やっぱり私は春之が好きです。だから、心の準備ができるまで、少しだけ居場所を貸してください。
一礼。
ちゃんとお願いしたので、堂々と脇の石段に座り込んだ。のどかな小春日和。きっと本家のあの客間には、ぽかぽかの陽だまりができているに違いない。おばあちゃんはとても気持ちのいい季節に亡くなったらしい。
住宅街のど真ん中にある神社なのに、ほとんど生活音が聞こえない。正面に見える鳥居の向こうは急な石段が下に伸びていて、ここからは鳥居越しに空が見える。まるで宙に浮かんでいるような鳥居の中には、小さな丸い雲がぽつんと浮かんでいる。
あのゆっくり流れる雲が鳥居からはみ出たら本家に行こう。
どうせ自分では決められないのだから、覚悟は雲まかせにした。
まばたきも忘れて雲を見つめていると、止まって見える雲もちゃんと動いているのがわかる。
雲が鳥居にかかった。あと少しではみ出す。そうしたら立ち上がろう。
じっと睨みつけていると、トントンと久しぶりの音が聞こえてきた。あまりに静かな場所なので、靴底の砂が石段で擦れる音まで聞こえた気がした。
頭の先が見えただけで、上ってきた人が春之だとわかった。上りきって息を切らしながらも春之は私を見てふわんと笑う。
「ああ、やっぱり」
さほど広くない境内を、春之は笑顔のまま真っ直ぐ私のところへやってくる。私はその姿を他人事のように眺めていた。
「先に公園の方を見に行ったんだけど、こっちだったね」
一年半振りに会う春之は、やっぱり全然変わっていなくて、私が生み出した妄想の結晶ではないかと思えてくる。結晶は神様に手を合わせてから、喪服が汚れることも厭わず、当たり前みたいに私の隣にすとんと座った。
「え? なんで?」
まさか本当に妄想なわけがないので、素直な疑問を向けた。
「亜希子おばさんが、あいちゃんと連絡取れないって怒ってて」
携帯の電源はあらかじめ切っていたし、母が怒っているであろうことは想定内だった。
「だけどあいちゃんがこういう場を簡単にすっぽかすわけないから、どこか近くにいるんじゃないかなーって探しにきた」
「ほっといても、ちゃんと行くつもりだったよ」
「うん。でも、ひとりにはしないよ」
驚いて顔を見たけれど、春之はさっきの雲でも眺めているように鳥居を見たままだった。
「……もしかして、昔から私のこと気にしててくれた?」
「何もしてあげられなかったけどね」
春之が私を大切にしてくれていたことはわかっていた。それで満足できないのは、私のワガママなのだろうか。
「あいちゃんとは、もっとちゃんと話さなきゃいけないと思って」
あまりに春之の態度に変化がないから、あの出来事の方が幻だったのではないかと思った。でも、春之の唇の感触と日本酒の味は、生々しいほどに覚えている。あの悲しいキスは、会わない間、何度も何度も思い出していた。
「私は春之に話すことはもう何も残ってないんだけど」
「うん」
話すことがある、という割に春之は黙って座っている。法事の時間が迫っていることも実は気になっていたので、結局私の方が急かすことになった。
「迎えにきたんでしょう? そろそろ行かないと」
立ち上がった私の手を、春之が掴んだ。
「ずっとあいちゃんに会いたかった」
春之の口から聞こえてきたとは思えない言葉だった。
「連絡先も知らないし、さすがに亜希子おばさんには聞けなくて。何度か大学には行ってみたけど、そんな簡単には会えないものだね」
大学は無機質で別に思い入れのある場所でもないのに、春之が来たというだけで特別な色が添えられていくようだった。
「なんで? 私のこと拒絶したくせに」
「『拒絶』はしてないよ」
「付き合うなんて『考えたことない』って言った!」
「だって、考えたらダメでしょ。むしろ考えないようにするよ、常識的に」
思い悩むように、春之は額に手を当てた。
「『常識』なんてどうでもいいから、私を見て欲しかった」
「うん。だから考えたよ。あの日からずっと毎日」
兄と美咲さんの間には、しばらく前に女の子が生まれた。一年半とは短いようで、何かが変化するには十分すぎる時間だ。
「それで?」
「あいちゃんが思うほど十八歳差って小さくないんだよ。普通に年の近い人と付き合って、普通に祝福される方が幸せじゃないかなって思う。まして、遠縁だけど親戚だし、俺はバツイチだし」
「わざわざ考えた結果がそれ?」
「いや。そう思うのに『なんとかならないかな』『なんとしたい』って思ってた。こんなに毎日毎日、ひとりの女の人のこと考えたことなかったよ」
『女の人』って単語だけが耳に残った。春之は私を『女の人』だと言った。『女の子』ではなく。
「いいのかな? 俺があいちゃんを好きだって言っても」
言われた言葉はずっと望んでいたものなのに、嬉しいのか悲しいのかわからないくらい、心臓が苦しくなった。
「春之よりいい人なんていっぱいいるよ」
「うん。そうだね」
「同じ学部内でも、ほとんどの人は春之より条件いいと思う」
「うん」
「私だって春之以外の人の方がいいって頭ではわかってる」
「うん」
「だけど春之じゃないとダメなの。ダメだったの」
いつでも新しい恋を始めたいと思っていた。でももう安易に誰かと付き合うつもりもなかった。恵君みたいに傷つけるのも、結局ダメで苦しむのも、もうたくさん。そうしているうちに時間だけが流れて、私は春之が好きなまま何も変われていない。
「じゃあ、俺でいい? まだ間に合うなら」
春之の手が私の頬を流れた涙を拭いた。永遠に届かないと思っていたチャンスが逃げてしまわないように、私は急いで何度もうなずいた。
目をつぶっていたから、唇にふわっと触れた感触で逆に目を開けてしまった。次の瞬間には春之の顔が離れていく。
「やっぱりかなり背徳感があるね」
「背徳感って?」
答えはもらえずに今度はずっと深いキスに襲われた。さっきのがオモチャみたいに感じるほどの。昔結婚式で見たあのやさしいキスをした人と同一人物とは思えない。墜ちる覚悟を迫るような、強くて重いキスだった。
春之は私が思っている以上に大人で、男で、私はまだまだ子どもだったと思い知らされた。
ゆっくりと離れて、抱え込まれるように抱きしめられる。
「ごめん。いろいろ、ごめん」
春之はさっき『十八歳差は小さくない』と言った。現在の私でさえ、私の記憶の中の春之よりもまだ若い。ずっと大人の春之は、私にはわからない葛藤を抱えていたのかもしれない。
「私は嬉しいよ。やっと女として見てもらえて」
「いや、女の子はどんどん変わるからね。高校生くらいだともう危なかった」
「高校生のとき告白したら流された」
「あれを本気に受け取る勇気ないよ。ようやく二十歳になってくれて、少し気が楽になったくらいなのに」
ずっと「早く大人になりたい」と思って生きてきた。でも大人だっていろいろ不自由で悩むのだ。「心のままに生きる」なんて身勝手はきっと生涯できないのだろう。
「本当にただのおじさんだよ?」
「春之は春之だよ」
「給料安いよ?」
「元々期待してない」
「右払い多いけどいいの?」
「プリンターが使えるようになったから大丈夫」
春之がふわんと笑った。間近で見ると、昔より目尻の皺が深くなっていて、やっぱり春之もちゃんと年を取っていたのだと、妙に安心した。
「そろそろ行こうか」と春之が手を差し出すので、その手に手を重ねた。春之は私を引っ張って立たせた後、スルリと指を絡ませる。あの日この場所でできなかった、恋人同士のつなぎ方。春之は口数が多い方じゃなくて考えていることもあまりよくわからないけれど、今は私と同じようにあの日のことを思い出しているのではないかと思う。そういうことにして、私はきゅっと手に力を入れた。
本家の入り口が見えて、どちらからともなく手を離した。
「あい」
春之は相変わらずの素っ気なさで口にしたけれど、わずかに色合いが変わっていた。
「今日は法事だからさすがに言えないけど、近々おじさんとおばさんに怒られに行くから、都合きいておいてね」
余韻にひたって立ち尽くす私を、春之はこれまでよりもずっと密度の濃い声でまた呼んだ。
「あい?」
「あ、うん。わかった」
きっとこれからも「好きだ」とか「愛してる」なんて言わない人だろう。だけど、もう子どもじゃない私は、その呼び声の中に深い愛が込められていることが、ちゃんとわかるようになっていた。
fin.
こい 木下瞳子 @kinoshita-to
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