8 はれ

 午後から晴れるなんて予報が疑わしいほど重く雲が垂れ込めた朝。沈む気持ちに拍車をかけられて、私は卒業式に臨むことになった。

 二次試験が終わってから何度誘っても、若村君は会ってくれなかった。多分、私の言いたいことなんかお見通しなんだと思う。それなのに、


『今日は一緒に帰ろう』


 今朝突然そんなメッセージが届いた。前置きも何もない、たった一文。だからこそ有無を言わさない凄みを感じて、私も短く了承の返事をした。


 教室は非日常感でいつもよりむしろ騒がしく、湿っぽいムードはない。試験は終わったから予習も宿題ももういらない。だからさすがの若村君も時間を惜しんで勉強するようなことはなく、友達と楽しげに話をしている。私も友達同士の会話に参加しつつ、そんな彼を離れた席から見ていた。

 すると、その視線に気づいたのか若村君も私を見た。私が見ていたことをわかっていたように、目が合っても驚いた様子もないまま逸らさずにじっと。こんな時、若村君はいつもにっこりと微笑んでくれた。だから私も自然と笑顔を返せた。若村君が笑わなくなって、どのくらい経っただろう。担任が教室に入ってきた音で、視線は同時に離れた。

 形式的に過ぎていく卒業式を、私は無感動なままやり過ごした。今時まだ歌うのか、という『仰げば尊し』。受験は終わっていないので、式典の練習に時間を割いたりしないのだ。私もそれで全然構わない。

 高校時代にはたくさんの思い出がある。大切に思っている。でもそれは友達だったり、自分の努力だったり、若村君だったりで、学校そのものに未練はない。

 国立の合格発表はまだなので、多くの生徒は不安を抱えたままだ。その状態で卒業と言われても感じ入れるわけもなく、誰一人泣いていなかった。

 いつもより長い担任の話とともに最後のHRが終わった。カラッとしているようでも、みんなどこかしら名残惜しいのだろう。写真を撮り合ったり、教室を移動して歩いたり、いつもと違ってなかなか帰ろうとしない。私も友達と春休みの約束を話し合っていたけれど、ふと、友達の一人が目線だけで私の後ろを示した。そこには、周りに人がいることなど気にする様子もなく、若村君が黙って私を待っていた。


「ごめん。先に帰る。夜にでも連絡するね」

「うん。あい、またね!」


 友達に見送られて若村君と一緒に校舎を出ると、信じていなかった天気予報どおり、すっきりと晴れ渡っていた。

 ふたり黙って歩く。まだ芽もわからない桜並木を、古い個人経営のコンビニの前を、人気のあるたい焼き屋さんの前を、去年新しく開通した橋の上を、時を止めたように変わらない住宅街を。ずっとずっと黙って歩く。

 こうして若村君と帰るのは雨や雪の日ばかりだった。梅雨の時期あまり降らなかった雨は、夏から秋にかけて取り返すように多かった気がする。いつも傘の分だけ離れていた私たちの距離は、今日近い。物理的な距離ならばこんなにも近いのに。


「どんな人なの? 藤嶋さんの好きな人って」


 宅配便のトラックがすぐそばを通りすぎて、それを目で追ってから若村君が言った。言われた言葉を理解するのに精一杯で足を止めてしまった私を、待つことなく歩いていく。

 どう切り出したら傷つけずに済むだろうなんて甘い考えを、見透かしたような強い声だった。

 誰かを傷つけるのは辛いし怖い。そのことから私は逃げているのに、若村君はやっぱり真正面から向き合ってきた。この人に対して計算や誤魔化しなんて許されない。


「……親戚の、ずっとずっと年上の人。物心ついたときにはもう好きだったの」


 小走りで追いついて、正直に答えた。


「あ、やっぱりいたんだね。好きな人」


 血の気が引いた。例え薄汚い嘘でも、最後までつき通すべきだったと、すぐに後悔した。

 歩みの遅くなった私を振り返り、若村君も歩く速度を落とす。


「いいんだ。なんとなくわかってたから」


 久しぶりに若村君のやさしい笑顔を見た。


「ごめんなさい」


 私にはこれしか言えないのに、若村君はそれさえ拒絶した。


「謝罪は受け付けない。そんな情けない恋はしてないから」


 責められるよりずっと心が痛かった。


「ちゃんと気持ちは伝えたの?」

「一度言ったけど、相手にしてもらえなかった。結婚してたから」

「結婚『してた』?」

「最近、離婚したって聞いた」

「ああ、なるほど。それで様子がおかしかったんだね」


 私の態度が変わったという自覚はあった。若村君が気づいていることも知っていた。今日ここではっきり終わることもお互いにわかっていた。


「もっと早く別れてあげるべきだったんだろうけど、これくらいのワガママはいいよね?」


 私は強く首を横に振る。


「そんなの全然ワガママじゃない」


 ワガママは全部私の方だから。


「その人のどこがいいの?」


 春之のどこが好き? そんなの考えたことがなかった。春之は春之で、ただそれだけで、私の心全部を持っていくから。


「━━━━━わからない」

「そうだよね。つまらないこと聞いちゃった」


 黙って俯いたら、遠くで車の走る音と鳥の鳴き声が聞こえた。妙にのどかな空気なのに私の心はちっともなごまない。


「いつか変わると思ってた。大きくなったら、いつか別に好きな人ができるだろうって。だけど変わらなかったの。やっぱりこの気持ちは本物の恋だったみたい」


 憧れが時間をかけて本物になったのか、最初からずっと本物だから変わらなかったのか。確かめる方法なんてない。


「変わったとしても本物はあるよ」


 揺るぎない確信を持って、若村君はそう言った。若村君はいつも私の考えの及ばない答えを示してくる。


「藤嶋さんは俺のことが好きだったでしょう?」

「うん」


 迷いなく私はうなずいた。若村君のことは今だってとても好きだ。ずっと春之を想っているのに不思議だけど、この気持ちだって嘘ではない。


「俺は藤嶋さんのことを忘れないけど、それでもいつかこの気持ちは変わっていくと思う。他の人を好きになれると思う。だけど、だからって藤嶋さんを好きだった気持ちは本物だよ。他に好きな人がいたって、変わってしまったって、俺と藤嶋さんの恋も本物なんだ」


 変わらないものだけを本物だと言うのなら、若村君の気持ちを否定してしまうのだ。若村君が私に向けてくれた気持ちは、今だって真っ直ぐなのに。


「変わらなくても、それは単なる執着かもしれないし。あ、ごめん。これはただの負け惜しみ」


 ちょっと恥ずかしそうに笑う若村君の笑顔はとても晴れやかだった。晴れやかなものは、やっぱり悲しい。

 青空と若村君の笑顔を泣きたい気持ちで見ていたら、今までにないくらい強い力でぎゅうっと抱きしめられた。


「あい」


 全身に、声に、気持ちを込めて若村君はそう呼んでくれた。


「本当はずっと呼んでみたかったんだ」


 涙がこぼれてしまって、返事はできなかった。もう明日は着ないんだからいいかなって、見慣れた制服の堅い生地に目を押しつける。


「俺ではあいの初恋に敵わなかったな」


 顔をうずめたまま、私は必死で首を横に振った。

 短い間だったけど、私は確かに幸せだった。私の地盤が脆かっただけ。何の憂いもなく、迷いもなく、心からこの人を好きになりたかった。もし自分の意志で相手を選べるなら、私は春之ではなく、この人を選びたい。だけど、これは口にするべきではない。この人に言うべきなのはそんなことじゃなく、謝罪でもなく、


けい君、ありがとう」


 応えるように、恵君の手が私の頭をなでる。


「応援はしたくないけど、でもあいの幸せは願ってる……って思える人でありたいとは思う」


 素直な葛藤の言葉がおかしくて、涙は止まらないのに笑えてしまった。


「私も誰よりも恵君の幸せを願ってる」


 自分自身よりも、春之よりも、幸せになってほしいと思う。心から思う。

 身体が離れる気配がして、慌てて涙を拭いた。本当は声をあげて泣きたかった。でも私が泣いてはいけないと思ったから。

 恵君は学校の廊下で初めて見たときのようににっこりと笑った。そして、頬に残る涙の名残を指で拭いてくれた。


「あい、頑張れ」


 私は黙ったまま、何度も何度もうなずいた。


 よく晴れた空を見ると紗英さんを思い出して悲しくなるように、雨の日には恵君を思い出す。出会ってから別れるまで一年。たくさんの雨の日とたった一度のデートと、何気ない毎日。春之を好きな私の中にも、恵君はずっと残る“本物”だ。


 私の合格が決まった数日後、恵君も無事合格したと人づてに聞いた。

「意味のないものなんかない」と彼は言った。「いい意味とは限らないけど」と付け足して。だけど私との恋を彼はきっと「いい意味」にしてくれる。そういう人だ。

 彼は今、どこかで素敵な大人になっているだろう。







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