はぐれ妖と法一

足立歩

第1話

 闇夜に響く擦り半鐘だけが、長屋の薄い戸を突きぬける。


 跳ね起きて表に飛び出ると、隣近所のありとあらゆる人々が一丁もしない所で燃え盛る炎を見上げていた。どうやら俺は、野次馬としては出遅れたらしい。


 あの辺りには確か、紙問屋の扇屋があったはずだ。紙問屋に火の手などあるわけもなく、ましてや今は真夏だ。消し損ねた火鉢に布団がかかったわけでもないだろう。それに、この夏の不審火はこれに限ったことではなく、今度で五度目になる。


タバコか、点け火か。なんにしても、俺にはこの火事の正体がつかめているし、点けたモノの正体も大方見当は付いている。


そして知っていながらも、俺なんかには手が着けられないことも十二分に分かっているつもりだ。


どうやらこの大火事は今しがた起きたばかりのようだった。俺が出てきてからも、眼脂で張り付いた目蓋をこすりながら、裾の寄れた寝間着のままヨタヨタと戸外へ出る者も少なくない。


八百八町の闇夜を赤々と照らす炎は、ちょうど夜が明けるまで続いた……。


                   ○


結局あれから一睡もできずに、寝がえりを打っていたら枕元を朝日が照らしていた。


半鐘の音が聞こえなくなってからしばらく経ちいつも通りのむ音が続いてからも、脳裡にずっとあの赤が張り付いて離れない。


重い頭を持ち上げて、布団から這い出る水瓶から水を汲み全身を拭う。なかなかどうして、朝のこのときだけはどれだけ眠くても眼が覚めてしまうから誤解してしまう。


ぱっちりと起きてしまった顔とは裏腹に、後頭部はずっしりと重たい。


 下あごのあたりを撫でると、ザラリとした嫌な感触。だいぶ前から他人よりも肌や耳が敏感になったせいで、昨日剃ったばかりの髭さえかなり伸びたように感じてしまう。


 おてんとうさまが完全に昇ってしまっては、どうにも寝られない。普段から朝飯も作らないので、家内には食べられるものなど何もない。

 

 仕方なしに着流しに袖を通し角帯を締め、草履をつっかける。袂には幾らも入っていない財布が入っているだけである。


心張り棒を外す。ドブ板や厠から、路地中に立ち込める、饐えた臭いとどこかの味噌汁(たぶんアサリか豆腐だろう)のの匂い。それに交じって、煙と煤と恐らくは人間の燃えた臭い。それらが一辺になって、夏風とは違う、嫌に生温く、少し脂っぽい風ともに俺の全身を包み込んだ。


 路地から通りとは反対、川沿いへ歩いていく。案の定、少しばかりの人だかりと甘酒売りが居た。


 財布から六文を取り出し何も言わずに突き出すと、向こうも嫌なお顔せずに一杯の甘酒を渡してきた。


 毎年のようにこの親父と顔を合わせているけれど、お互いに名前も知らない。親父にいたっては、俺の声すら聞いたことがないのではなかろうか。


 暑い甘酒をそっと口へと運ぶ。口周りもとなった今では、熱い物も冷やっこいものも構わずおっかなびっくりになってしまった。


 口、喉元、胃の腑へ落ちていく篤さを感じながら、昨晩火事のあった方の空を仰ぎ見る。もう一度そちらから風が吹いてきたとき臭ったのは、煤の臭いではなく獣の臭いだった。


 まさかと見渡してもそれにいぶかしんでいるような人は見当たらず、往来はいつも通りで、そこここに溜まっている町人たちの口は昨晩の火事について話しているようだった。


 甘酒へ口を運ぶと、恐ろしいまでの獣臭が移っていてとても飲めたものではない。


 伏し目がちになりながら路地へと戻り、親父が見えなくなったところでドブ板に甘酒を流した。そのすぐあとに三つ隣の婆さんが内水をした。ハッとして俺に謝ろうして、眉間にしわを寄せて顔をそらした。


 その時の口は何やらぶつぶつと動いていたが、俺は気にせに大通りの木戸へと歩いていく。


 井戸端で洗濯をする女たちも俺が通れば皆眼を伏せる。


 いつも通りの静かな朝。いまだに鼻の奥に残る嫌なものを感じながら


「今度はどこが燃えるのだろうか。またどこかの大店か、それとも村さ来か、㐂八か」


 そんなことを思う。


 五鉄への道すがら、朝の暑さも忘れて考えていた。


昨今の火事の原因は火鼠なのだろうか。

大元にアイツらが居るときはいつもそうだ。十年も前からずっとそうだ。


 アイツに音を奪われてから、俺に耳に何かが聞こえる

 そんな時は、アイツらが何かをしでかした時なのだから……。

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