信じられるわけがない。趣味の悪いいたずらに決まっている。田中は男の胸倉を掴もうと手を伸ばしたが、男の服に手が触れそうになった瞬間、電撃のような一瞬の強い痛みが走ってわめいた。


「おっかない人だあ……。信じられないのはわかります、死を感じることがなかったですからね。だからそういう人のために脈を止めています。実感していただこうと。自分のを確かめてみてください」


 痛みから逃れた田中が男をばかにするつもりで手首を握り、自分の脈を確かめてみた。するとどういうことか、男の言うとおりに脈がどこにもなかった。握り方の問題かと思って色々と確かめてみるもやはりない。ならば今度は胸に手を当ててみる。ない。どこを押さえてみてもあるはずのものがなかった。


 冷や汗が出そうな心境のはずだが、それも出ない。田中は一気に心細くなって震えるしかなくなった。


「うそだうそだ、うそだろ!?」


 田中はいても立ってもいられなくなって、部屋から出ようとする。奥にあるふすまを開けてみようとするがどんなに力と体重を込めても開かず、煌びやかな壁を壊すつもりで蹴ったり叩いたりしてもびくともせず、男が降りてきたポールを登ってみようとするがそもそも触れない。色々とやってみたがとにかく田中はこの部屋から出ることができない状況であることを嫌でも理解させられてしまったのだ。


「なんで俺が! なんで!」

「では話を始めますね」


 うずくまってばんばんと石造りの床を叩く田中の気持ちを無視して、男は本題に入っていた。


「死んでしまったらすべてが終わり。生き物としてそれはその通りなのですが、これから次へと進むことになっております。ざっくり言うと天国と地獄というものですね。それはわかりますよね?」


 天国と地獄。その二つの世界が出されて、田中を叩いていた手を止めて顔を上げた。


「あるのかそういうの?」

「あります」


 立ち上がって田中は男に詰め寄った。


「天国だよな!? 俺は誰も殺したことはないし、そもそも捕まるような悪いことをしたこともない。間違いなく無実だ。あんたらなんでもわかるんだろう? ならわかってるよな?」


 嘘はついていない。確かに田中は生前人を殺したこともなければ、逮捕されるようなことをしたこともない。社会全体からすれば良い人と言っても問題はない。とにかく多くの人たちと同じように普通で、大人しく生きてきたのだ。


「地獄行きです」

「は?」


 信じ切っていた道があっさりと閉ざされた。


「実はですね、あなたたちの考えている罪と、ここでの罪はまったく違うんですよ。例えばですね、お酒を飲んだことはありますか?」


 田中は成人済みだ。それに会社の付き合いで飲むことだって多い。地獄行きという衝撃を逃がせられないままこくりと小さく頷く。


「それが罪です」

「は?」


 もう何が何だか田中にはわからない。


「そんなの全員飲むだろうがよ!」


「はい、そうですね。だからほぼ全員罪があって、地獄行きになるんですよ。他にも嘘をつくこと、怒り憎しむこと、お金や物に対する執着、間違った考えなどなど。もちろん殺生も罪ですが、まあ他のがすでにあるのでどちらにせよという形です」


 混乱で頭が揺さぶられてくると湧き上がってくるのが怒りだ。わなわなと固く握った拳が震えて全身へと伝わっていく。


「じゃあどうやってその天国に行けるんだよ!? あるだけか!?」

「いいえちゃんと行く方法はあるんです。落ち着いてください」

「それを早く言えよ!」


 羽織を整え、眼鏡の位置も整える。男は言った。


「生きている人たちの祈りです」

「……祈り? 生きてるやつの?」


「はい。死んだ人はほぼ地獄に行くことが定められていますが、生きている人たちが祈りによって死んだ人を、天国へと行けるよう願うことによってそちらへ行けるようになっているのです。死んだ人は罪を償えないので、それを生きている人が代わりに償う、というような」


「なるほどそういうことか! 俺友達多いし、両親生きてるし兄弟いるし大丈夫だろう! びびらせやがって」


 ほっと一息吐く。熱くなっていた頭が冷え始める。

 ここで唐草模様の風呂敷の中から一冊の質素な和装本が出された。それの題には田中の名前が書かれている。男がぺらぺらと中に目を通していき、やがて唸りながら細い顎に指をあてる。


「んー、足りませんね」


 その一言が何を意味するか、田中は男の胸倉を掴もうとしたが、そうすると電撃のような痛みが走ることを忘れていて、見事にその衝撃と痛さにまたわめいた。


「もう一回よく見ろ!」

「何度も見て文字が変わるならそうしますけどね」


 息を乱しながら田中は男を睨んだ。男はそれに気づいているのか慣れているのか、特に反応を返さずに淡々と続けた。


「ですから足りないのです」

「てめえとにかく俺を地獄に行かせたいだけだろ!」


 そうではないと首を振る男だが、田中の興奮はもうおさまらない。


「そんな、ただありのままをご説明しているだけです」

「俺にはいろんなやつらがいるんだ! 色んなやつらがな!」


 煌びやかな部屋に似合わないどたどたとした足音が響く。田中がみっともなく床を踏みしめているのだ。あんまりにもひどい姿だが男は呆れることもなくただいつもの顔のまま眼鏡を整えた。


「けへへへへ」


 うすら寒くなる声が聞こえてきた。笑い声だ。それは田中の耳にもしっかりと入り、彼の動きを止めた。


 さっき男がそうしてきたように、天井へと続くポールから何かが降りてきた。田中が人だとすぐにわからなかったのは、あまりに真っ黒だったからだ。それは着ている学生服の色。床に降り立つと、大きな一重の目がぎょろりと現れた。


「あれまあ地獄行きなんですってね」


 言葉から大きく外れた調子だ。


「でも案外いいところだと思いますよ、どこでも住めば都ですから。名物料理の腐り汁とか意外にいけるし」

「お、お前は!」

宵来よいこです。覚えていてくれました?」


 覚えていた。死ぬ直前に出会っていた薄気味悪い少年だ。


「なんでお前が!」

「まあこういうことですよ」


 男から和装本を取り、田中のページを本人に見せつける。それを見た田中は息を飲み込んで黙りこくった。付き合いのあった人たちの名前が載っている。しかしその名前たちの下にはバツ印があった。これが意味するものを田中はわかってしまったのだ。


「名前は多いですけどねえ、祈ってくれなくてはあ縁でないですよねえ」

「なんで……なんで……」

「なんでって、あなた自身が切ったんでしょう?」


 宵来が指で本のとあるところを指さす。そこには田中がSNS上でやり取りをしていた人たちのアカウント名が載っていた。そしてそれらすべてにやはりバツ印が付けられてしまっていた。


「インターネット上でのお付き合いだからってそんな風にする人は、ここ以外でも知らぬ間に同じことをやっているものですねえ」

「そ、そんな……」


 跪いて田中は宵来にすがりついた。地獄がどんなところであるか想像はできている。いや、それ以上にひどい目にあってもおかしくはない。すぐそこに迫る苦痛から何としてでも逃れたかった。


「悪かった、さっきは悪かった。あんな態度とっちまって、挨拶も返さねえで、だから、だからお前ならなんとかできるんだろ……? 普通の子供とは違うからここに来れたんだろ? 心入れ替えるから何とか助けてくれよぉ」

「おーういーですねえ。ではざっとこれくらい」


 どこからか取り出した電卓に数字を打ち、その値を田中に見せる。


「一、十、百、六千円? 六千円でいいのか?」

「田中さんは運が良い。僕がいなければそのまま地獄に行くしかなかったんですから。けへへへへ」

「払う! 払う!」

「五千円札と千円札じゃダメですからね。あと小銭混ぜでも。千円札六枚でいただきます」


 財布を広げてみると、中には六千円が札でぴったりで入っていた。心底ほっとして、千円札六枚を宵来に渡した。受け取ると少年はまた「けへへ」と笑い、部屋の天井からの明かりに向けて千円札を掲げた。


「カードより現金ですよ、夏目漱石も嬉しそうだあ」


 満足したあと千円札を雑に懐にしまい、宵来は田中の肩に手を乗せた。


「もう安心したまえ。ボクが生きてた頃までご案内しますよ」

「何? 生き返れるのか?」

「帰ることができます」


 二人のやり取りの間に入ったのが当然地獄行きを伝えた男だ。真面目な彼がそんなことを許すはずがなかった。


「ちょっとちょっと、そんな勝手なこと……」

「まあまあいいじゃないですか。毎日いっぱい死ぬんですから、一人くらい帰ってきても」

「ですけどねえ」


 話が止まりそうなところで宵来が男に何か耳打ちした。すると先ほどの態度を一変し、男は田中が帰ることを認めるようになった。


「話はついたので、帰りましょうか」

「お、おう……」


 そう言うと、ポールが床と面している部分が、ポールを中心に人一人が通れるくらいの穴になった。宵来は説明をする。


「あのポールから下に降りて行ってください。すーっとです。すると帰れますよ」

「そ、そうか、わかった」


 ばたばたと慌てて田中はポールを握った。そして穴の奥にある光を見つける。その光は電気の明かりで、柔らかく田中の体を照らした。安心感があった。


「せっかく帰れるんですから、楽しんでくださいよ」

「ああ、ありがとう」


 すうっとポールに縋り付きながら降り始めた。適度に速度を調整しながら下の光の方へ降りていく。どんどんと暖かくなる感覚があった。体温が蘇ってきたのかもしれない。長く長く降りていけばついに。


 はっと気づけば見覚えのある光景が。暗い空だがぼやっとした街灯があちらこちらにあって道を照らしている。これは家からコンビニへと行く道。戻ってきたのだ。宵来は確かに田中を生きている頃に戻したのだ。


「や、やった」


 横断歩道の向こう側にコンビニが見える。すぐそこまで走っていきたかったが、まずスマホの画面をつける。SNSにログインし、ブロックしていった人たち全員のブロックを解除した。そして再び繋がりを作ろうとしてみるが、


「くっそ」


 すでに相手からはブロックされてしまって、何もできなくなっていた。田中の頭に血が上る。


「くっそが。何ブロックしてくれてんだよ!」


 しかしすぐに思いつく。


「まあいいか。お前らだって縁を切ったら地獄行き決定なんだからな。死んで後悔しろ」


 一度死んだ田中ならわかっていることだが、それ以外はわかっていない。たまらない優越感にひたる。縁を切れば切るほどに地獄から逃れられなくなるのだ。田中はこれから気をつけていけば天国に行けると信じていた。


「俺は行くぜ、絶対に」


 スマホをしまって横断歩道で待つ。歩行者信号は赤。車の往来が激しい。はねられてしまったあの時はどうだったか思い出そうとしてみるが、別にどうでもいいことなのですぐにやめた。


「ぱっと買ってぱっと帰ろ」


 風を切って車が目の前を走り続ける。田中はぼうっとその光景を眺め、待ち続ける。待っているのは田中一人。後ろを振り返ってみても誰もいない。宵来もだ。もしかするとすべて夢だったのかもしれない。


 車がまた一台通り過ぎた。そのすぐ後、黄から赤になる。


 歩行者信号が青に変わり、横断歩道を渡り始める。少し用心深く車が来ていないことを見、大丈夫だと安心すればそのまま渡り切ることができた。歩行者信号は間もなく赤、車は先ほど田中が歩いていた横断歩道のラインをためらいなく踏んでいく。


 コンビニの中はいつもの通りで、いつもの通りでカップ麺を買うことにした。あわせて飲みものも。ここで湯を入れて家に帰れば大体出来上がっている時間。いつも通りそうすることにした。


 お会計で財布を開いたとき、田中は気づく。札がまったくなく、小銭もほんのわずかしかないことに。川を渡るときに払った五百円、宵来に払った六千円。手持ちの金はほとんど使い切ってしまったのだ。


 慌てて店員に言って商品を下げた。レジにいた店員はぼうっとして返事をすることなく、田中のことも見ることなくするようにさせた。金は中のATMで下ろせる。いつも財布の中にキャッシュカードは入れてあるのでそれを使えばすぐに出てくる。


「え?」


 カードが機械に入り込んだが、ピーっという音だけがして画面にはこのカードは取り扱いできないと表示される。それは何度やっても同じだった。


「すいません! これ使えないんだけど!」


 呼ぶと店員が田中の方へ歩いてきた。こんな時に限って不具合などとイライラして、店員に何と言おうか考えていたのだったが、店員は田中のことを完全に無視して機械を触り始めた。


「おい! こら! おい!」


 怒鳴ってみるが店員はまったく反応しない。耳が悪いのかと思って店員の耳を掴んでみようとすると、手はそこに触れることはなかった。すっと通り過ぎてしまって空振りするはずがないのに空振りをした。


「カード?」


 店員が画面を操作して田中のキャッシュカードを手に取った。自分のものだと取り返そうとするがそれはやはりできなかった。店員は擦れて傷んだキャッシュカードを持っていき、落とし物として処理することにしたようだ。


「こら! 待てよこらぁ!」


 どうやってみても店員に触れることができなかった。すると次、手で持っていたはずのカップ麺と飲みものが床に落ちた。大きな音を立てればまた店員が寄ってくるも、田中は物を拾い上げることはできず、店員によって元の場所へと戻されてしまった。


 店員は首を傾げ、気味悪がっている。


「なんか誰も入ってないのに入ってきた音したり、気持ち悪いな……」

「どうしちまったんだ俺、俺……」


 もう一度カップ麺を手に取ろうとしてみた。できなかった。手はするりと通り過ぎて、田中はもう何も触れなくなってしまった。人にも気づかれず、何も影響を与えられず、それはすなわち死と何ら変わりない状態だ。


「どうなってんだよこれは! 生き返ったんじゃねえのかよ!?」


 自動ドアも反応しなくなった。田中は恐る恐るガラスでできたドアに手を伸ばす。思った通り手は閉まったままのドアを越えた。やけになってそのまま体も通り抜けて外へ出た。


「なんでだ! なんでだ!」


 半狂乱で車が走りぬけていく車道へと飛び出してしまう。車はかつての彼にしたようにはね飛ばすことはなく、減速することもなくそのままの勢いて体を過ぎていった。そのまま車道の真ん中で立ち止まり頭をかきむしる。その間にも車は何台も田中の体を抜けて風を切っていく。


 田中にはただ車のヘッドライトのまぶしさしかない。


「スマホ!」


 ポケットをまさぐる。スマホは握ることができた。取り出したタイミングで着信が来た。見覚えのない番号だが、他人から視認してもらえないという状態は受けるのに十分な理由になっていた。


「もしもし! 俺の声聞こえますか!?」

「はい、聞こえていますとも」


 老婆のものとも聞こえる特徴的な声がスピーカーから聞こえた。田中の頭にさらに熱が加えられて握っているスマホがみしみしと鳴こうかというくらいに力を込める。


「てめえこれはどういうことだよ!?」

「帰ってもらっただけですよ」

「生き返ってねえじゃねえか!」


「そんなことできるはずないじゃないですか。子供ですよボク。ボクはただ地獄は嫌だって言う田中さんのためにここに帰ってきてもらっただけで」

「ふざけんな!」


「おっかない人だあ。いいじゃないですか、地獄でもないし、これで人との縁も気にしないでいいんですから」

「どこだ!? どこにいんだよ!」

「すぐ前ですよ」


 意識を前へとやると、歩道に薄い色の髪の毛がぼうっと浮いていた。烏色のブレザー学生服の袖から出ている手には、片方はスマホで、片方は紫煙を上げる棒。向こうも田中のことをぎょろりとした目で見ていて、口を小さく開けて息を多くして、


「けへへへへ……」


 棒を口にくわえると、何かを取り出して手を振った。それは千円札六枚と五百円玉だった。


「一箱ならずカートンまで。毎度ありー」


 捕まえて痛めつけてやるということだけで宵来に向かって駆け出す。相手が少年だろうと関係ない。とにかくずたぼろにしてしまわないと気が済まない。腕を折り鼻も折り歯も折って土下座で謝らせる。それだけだ。


「さいなら」


 それも叶いはしなかった。田中が宵来のいた歩道に足をつけると、すでに彼はもうどこにもいなくなっていた。笑い声だけが嫌に響き、やがてそれも街の音にかき消された。

 膝が折れ、田中は空を見上げて動けなくなった。そんな様子の彼を誰も、誰も気づくことはなかった。

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縁を切って気軽に歩こう 武石こう @takeishikou

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