6 あめ
よく見る悪夢のひとつに「英語の予習を忘れる」というのがある。英語の授業が始まるのに、私は真っ白な教科書を震えながら持っている。単語の意味さえわかれば何とか誤魔化せるけど、ひとつとして調べていない。頭からやっていたのでは到底間に合わないので、他の人が当たっている間に少し先の英文を訳そうと必死で辞書をめくる。そういう夢だ。
何年経っても私を追いつめるほど、高校時代は予習に追われる日々だった。テスト前ともなれば詰め込んだ単語や公式を頭からこぼさないようにそっと自転車に乗る。
だから成績優秀な若村君と親しくなることは、申し訳ない言い方だがメリットが大きかった。
「文章が長くなったからって動揺しないで、順番に頭から訳していって」
「頭から……えーっと『私は、考える、that以下のように』えーっと」
「そうそう。それで ” と ” の間は具体的な説明だから後回しにして大丈夫。『私はthat以下のように考える』でthatの中身は?」
中学校まではなんてことなかった英語。あのペースでゆっくり進めば私でもなんとかなったと思う。けれどそのスピードは私の予想をはるかに超えていた。
一年生の最初の授業、多少多めに、と思って五ページ予習していって、授業は二十ページ進んだ。スタートからつまずいた英語は、二年経ってその背中も見えなくなりつつある。
「英語は暗記だから、とりあえず構文は丸暗記しないとね」
「ええーー、無理だよー」
「できるできる。時間かかっても、絶対成果上がるから、信じてやってみて」
私と付き合ったからといって、若村君が塾を休んだり掃除をサボったりすることはなかったけれど、塾までの時間や休みの日に教室や図書館で勉強を教えてくれる。それでも自分の宿題や勉強はしっかりやってくるのだから、私とは時間の密度が違う。
それで、梅雨明け宣言はいつされたのだろうか? 「前からずっと夏でしたよ」と言うかのように、シレッと毎日暑い。名目だけの“夏休み”が始まり、私たちはほぼ毎日講習を受けて、その後教室で若村君からこうして勉強を教わっていた。
「はあ~、なんでこんなに違うんだろう? 若村君、私に構っていなければもっともっといい大学目指せるんじゃない?」
「教えながら勉強してるよ。藤嶋さんと会う時間を削ったからって、そんなに伸びないと思う。むしろ息が詰まる」
付き合ってからも若村君の態度にあまり変化はない。学校の宿題はすでに終え、サラサラと塾の課題をこなしている今、彼は息抜きまでしているという。
「受験のために勉強はしないといけないけど、終わったらほとんど必要ない知識ばっかりでしょう。意味ないなーって時々虚しくならない?」
「うーん……ならないかな」
「若村君ならそう言うと思った」
英語だって話せるようになるわけではないし、数学や化学もほとんど使わない。古文なんて知らなくたって絶対困らない。ただひたすら受験のためだけの勉強に毎日毎日必死なんて、私は時々ふっと虚しくなる。
「意味のないことなんかないと思う」
「国語と、数学じゃなくて算数は使うよね。あと地理は役立つ。でもそれ以外はなくても生きられると思わない?」
「うん、思う。だけど必要なこと以外何も持たずに生きるって、むしろ茨の道じゃないかな? 切り捨てたものが本当に必要じゃないって判断できる?」
今後歴代天皇の名前が必要になるとは思わないけれど、未来は不確定。現時点で人生に必要なすべてを決定はできない。
「意味のないことなんてない。それが必ずしもいい意味とは限らないけどね」
「じゃあ今勉強してることにも意味はあるの?」
若村君はペンを止め、少し考えてから答えた。
「将来もっと難しい問題にたくさんぶつかると思うんだ。その時どんな知識や考え方が役立つかわからない。いろんな知識や経験を積んで、考え方の基盤を作ってるんだと思う。そのための今じゃないかな、きっと」
「へえ~!」
若村君の言っていることが正しいかどうかわからない。でも、私が「嫌だ~。無駄だ~」ってただぼんやり思ってることに対して、自分なりの答えを持っていることに、深く感心した。
「じゃあバスケットボール選手になるわけでもないのにバスケットをする意味は?」
「それは単純に好きだからだよ」
カラッと若村君は笑った。
「無駄を本当に省くんだったら、恋愛なんてしないで出席番号順に結婚させたらいいじゃない。種の保存にはそれで十分だもん。無駄や余分に思えるものの中に、大事なものが含まれてると思わない?」
「思う」
無駄を省いたら、私の人生ほとんど残らない。恋をすることと、エジプトの歴代王朝を暗記することを、同じラインには乗せられないけど。
若村君はプラス思考というより、前向きな人なのだろう。苦しいことを苦しいと受け止めながらも顔を上げられるような。
私はこの人のことがちゃんと好きだな、と思った。
ノートに向かう若村君を幸せな気持ちで見ていたら、「あ!」と言って顔を上げるから真正面で目が合った。
「うわ! びっくりした! なに?」
「やっぱり出席番号順でいいかも」
「何が?」
「結婚」
妙ににこにことそんなことを言うので、クラス名簿を思い浮かべて、赤面した。
「俺と藤嶋さんだよ」
乙女な発想する若村君は、嬉しそうに笑う。
「早いよ!」
「わかってる。まずは大学に合格しないとね」
『まずは』という小さな単語が、桃の産毛のようにチリッと刺さった。大学に合格して、卒業して、就職して……その先にも私と若村君の未来はつながっているのだろうか。
未来を見るように顔を上げると、濃いコントラストの空が見えた。窓が全開になっていたのに、気付かないほどの無風だ。
暑さで常にぼんやりした頭では、明日のことさえ想像できなかった。
◇
若村君の家と私の家は、一緒に帰ることなんてできないくらい方向が違う。私は基本的に自転車通学だけど、若村君はそれも難しいほど遠くて、毎日バスを利用している。だから雨が降って私がバス通学のときだけ、一緒に帰ることにしていた。
若村君の塾がなくて雨が降った日は、一緒に勉強してそのまま私の家まで歩いて帰る。若村君はそこからバスで帰るのだ。
私の家まで一時間弱。若村君はそこからバスでさらに五十分。一緒に帰るのは楽しくて私は嬉しいけれど、さすがに申し訳ない気持ちになる。時間的にかなりロスするのに、若村君はやんわりと譲らない。
「いつもごめんね」
家の前までだと恥ずかしくて、ひとつ手前の曲がり角でいつも別れる。
「好きでやってることだから謝らないでよ。それとも迷惑?」
「迷惑なんかじゃない! 私は嬉しいよ」
受験がなければもっと素直に喜べた。でも今の私たちにとって、時は金よりずっと貴重なのだ。
いつもはすぐに別れるのに、若村君はなんだか物言いたげな視線を送ってくる。私は特に促すことをせず、彼の気持ちが整うのをじっと待った。
「俺、志望校変えようと思う」
若村君は隣県の国立を志望している。そこもかなりの難関だけど、私は彼ならもっと上のレベルも狙えると思っている。
「どこに?」
「藤嶋さんと一緒のところ」
「え! だって……」
私が志望しているのは地元の国立。若村君のレベルから言えば数段落ちる。若村君にメリットがある選択ではないから、それはつまり私に合わせるということだった。
「ダメだよ! そんなことしないで」
「どうして?」
「だってもったいないじゃない! 若村君ならもっと上だって目指せるのに、そんな人生かけるような大事なこと━━━━━」
「俺は人生をかけて恋をしてる」
うろたえる私の言葉を若村君はきっぱりと遮った。私のピンクの水玉模様の傘と、若村君の紺に一本白いラインの入った傘の分、少し距離があるのに、それをものともしない、有無を言わせぬ強い視線だった。
そこまで想ってもらえる喜びと、そんなことでという怒りと、私のせいでという申し訳なさで、感情は私の容量を完全にオーバーした。どういう表情をしているのか、どんな言葉をかけるべきか、どう受け取ったらいいのか、まったくわからない。
だいぶ小降りになってきた空を少し見上げて、若村君は自分の傘を閉じた。そして大きく一歩踏み出して、ただ黙って立っている私の傘に入る。私の手ごと握って少しだけ傘を下げると、その傘に押されるように若村君の顔が近づいてきた。その動作ひとつひとつをテレビCMでも見るようにぼんやり眺めていたけれど、唇がくっつく瞬間になって後ずさってしまった。
「痛っ!」
傘と一緒に逃げたせいで、骨の一部が若村君の頭に当たってしまった。
「ご、ごめん!」
慌てて当たった部分を見上げると、若村君の真っ黒な髪に小さな雨粒がキラキラと輝いていた。そしてそれに負けないくらいキラキラした目は、ちょっと傘が当たったくらいでは変わっていない。前向きで曇りのない、真っ直ぐな人柄そのままの目だった。
大丈夫。私はこの人が好きだ。
「ごめんね。いきなりだったからびっくりしただけ。━━━━━いいよ」
今度は私の方から若村君を傘の中に入れた。
確かめたことはないけれど、きっと若村君も初めてだったと思う。ただ唇をくっつけるだけなのに、お互いにひどくぎこちなかった。
少し離れて、それでも間近に見る若村君の目は濡れたように潤んでいて、さっきよりも輝いていた。
「夏休みの間にどっか行かない?」
「私はいいけど、いいの?」
「一日くらい勉強じゃなくて、ただ一緒にいたい」
「……うん」
「じゃあ、帰るから」
いつもは私を見送るのに、そう言って若村君は背を向けた。少しぼーっとして、傘も差さないままで走っていく。角を曲がるときに振り返って私を見ると、とても幸せそうににっこりと笑った。
若村君の姿が見えなくなって、私はようやく深く息をついた。やっと心臓のドキドキが自覚できるようになり、今更ながら顔も赤くなる。そっと触れた唇は、少し湿ってやわらかく、まるで心がそこにあるかのように思えた。
若村君のあんな顔を初めて見た。傘を伝って落ちる雨粒がきらめきを増す。
多分私は今、幸せなのだと思う。
◇
一ヶ月間の夏休みのうち、最初の十日間と最後の十日間は学校の講習がある。お盆はさすがに休みだけど、若村君は塾だった。だから後期の講習が始まる前日の日曜日、私たちはようやくふたりで出かけることができた。
高校生である私たちに、そんなにたくさんの選択肢はない。結局電車で三十分かけて、幼少期から事あるごとに行った馴染みの水族館に行くことにした。
ノースリーブのワンピースで来てしまったことを後悔するほど、その日は朝から容赦なく晴れた。電車が大きく揺れるたび、私の腕に若村君のシャツの袖が当たってくすぐったい。同じ市内なのに、いつもの行動範囲から出る高揚感が、そのくすぐったさを際立たせるようだった。
空はとても濃い青色をしているけれど、民家と民家の間から時々見える海は、それともまた違う深い青だった。波しぶきの間で、時折太陽光がキラリと光る。もう少しちゃんと見たいな、ともどかしく思う頃に、電車は水族館の最寄り駅に着いた。
県内唯一の水族館なので、小学校でも中学校でも、もちろん家族でも何度も来たことがある。大きくリニューアルされるようなこともなく、懐かしさと同時に古さも感じる場所だ。それでもさすがに夏休みの日曜日。駐車場がいっぱいになるくらいとても混んでいた。
中身は昔見たものとさほど変わっておらず、しかも人混みでなかなかいい位置では見られない。間違いなく、過去最悪の環境だった。だけど、
「私の中でものすごくハードルを下げてたせいか、思ったよりずっときれい」
「うん」
これは私自身とても意外だった。大きな水槽を魚が泳ぐ、それだけでもう十分楽しかった。ガラスに張り付くようにしてエイが上っていく。小さなサメがビュンビュン泳ぐ。岩と岩の間を、カメがゆったりと抜ける。
隣を見ると、若村君も人の頭越しに真剣な表情で水槽を見ていた。
「若村君、説明読まなくていい?」
説明は水槽のそばなので、人混みを掻き分けて行かなければならない。ちゃんと読んで知識を吸収するタイプだと思っていたけれど、若村君はとても嫌そうに顔をしかめる。
「あとで感想文でも書かせるつもり?」
「いや、そういう意味じゃないんだけど」
「今はただ純粋にこの空間を楽しみたいよ」
納得して私も水槽に目を戻したのだけど、分厚いガラスと暗い照明のせいでだんだん頭がクラクラしてきた。
「ごめん、ちょっとここ出るね」
順路に従って移動しようとするも、私が曖昧にフラフラしていたせいで次々に人にぶつかってしまう。「すみません」を繰り返しながら進んでいくと、駆け寄ってきた若村君が私の手を握って誘導してくれた。あれからキスは何度もしたのに、手をつなぐのは初めてだった。
若村君の手は骨ばって冷たい。春之のものとは違う、と一瞬思ったのを急いで掻き消した。小さな罪悪感で少し大胆になった私は、自分から若村君の指に指を絡ませる。
「ごめん。ありがとう」
少し顔を赤らめる若村君に、あえて笑顔で声をかけた。若村君の手が力を込めて私の手を握る。きっといつか見たカップルの手のように指先が白くなっているに違いない。少し痛いくらいのその力が、むしろ心地よかった。
ただ水槽を見る分にはそれほど困らなかったけど、昼食を取るのはとても困難だった。小さな子を抱えた家族連れがほとんどの席を埋めているフードコート。たった二人とはいえ空席は見つかりそうもない。
「どうする?」
さすがに若村君も困って、そう聞いてきた。
「ここの隣って海だよね? ホットドッグでもテイクアウトしてそこで食べようか? ……多分、暑いとは思うけど」
「俺はそれがいいと思う。藤嶋さんは暑いのは嫌?」
「嫌だけど、海は見たいな」
他に選びようもなく海に面したデッキに出ると、とても運がいいことに建物で日陰になったベンチが空いていた。暑いからデッキは敬遠したのかもしれない。
気温はとても高いのに、日陰にいると海からの風もあって思ったよりもずっと過ごしやすかった。
「なんの魚が好き?」
ウインナーとレタスだけのホットドッグをあっさり食べ終わった若村君が、ナプキンで手を拭きながら聞いてきた。
「食べる方?」
「食べる方は白身魚が好きなんでしょ?」
くつくつと若村君は笑った。マダイ、クロソイ、カサゴ、カレイなどの水槽の前で『おいしい魚ばっかり』とつぶやいて笑われたばかりだった。
「見る方だとね、ピラニアがかわいかった。お腹がオレンジできれいだったよね。若村君は?」
「あの、白いイカの群れ」
「あ! それもきれいだった。帰りにもう一回見たいな」
「群れで泳ぐのが好きなんだ。マイワシとか」
「マイワシ?」
地味だな、という心の声がしっかり滲み出た。それに気づいただろうに、若村君は平然としている。
「魚群がすごくきれいだよ。キラキラして。隣県の大きな水族館なら見られるよ」
テレビで紹介されるような都会の水族館に、そういうのがあるのは知っている。群れのショーをしているところもあるらしい。
「合格したら一緒に行こう」
明日の約束をするように、サラッと若村君は言う。
「まずは合格しないとね」
未来を語る若村君に、私はさりげなく現実をつきつけた。未来が怖くて。
口いっぱいにホットドッグを頬張って咀嚼しながら視線を上げると、遮るものが何もないくっきりとした青空が広がっていた。
「どうかした?」
声をかけられて、私はホットドッグを飲み込むのすら忘れて空を見ていたことに気づいた。少し焦って飲み下す。
「なんでもないよ」
「辛そうだったよ」
知らず、眉間に皺が寄っていた。意識的に作った笑顔を若村君に向けて「大丈夫」と答える。
若村君と一緒に海を眺めながらお昼ご飯を食べている。体調もいいし、日陰で心地よく何も不満なんてない。
ホットドッグを食べ進めようと思うけれど、納得していない若村君の視線が気になる。
「あまりに晴れた空は、なんだか悲しくなるの」
うまい言い訳が出て来ず、本音がこぼれた。若村君はじっと私を見て、「そう」とだけ言って空に視線を移した。その横顔にさっきまでの楽しそうな表情はない。
雨が降ればいいのに、と雲ひとつない空を見て思う。雨が降れば、悲しい気持ちにならなくて済むのに。
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