謝れない人

突然の事だった。


「お前みたいなやつは大嫌いなんだ!! 傷ついた……?でも本当だから」


突然人が変わったように僕を怒鳴ったのは、20歳も年上の元会社経営者。


東京の病院の寮に住み、苦学生をしていた頃。向かいの部屋に白木さんというちょっと変わった人が住んでいた。どこが変わっていたかって、趣味のカメラと自分の故郷の話意外一切しない人だった。人が何を言おうが自分の話題のみを話す人だ。


はっきり言って仲良くしたくなかった。でも毎日のように4畳ほどの狭い寮の部屋を訪ねてくる彼と、そうそう関係を崩すわけにいかなかった。騒いでやかましい別の住民の部屋のドアを、「うるせい!」と思い切り蹴るような、感情的になると手をつけられない人だった。空手をしていたからって許される事ではなかろう。寮の住民から嫌われていた。「静かにして貰えないか」の一言が言えない。話し合いができない人だから。


その彼に紹介されて、仕方なく知り合いになったのが、僕を怒鳴った池間さん。


類は友を呼ぶ。普段穏やかそう、でも感情的になりやすい二人。こういうタイプは予期していない時に気分で人を怒鳴る。苦手だ。

腹の虫の居所が悪かったのか、あるいは彼なりの正義感なのか……。


当時、僕は若く未熟だったろう。だからもしかしたら失礼な態度でもとたったのか……。

でも、どんなに考えても僕は何も悪い事を言っていないし、やってもいない。


僕が悪くなかった事は、その後の池間さんの行動が物語る。


電話をしてきた池間さん。食事に誘われた。家族持ちなのに夜に1人で僕を食事に誘うなんて、普段なら考えられない。

 

『池間さんはきっと謝罪に来るんだ』


僕は育ちが良いわけではなかった。

自分勝手の父。無言のDVとでも言おうか、……無視と勝手な行動を繰り返すことで人を傷つけるタイプの人だった。母は病弱だったから、僕は常に気を遣い、子供の頃から本音を言った事が無かった。だから心が健全に育っているとは言えない。それは自分でも自覚していた。僕は思い切りデリケートに仕上がってしまった自分のメンタルを知っていた。

そのメンタルで、学業と仕事の両立に取り組んでいる。忙しく、疲労する毎日だ。


そんな中、20歳も年上の人から、意味もなく怒鳴られたから、精神のバランスを崩した。


仕事を失うか、学業を失うか、それとも両方失ってもおかしくない程、鬱になった。当時、学校を休めば単位に関係するし、仕事を休めばぎりぎりの貧乏生活さえ成り立たなくなるから、休養する時間も無い。


『池間さんに謝罪されれば、きっと気持ちの整理がつくから、鬱も緩和するだろう』そう思って会った。

夕食を食べながら、池間さんは思い切り気を使って僕を褒める。「そこが君のいいところだよ」なんて何度も言われた。だが、食事を終えると池間さんは「じゃあまたね」と去っていった。


『池間さんは「ごめんね」と言えない人なんだ』


彼は聖職者。そして元会社経営者。

怒鳴った時の迫力は凄い。他にも怒鳴られた犠牲者がいると聞く。


彼がわざわざ僕一人を訪ねて来るくらいだから、相当気持ちが入っていたのは分かった。だが僕の鬱は緩和しなかった。

「怒鳴ってごめんね、あれは間違っていたよ」の一言があったら、どれだけ救われただろう。


精神が健全な状態なら、こんなことくらい、はねのける事が出来たのかもしれない。でも……僕は出来なかった。






東京を離れ地方に就職した。

休養が必要だと思い、会社に相談したが、あっさり却下。

鬱傾向を引きずったままだから、就職は大変だった。念願の自動車の免許取得は夏のボーナスまでお預け。それまではヤマハ・ジョグに世話になった。原付だ。


池間さんは……。

よほど僕に悪い事をした、と反省したようだ。その証拠に、「自動車をあげる」と言い出した。いくら買い替えだからと言っても、まだ4万キロの走行だから、下取りに出せば数十万円にはなったろう。


僕はあまり当時の記憶がない。自動車を貰うのを断る事もできたはず。でも実際にそれに乗ったのだから、断らなかったのだ。鬱を引きずったままの新入社員だったから、毎日の仕事で手一杯だったに違いない。その上、「資格を持っているのはあなただけだから、あなたは週休いらないわね」とスケジュール担当の中年の女性に真顔で言われ、ベテランの仕打ちに参ってしまい、鬱の症状は治らなかった。

勿論、週休は貰った。でも結果的には休日返上で働かないと仕事をこなせなかった。



僕の心の支えは自動車だ。

いすゞジェミニ JT600。当時、【街の遊撃手】というキャッチフレーズで、パリの街を2台のジェミニがダンスを踊るように走るテレビCMが話題だった。


ディーゼルエンジンの最廉価グレードだったから装備は乏しい。でもそれで十分だ。

だってまだ免許も取得していないのに、自動車が手に入ったのだから。


池間さんは、地方の僕の社宅まで自動車が届くように手配してくれた。僕は1銭も払わなかった。


正直僕には、自動車よりも「ごめんね」の一言が必用だった。でも、それを彼に望むのは無理な事。


届いたジェミニを見て思った。

『池間さんにとって「ごめんね」を言えない代償は高くついたんだな』





一度陥った鬱から出るのは容易ではない。おそらく子供の頃から鬱の傾向はあった。免許を取りジェミニを運転している時『このままハンドルを切らないでぶつかろう』と死を考えた事も一度や二度ではない。


それでも自動車は僕の友達だった。自動車のおかげでストレスを緩和できた。

自分だけの、誰にも邪魔されない空間は、僕の鬱傾向を緩和させるのにとても役立った。

僕は、自動車に救われたと言っても過言ではない。



今、池間さんに怒鳴られた経験から、僕は謝る事の大切さを胸に刻んで生きている。


『謝る気持ちは言葉でちゃんと伝えないと意味がない……』


でも、池間さんに貰ったこの自動車は、僕をいすゞジェミニのファンにしてしまった。トヨタにも、日産にも、ホンダにもない。独特の個性があった。


その後、スポーツタイプのジェミニに2台乗り継ぐこととなる。





『池間さん。自動車ありがとうございました』

今なら少しだけ思える。鬱傾向が治った今だから。


自動車が好きだったから、救われた。

そこに居場所があったから。



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自動車が好き @yomekawarimono

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