9 はるぼこり

 目の前でウェディングドレスを見たのは紗英さん以来だ。

 お兄ちゃんの奥さんである美咲みさきさんはまだ若く、見た目も性格もとても可愛らしい。だからたくさんのフリルとリボンがついたドレスも、頭に載せた花かんむりも、とてもよく似合っていた。同じ白のドレスでも、シンプルで凛としていた紗英さんとは全然違う。そのせいなのか、昔を思い出しても痛みを感じることなく、素直にきれいだと思えた。

 今日も私はやっぱりピンクのワンピースを着ている。「お祝い事は華やかに」という母の方針が変わっていないせいだ。それでもさすがに十八歳にフリフリの花柄は要求してこなかったので、シャンパンカラーのシンプルなものを選んだ。小さな頃からずっと変わらない顎ラインで切りそろえられたボブも、美容師さんの技術でアップにしてもらうと、急に大人っぽくなった気がした。

 今回は自分の兄の結婚式なので私も主催側。美咲さんのお友達と一緒に受付をしていると、エレベーターからまとまって降りてきた親戚の中に春之の姿もあった。

 ほとんど三年振りになる。春之は三十六歳になっているはずだ。でもやっぱり変わらない。整髪料も何もつけていないやわらかい髪も、のんびりとした猫背も、ゆったり歩く姿も、どこもかしこも私の好きな春之のままだった。


「ありがとうございます。こちら席次表です」


 久しぶりに会う親戚のおじさんおばさんに貼り付けた笑顔で型通りの言葉を述べる。一番後ろに春之がいる。それだけで、いつも通りでいることなどできなかった。


「おめでとうございます」


 下手くそな右払いが並ぶ『水沢春之』のご祝儀袋を、うやうやしく受け取った。


「ありがとうございます。席次表です」


 顔が見られず伏せた視線の先で、席次表を渡す手が震えている。


「あいちゃん、久しぶり」

「あ、うん」


 顔を上げると、以前より目線が近い。春之は、瞳の温度を変えたように私を見ていて、その様子もつぶさに感じられるようになっていた。

 思えばこうして向き合うことも、ほとんどなかった。春之はいつも隣にいて、そして私以外の何かを見ている存在だった。

 けれど今、やっと春之に真正面で恋をしている。人生で初めて、この恋は命を燃やしていた。


「大きくなったね」

「身長なら高一で止まったよ」

「そうじゃなくて。これじゃ、街ですれ違ってもわからないな」


 春之は戸惑ったように頬をさすりながら笑った。

 言いたいことは何もなかった。それは昔のように話題が探せないせいではなく、言葉が用を為さないのだった。ずっとずっと見つめていたい。もっと近くで触れたい。ほんの少しの理性と、受付用のテーブルがなければ、手を伸ばしていたと思う。


「お疲れ様。またあとで」


 後ろから来た人に押し出されて、春之は会場へ向かう。目で追っていると、入る前に一度振り返って微笑んだ。その姿が見えなくなって、私もようやく現実に戻る。

 席次表を配る指先に、さっきまではなかった熱を感じていた。


 披露宴の間はゆっくり食事をする暇もなかった。イベントとイベントの間を縫って、親戚のテーブルを回らなければならなかったからだ。両親はというと、兄の職場関係の人や友人のテーブルを回っている。


「本日はどうもありがとうございます」


 目の前のグラスにビールを注ぎながらも、私の全身は春之の気配ばかり追っていた。


「あらあら! あいちゃんずいぶん大人っぽくなったのね。もう大学生だものね」

「はい。お祝いもたくさんいただいて、ありがとうございました」

「陽太君も結婚したし、次はあいちゃんね」


 言われて初めて、私は自分の花嫁姿を考えたことがないと気づかされた。結婚式を想像するときはいつも、きれいなお嫁さんの後ろ姿を、悲しく眺めている自分しか思い浮かばなかった。


「いえ、私はまだまだです」


 すぐ隣で春之は、真鯛のポワレにバターソースを乗せている。


「え~? ちゃんと彼氏がいるって亜希子さんから聞いたわよ~?」


 真鯛をフォークに刺したまま、春之がこちらを見た。母が知っていたことにも、親戚にバラしていたことにも、それを春之に聞かれたことにも、すべてに動揺した。


「おばさん! それは……」


 こんなお祝いの席で「別れた」という単語を口にしていいのか一瞬躊躇った隙に、新郎新婦がお色直しで退場するとアナウンスが入った。

 仕方なく一度自分の席に戻ると、両親も同じように席に戻ってきたけれど、やはりこんな場で話す話題ではない。私はにこやかに退場していく兄と美咲さんを複雑な気持ちで見送った。


 ご挨拶を再開して、春之のところに向かう。


「本日はどうもありがとうございます」


 ビールの瓶を差し出したものの、春之のグラスには透明な液体が入っていた。


「あ、ごめん。日本酒持ってくる」


 急いで向きを変えた私の腕を春之が掴んだ。


「ビールで大丈夫」


 グラスに三分の一ほど残っていた日本酒を、春之は一気に飲み干した。むき出しの私の腕に、春之の手は驚くほど熱かった。顔も真っ赤で目もとろんとしている。

 春之はあまりお酒が強くない。本家で私と一緒にリビングを抜け出していたのも、そういう理由もあった。だからこんなに酔った姿を見るのは初めてだった。


「春之、大丈夫?」

「うん」


 こんな時本人の申告なんてあてにならない。


「ちょっとちょっと春之! 飲めないくせに何やってるのよ。外の空気でも吸ってきたら?」


 隣に座っていた春之のお母さんが、深いため息をつきながら言った。


「……そうする」


 春之は重そうに脚を引きずりながらも、一応自分で会場の外へと向かう。


「私、お水もらってきます」


 一番近くにいたホテルの人からお水を受け取り、私は急いで春之の後を追った。


 フロアの端にあるソファーに、春之はぐったりと座っていた。そこは大きな窓に面していて、駅につづく街並みがよく見える。


「春之、お水飲んで」


 隣に座ってコップを押しつけると、春之は素直に半分くらい飲んだ。


「あいちゃん、ごめんね。俺は大丈夫だから戻っていいよ」


 私はその言葉を無視した。春之を置いていけるわけがない。私にとって春之以外はどうでもいいくらいなのだから。


「春之が酔っ払うなんて珍しいね」

「うん。ちょっと…………ヤケ酒」

「ヤケ酒?」


 それ以上答えるつもりはない、というように黙ってしまった。仕方なく座り直して正面を向くと、見晴らしはいいのに春の埃で濁った空が見えた。大きな窓ガラスを通して入ってくる光さえ、埃っぽく感じられる。

 場所は違っても、また同じようにふたりで宴会を抜け出して窓の外を見ている。何年経っても、私と春之はいつまでも同じ。このまま何もしなければ、きっと生涯変わらない。永遠に同じ日々をなぞるだけ。

 隣を見ると、春之はソファーの背もたれに仰向けに頭を乗せて目を閉じていた。

『あい、頑張れ』

 言葉で伝えても本気にしてもらえないことはわかっている。もう本物でも偽物でも恋でも執着でも、何だって構わない。

 私はソファーに膝立ちになり、伸び上がって春之の肩に手を置いた。昔よりだいぶ大きくなった私の手は、いとも容易く春之に届く。

 ━━━━━春之の唇は日本酒の味がした。

 そう感じたのはほんの一瞬。ビクッと大きく跳ねた春之に、私ははじき返されてしまう。春之が持っていたコップから水がこぼれ、私と春之の脚を濡らした。


「━━━━━あいちゃん!?」


 夢や幻だと思われてなるものかと、今度は春之の頭を抱え込んで再び口づける。伝われ、伝われ、と必死に念じながら。

 残念だけど、キスひとつで春之の心を掴めるだけのテクニックなんて持っていない。それどころか応える気配もない春之に、ぎゅうぎゅう押しつける以外できなかった。

 どうしたらいいの? どうしたら?

 私が攻めあぐねている間に、春之はあっさり私の手を掴み、身体を押し戻した。


「……あいちゃん、どうしたの?」


 今まで見たことないほど驚いた表情で春之が言った。酔いすら醒めたようだった。


「春之が好き」


 たったこれだけのことで息が切れていた。身体の奥からあふれる想いが、呼吸を妨げている。


「春之が好きなの。ずっとずっと」

「え……彼氏は?」

「別れた」


 恵君とのことはこれ以上言葉にできない。例え相手が春之でも。何をどう言っても、きっとちゃんとは伝わらないから。


「春之は? 付き合ってる人がいるの?」

「いないよ」

「だったら私じゃダメ? 私のことは妹にしか見えない?」

「あいちゃんのことを妹だなんて思ったことない。あいちゃんは……あいちゃんだから」

「だったら私と恋愛して!」


 春之は驚いたままだった。やっと私が本気なのだと伝わった。同時に喜んでいないこともわかる。だから続く春之の言葉は心の中で予想していたもののひとつだった。


「……そんなこと、考えたことない」


 予想できていたのに、大きな涙がボタッと落ちた。あまりに大きいから、目が取れたのかと思った。一度道ができてしまったらもう止まらなくて、頬をするすると涙が流れ続ける。

 全身から生気が逃げ出したみたいだった。このソファーに倒れ込んで、二度と起きあがりたくない。誰もいないところでゆっくり泣いて、もう春之には会いたくない。

 春之の手がオロオロと私に伸ばされたけれど、その手を振り払って膝から降り、濡れた脚のまま会場に戻った。こんな時ですら心のまま逃げ出すこともできない、いつもどこか冷静な自分が嫌になる。

 春之の驚いた顔は、少しだけ嬉しかった。油断しやがってザマーミロ、とも思う。だけどそれも、親戚の女の子がいきなりキスしてきたら誰だって驚く類いのものだ。もし逆の立場だったら、親戚のおじさんがいきなりキスしてきたら、それはもう犯罪だろう。笑って許されるのは幼い子どもだけ。

 「あいちゃんはかわいいね」と許される時期はとっくに過ぎている。子どもだったら、許されてまた同じように一緒にいられただろうけれど、戻れないし戻りたくない。女として拒絶されたなら、この方がずっといい。ずっと願っていたことだ。

 長い長い恋だった。ずっとわからなくて、自覚したときには終わっていて、知らぬ間に私の心を蝕み続けた。どうしようもない恋だった。いつも過去形でしか語れない恋だった。

 時間をかければ何でも熟成されておいしくなるわけではなく、多くのものはただ腐って捨てられる。私の恋も時間をかけて朽ちていくのだろう。


 そっと扉を開けると中は薄暗かった。美咲さんだけにスポットライトが当たっている。花嫁からの手紙を読んでいる最中だったようだ。涙声で一生懸命手紙を読む美咲さんにつられて、あちこちからすすり泣きが聞こえていた。

 私は自分の席に戻ってバッグからハンカチを取り出した。お化粧が崩れるなんて考えずにゴシゴシと顔中を拭く。その日は私がどんなにひどい顔をしていても「あいちゃんももらい泣きしちゃったのねぇ」とみんな笑ってくれた。ただひとり、春之を除いて。

 春之はずっと私から視線をそらしたままだった。







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