現世に舞う
楸 茉夕
現世に舞う
歌が聞こえる。
勝利は我らのものだとか、もう逃げ場はないだとか、そんな陳腐な歌詞の大合唱が。
散々聞かされたので既に慣れた。そもそもここに残っている者たちは、歌くらいで動揺する可愛げなぞ持ち合わせていない。
黙々と仕事を続けていると、バタンと音を立てて勢いよく次の間の扉が開いた。不機嫌な面持ちの城主が出てきて、不機嫌な声音で言う。
「誰かあの歌をやめさせよ。煩くて気が散る」
その場にいた者は全員無言で、城主に手元のものを投げつけた。ある者はインク壺、ある者は文鎮、ペン立て、燭台、その他諸々。
「うおっ、危っ、おまえら! 人に物を投げてはいけませんって教わらなかったのか!」
誰も言い返すどころか顔すら上げず、粛々と各々の仕事をこなしている。それが気に入らなかったらしい若き城主は、大袈裟な身振りをつけて更に喚いた。
「無視するでない! 仮にも城主の言葉ぞ!」
やはり誰も答えないので、彼は仕方なく手を止めて城主を振り返った。あとできっと、おまえが甘やかすからいけないと皆に怒られる。
「うるっせーんですよクソ城主! 夕方から居眠りする暇があったら書類に目を通して決裁しなさい!」
「誰がクソ城主か、このクソ秘書官! 私は居眠りなどしていない!」
「よだれ」
彼が指摘すると、城主は慌てた様子で口元を拭い、目を瞬いた。
「そんなもの、どこにも……あっ、貴様! 謀ったな!」
怒る気も失せ、秘書官は深々とため息をついた。この、二十歳になるかならないかという青年城主の底抜けの素直さは、美点でもあり欠点でもある。
「寝てもいいですから、我々の邪魔をしないでください」
「甘やかすな」
すぐさま横から声が飛んできて、秘書官は顔を顰めた。城主を追い払うように手を振る。
「ほら、私が怒られるんですからね。とっとと戻って仕事をしなさい。耳栓作ってあげましょうか」
「要らぬわ! まったく、どいつもこいつも……私に対する尊敬の念というものが足りぬ……」
ぶつぶつと呟きながら、城主は執務室へ戻っていった。一つ息をつき、秘書官は暗くなってきた部屋の中に灯りを点けて回る。本来なら灯り持ってきてくれるはずの侍女は、既に全員逃がした。
歌は途切れない。こちらの手勢は五〇〇に満たず、相手は一万を超える。結果は火を見るより明らかだ。持ちこたえられているのは、地の利と、こういうときのために堅牢に造られた城であるからに他ならない。
ここが落ちれば国境は総崩れになる。一日、一時でも時間を稼ぐ必要があった。
最早籠城しかないとなったとき、城主は己の首を差し出すと言ってきかなかった。兵士と領民の代わりなら安いものだと。
女子供や非戦闘員を逃がすとき、城主も逃げろと秘書官を始め側近全員で説得したのだが、頑として聞き入れなかった。自分が城を出るのは一番後だと言い張った。
だから彼らは残ったのだ。この、素直で頑固な主君のために。
そして彼らは諦めない。ここに至るまでの戦闘や、籠城するに当たって、随分と例外の法を作ってしまった。国王へ報告するときのために、辻褄を合わせなければならないことや、必要な手続きが山ほどある。だから皆、仕事に追われている。
灯りを点け終えた秘書官が席に戻ると同時に、再びバタンと扉が開いた。まだ何か用なのかと振り返る。
「仕事しろって言って―――」
「出て行ったぞ! あれは誰だ!」
これには全員が反応した。城主の指差す窓の外を見れば、たしかに単騎、城門から敵陣へ一直線に駆けていく。
「何故正面から出した? あれでは死にに行くようなものだろう!」
「ああ……正面から」
額を押さえて呻いたのは騎士団長である。城主はつかつかと騎士団長へ歩み寄った。
「どういうことだ。おまえは知っていたのか」
「許可したのは俺ですからね。ありゃ眼鏡ですよ」
眼鏡と呼ばれるのは、騎士団の副長だ。その名のとおり、いつも眼鏡を着用して、粗暴でいい加減な団長の補佐役として温和な笑みを絶やさない。
「私は何も聞いていない!」
「言ったら止めるでしょうが」
「当たり前だ! 逃がすならせめて裏から……」
「逃げたんじゃありませんよ、失礼な。殿下をお連れするにはああするしかなかったんです」
騎士団長の言葉を聞いて城主は口を噤んだ。
この間十四歳になったばかりの、第七王子にして国王の末子、城主の従弟。王城の事情は秘書官の知るところではないが、幼い頃から王弟である
兄弟のように育った従弟を、城主は殊の外可愛がっていた。
「殿下もお逃げになったんじゃありません。あと十日持ちこたえろと、必ず王都から援軍を連れて戻ると仰せでした」
「そ……」
蒼白になった城主は唇を震わせたが、そこから言葉は出てこなかった。
共に育った二人は似るのか、王子もまた頑固で、
秘書官は援軍には期待していない。援軍を送ってくれるなら既に一報があってもよさそうなものなのに、王都からは未だになんの音沙汰もない。こちらの籠城も、王子がいることも知っているはずなのに。
だが、万に一つ、王都を―――国王を動かせるとしたら、眼鏡と一緒に飛び出していった王子だけだ。
「でもまあ、わざわざ正面から行くなってのは俺も同意しますよ。たしかに最短距離ですけどねえ」
団長がぼやき、城主は拳を机に叩き付けた。激情をやり過ごすかのように息を吐き出す。宥めるように団長が続けた。
「あいつの腕は保障します。今この城にいる中で、あの囲みを突破できるとしたら、眼鏡だけです」
「何故一人で行かせた! 他にも護衛を付けてやればよかっただろう!」
「それだとあいつの気が散ります。多分護衛は死ぬでしょう。あの眼鏡は、殿下をお乗せしていても、誰かが死にかけたらそれを庇おうとしてしまう」
「だとしても、夜明けまで待てなかったのか。暗闇の中、子供を抱えて敵陣を駆けるなど……」
「逆ですよ」
「逆?」
「夜だからです。あちらからはこちらが見えない。眼鏡の二つ名をご存知ですか?」
城主は首を左右に振った。団長は唇の端をつり上げる。
「梟です」
* * *
少年は馬の首に殆ど同化するように伏せていた。疾走する馬から振り落とされないようにするのが精一杯だ。
すっかり陽は落ち、夜の気配が濃い。少年の目では周囲は殆ど見えないが、驚くことに、灯りも持たずに馬を操る人は非常に夜目が利くらしい。
真の暗闇はさすがに無理で、星明かり程度でも光が必要なのだと言っていたが、夕暮れには明かりが欲しくなる少年には羨ましく思える。
「矢を射かけよ!」
「止めろ! 引きずり下ろせ!」
「構わん、殺せ!」
闇の中を火矢が飛び交い、怒号と悲鳴が上がる。伏せているせいで周囲の様子はわからないが、自分たちが信じられない速度で敵の陣営を突っ切っているのだけはわかる。
王都へ連れて行ってくれと頼んだのは自分だ。このままでは
何があっても父を説得し、援軍を率いて戻ってこなければならない。
少年は懐にしまった眼鏡を衣の上から押さえた。城を出る前に、副長から預かったものだ。眼鏡をかけたまま剣を振るうのは危ないので持っていてくださいね、と副長は微笑んだ。殆ど死と同義の命令をした自分に、副長はいやな顔一つせず笑ってくれた。
時折降りかかる生温かい飛沫がなんなのかは、極力考えないようにする。それが副長のものでないことを願うだけだ。
(どうか……)
祈る相手は神ではない。母を殺したのが父だと知ったとき、救いの神など存在しないのだと思った。現に、少年を救ってくれたのは叔父と叔母で、従兄で、今は副長だ。
少年は、母や乳母、良くしてくれた侍女と侍従をいちどきに失った。もう誰にも死んで欲しくない。大きくはない掌にあるものを、何一つ失いたくはない。そう思うことが欲張りなのであれば、それでいい。
望みが果たされれば自分はどうなってもいい。だからどうか、皆の命は助けて欲しいと、神ではない何かに祈った。
* * *
梟というのは異名ではない。
皆は渾名や通り名だと思っているようだが、彼は真実フクロウだった。神代の時代から生きる
眷属の中で人贔屓と揶揄される彼は、しばしば人の姿を取り、人の世に紛れ込んだ。そうやって一人の人間の生を生きて、死に、フクロウに戻る。何度繰り返したかはもうわからない。幾度となく人に生まれ直しても、飽きることはない。人は彼にとって愛すべきものであり、人の営みはすべて愛おしい。時代、社会、大いなるもの、いろいろな呼び方があるが、それらを作り出すのは一個人の集合体だ。彼らすべてが滴であり、大河である。
自分は生まれる場所や存在を間違えたと、つくづく彼は思う。人になりたかったが、なり損ねた。フクロウが神梟をやめたいように、人の中には人をやめたい者もいるようで、運命とは数奇なものだと思う。
そして不思議なことに、フクロウが人を生きるたび、どこかで「梟」と呼ばれるのだ。今回は、異様に夜目が利いたことで梟と渾名されるようになった。フクロウにとって闇は闇ではなく、うっかりそれを口に出してしまったのが原因だ。
今回はどこぞの王国の辺境領、騎士団の副団長におさまった。隣国との小競り合いが絶えない荒れた土地だが、フクロウは楽しかった。城主やその側近、自分の上司たる団長といつまでも過ごしていたい。悲壮な決意を固めた少年を守りたい。フクロウはフクロウだが、人のように人に心を寄せる。神とてそうだ。すべてに公平なものなど存在しない。
人が自分を殺しにくる。殺されないように返り討ちにする。少年を王都まで送り届けなければならない。そして援軍を。城で仲間が待っている。
フクロウは楽しかった。
現世に舞う 楸 茉夕 @nell_nell
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