7 かざむき
十歳違いの兄が入籍した。受験という大義名分を振りかざして、長いこと本家を訪れていなかった私も、結婚のご報告を兼ねてお墓参りもするというので、半強制的に引っ張って行かれた。
お彼岸も過ぎた十月半ば。いつも騒がしい印象のある本家も、その日は伯母さんしかおらず、ひっそりとしていた。
「
伯母さんは抱きつかんばかりの笑顔で兄を歓迎した。
「ありがとうございます。すっかりご無沙汰してしまって申し訳ありません」
兄は祖母の三回忌法要以来、実に八年ぶりの訪問だった。
「式は来年?」
「はい。あいの受験が終わった四月に。お忙しいでしょうけど出席していただけますか?」
「もちろん行くわよぉ。もう箪笥の奥から着物取り出して選んでたところなんだから。あいちゃんも頑張って合格しないとね」
「はい。頑張ります」
水を差すつもりは全然ないのだけれど、我が家はどうしてもお祝い自粛ムードとなる。不合格になって親戚一同に憐れまれるのは、私としても避けたい。
兄の結婚というビッグニュースのおかげで話題は尽きなかった。社会人である兄もそつなく会話に加わる中、やはり私だけが“子ども”の枠に取り残されている。それも一時だけの我慢だと、ちびちびウーロン茶を飲んでいたら、急に伯母さんが声のトーンを落とした。
「こんなおめでたいときに持ち出す話題じゃないんだけどね、春之が離婚したのは知ってた?」
コップを落とさなかったのは、小さいけれど奇跡だったと思う。あの瞬間私は聴覚以外のすべての感覚を失っていた。
「え!? 知らない、聞いてない! いつのこと?」
私の思いはそっくり母が代弁してくれた。
「私もついこの前聞いたんだけど、もう二年くらい前に離婚してたらしいの。そういえばその辺りから紗英さんも来なくなってたのよね」
「あらー、またどうして?」
「それがはっきりしないんだけど、別に浮気とか借金とか、そういうどちらかに原因があって、ってわけじゃないみたい。性格の不一致かしら?」
「二人とも穏やかそうなのにねぇ。子どもができなかったことも原因のひとつかしら?」
「六年? 七年? それだけ一緒にいればいろいろあるかもしれないわね」
春之が離婚した。私の恋を決定的にした紗英さんと離婚した。
春之が結婚したときはとてもショックだったのに、離婚したからといって単純に喜べるわけではない。それでも間違った積み上げ方をした私の恋を、根底から覆すだけの威力があった。砂で作った滑り台は、どんなに力を込めて固めてもバケツの水一杯で簡単に崩れてしまうのだ。
春之は離婚のことを教えてくれなかった。結婚のことだって言ってくれなかった。そもそも人生の重大事を語るような関係ではない。大した話などしたことがない。連絡先も知らない。春之のことなんてほとんど何も知らない。何も知らないのに、私の気持ちは春之にしか向かない。
恋は『落ちる』と言う。それは「コントロールできない」という意味の他に、「絶望の淵に落ちる」という意味もあるかもしれない。
恋は誰に教えられるわけでもなく、何かや誰かと比べるわけでもなく、間違いようもなくそこに存在するものなのだ。どんなにそこから抜け出したいと願っても、傷ついて傷つけても、どうすることもできない絶望。
生まれてすぐに春之の色に染まってしまった私は、もう上から何色をのせても春之色にしかなれないのだろうか。
今年私は十八歳になった。十八歳といえば、さまざまなことを許される年齢だ。今私が春之に恋をしても、許されるのではないだろうか。許されるとして、私はどうするのだろう。どうしたいのだろう。
雨が降って急に風向きが変わるように、今までなかった選択肢は、私の世界の色を変えた。
◇
「最近ぼーっとしてるね」
若村君の声ではっとしたのだから、今もぼーっとしていたのだろう。
「あ、うん。もう少しで雪が降るなーって思って」
穏やかに晴れる日が減り、雨が多くなってきた。このまま気温が下がると雪に変わる。
相変わらず雨の日だけ、私は若村君と一緒に帰る。雪が降ればバス通学となるから、これからは一緒に帰る時間が増える。でも、もうそんな時間はないはずなのだ。例え若村君にとって、私と同じ大学は楽に合格圏内だとしても。
「ねえ、若村君」
いつもの曲がり角が見えて、私は思い切って声を掛けた。
「もう受験も近いから、こうして歩いて帰るのは今日が最後にしようよ」
一番言わなければいけないことは他にある。でも私は差し障りのないものしか口にできなかった。数歩先で振り返った若村君は無表情でじっと私を見た。
「俺と一緒にいたくない?」
「そうじゃない!」
そうじゃない。若村君と「一緒にいたくない」のではない。もう「一緒にいられない」だ。
「これから雪が降ったら毎日バス通学になるの。もう受験が近いのに一緒に帰るのは、お互いにちょっと負担だと思うから」
私は逃げた。その証拠に、若村君の顔が見られない。彼があの真っ直ぐな目で私を見ていることがわかっているから、今あの目は見られない。
「俺はそれでも構わないけど」
やっぱりちゃんと言わなければ。若村君の時間をもらえないって。志望校を元に戻して欲しいって。別れようって言わなければ。
私は多分相当苦しそうな顔をしていたのだと思う。優しい若村君は深いため息ひとつで許してくれた。
「じゃあ、週に一回金曜日だけ一緒に帰ろう。それならいい?」
コクンと私はうなずいた。そんな優しい提案を断れるほど、私は強くない。
下を向いた私の視界に若村君のくたびれたスニーカーが入ってきた。頬に添えられた冷たい手に導かれて顔を上げると、ほとんど同時に唇が重なった。
「じゃあ、また明日」
どこか諦めたような顔に見送られて、私は家へ続く曲がり角を曲がった。
若村君のキスがどうしようもなく悲しくなったのも、もうずっとわかっていた。こんな関係は彼に対しても失礼だと思う。
もしこれが一年前なら、別れを切り出すのももう少し楽だったのに。もし今別れたら、受験に影響しないだろうか。若村君がどんなにしっかりした人でも、この時期に動揺を与えるべきではないのでは。だけどこのまま付き合って同じ大学に進んでも、私は若村君とはいられない。それよりなら、はっきり別れた方がいい。でも、言うのが怖い。傷つけるのが怖いし、それで嫌われるのも怖い。
猶予はないはずなのに、私はいつまでもグズグズと切り出せずにいる。若村君のためではなく、私が弱いせいだ。
どこから間違っていたのか。遡ると私が生まれたときまで戻ってしまう。だから過去を振り返っても無駄なのだ。
そんな私の態度を、若村君はわかっていた。二学期最後の金曜日「志望校を元に戻す」と彼は言った。
「受験科目に変更はないけどレベルは上がるから、ちょっと無理しないといけないんだ」
「若村君なら大丈夫だよ」
「クリスマスもお正月も、何もできなくてごめんね」
「ううん。むしろこれまで時間を作ってくれてありがとう」
私はホッとしていた。若村君が志望校を戻したことにも、彼の時間を奪わなくてよくなることにも。結局、若村君に全部言わせてしまった。
ホッとしたことが伝わらないようにマフラーを引き上げて顔を隠す。そのマフラーを、若村君の指先が下げた。
結局お互いにあまり上達しなかったキス。その日はいつもよりずっとずっと長かった。唇が離れてもしばらく見つめ合ったまま動かない。きっとこれが最後。
私が若村君から手を離そうとすると、それを拒むようにもう一度強く引き寄せられた。ぶつかるように再びキスをした若村君は、
「また、学校で」
と言い残して走り去った。溶けてみぞれ状になった雪が、制服の裾を汚していた。
もう誰の姿もないただの道路に、若村君のスニーカーの跡が残っている。撥水の悪くなった傘に、雪が降りて張り付く。それがずっしりと重く感じるまで、私はしばらくその足跡を見ていた。
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