どこまでも愚かしい

東谷 英雄

どこまでも愚かしい

 恵が死んだ。付き合い初めて三年目の記念日の翌日、川で溺死した彼女が見つかった。世の中失って初めて本当の大切さが分かる、俺はそう言って、彼女の葬式で涙を流した。俺は用事が立て込んでいたせいでなかなか彼女との時間を作ることもできず、記念日も会うことができなかった。もし無理してでも彼女と過ごしていれば、もしかしたらこんなことにはならなかったかもしれない。頭を下げる俺に、恵の両親は気に病まないでくれと優しい言葉をかけてくれた。

 警察の話では恵の体からは多量のアルコールが検出されたらしい。その日の彼女は友人達と飲み会をして、ふらふらになりながら一人で歩いて帰っている途中で、橋から落ちた。防犯カメラに記録が残っていて、おぼつかない足取りで歩く彼女が橋の下になにか見つけたのか、のぞき込もうとしてそのまま落ちていく姿が映っていた。記念日の恵は妙に上機嫌で、酒を飲むペースが異常だったと友人が証言した。自殺の疑いがあったが、彼女にそんなそぶりはなかったと友人達は口をそろえて言っていた。率先して飲み会を盛り上げ、笑顔を振りまいていた、と。付き合いの長い友人達がそう言うのならそうなのだろう。

 恵が死に、葬式も終わった。ならば次にすべきことは必要の無い物の処分だ。

 久しぶりに家に帰った。俺と恵が同居していたアパートの一室。なんだか気まずさを感じながら鍵を開けた。扉を開けると恵の匂いがした。充満する彼女の匂いで、俺が不在だった期間の長さを認識した。

 部屋の中の物はたいして変化はなかった。俺の物、恵の物、記憶の中の配置とほとんど変わっていない。彼女のまめさが伺える。ただ、ある一点だけ見覚えのないものがあった。恵が化粧に使っていた小さなテーブル。その上に簡単な包装をされた小箱が置かれていた。小箱には彼女の文字で『純へ』と書かれていた。もしかしたら記念日に渡そうとしていたプレゼントか? 俺は包みを開けた。

 中身はフクロウを模したペンダントだった。木彫り風の素材で、フクロウの目が大きく強調されており、目玉の代わりにカットされた黒色の石か何かがはめ込められている。デフォルメ調のデザインで、石もキラキラしている。フリマアプリに出せば、そこそこの値で売れるんじゃないか。ちょうどテーブルが白いので背景にちょうどいい。出品用の写真を撮る。最近のスマホは素人が撮っても綺麗に写るから便利だ。写真を確認すると、フクロウの目がキラリと光っているように写っていた。

 朝に始めた、いわば清算の大掃除が終わったのは夜だった。用事が終わればここに用はない。俺の部屋であることに変わりないが、今の俺には帰るべき場所がある。それに、この部屋は恵の匂いがまとわりついてくるようで、なんだか長居したくない。契約を終了させることも考えなくてはいけないかもしれない。大きな物はリサイクルショップに持っていったので、俺の手元にあるのはフリマアプリに出品した物だけ。あまり大きくない段ボールに詰めて持っていこう。あいつに怒られるかな。今日の臨時収入で手土産を買っていけば大丈夫か。

「遅かったじゃん」

 インターホンを押すと、澄子が扉を開けて出迎えてくれた。

 澄子は俺の恋人だ。恵が死んでからできた恋人だじゃない、半年前の付き合いだ。恵は悪い女じゃなかったが、いかんせん頭が良く、おとなしかった。聞き分けはいいのだがどうも面白くない。空気が読むのが上手く、俺の感情の変化を敏感に察知し、完璧な対応をしてくれた。ストレスを感じることのない生活、それが逆にストレスだった。

 それに比べて澄子は頭が悪い。言わなくていいことを言ってくるし、墓穴を掘るようなことばかりする。恵に退屈さを感じていた俺は、そんな澄子の馬鹿さが愛おしかった。喧嘩してむかついても、それを超えた後、互いに謝罪し関係を修復する時間がたまらなく好きだった。他人との共同生活、愛の営みとはこういうことなんだと理解した時から、俺は恵への愛情はなくなっていた。いや、元から愛情なんて無かったのかもしれない。今となってはどうでもいい。面倒だった別れの言葉を考える必要はなくなったのだから。

「これもらっていい?」

 澄子が勝手に恵の遺品をあさり、フクロウのペンダントを見つけた。まるで飼い主の買い物袋をあさる犬みたいだな。そこが可愛いんだが。

 澄子には恵の存在を教えている。分かっていて浮気をよしとしていた。だが流石に前の女の物を欲しがるとは思っていなかったので、恵の遺品を売却したのだ。それももう売り物だ、と伝えると澄子はがっかりと言わんばかりに肩を落とした。

「なーんだ。可愛いから欲しかったのに」

 澄子から見ても可愛いデザインなら、すぐに買い手がつくだろ。俺としては恵はもう過去の女、あいつの物はとっとと処分したい。金になったらもっといい物を買ってやるといったら渋々了承してくれた。

 片付けで疲れた。その日は飯を食って酒を飲み、風呂に入って寝ることにした。

 澄子が風呂から上がるのを待つ間テレビを見ていた。間もなくして澄子は風呂から出てきたのだが、いつもに比べると早すぎる。どうしたというのか。

「わかんないんだけど……なんだか見られている気がして」

 何を言っているんだ。この澄子が暮らしている部屋の風呂には窓なんてついていない。のぞきなんてあり得ない。

「そうなんだけど、なんだか……その」

 どうにも要領を得ない。頭の悪さはチャームポイントだが、許容しきれない時がある。疲れていた俺は適当にあしらった。

 寝る前に歯を磨く。どんなに疲れていても、泥酔でもしていない限り昔からの習慣に従ってしまう。口の中にたまった唾を洗面台に向かって吐き出し、顔を上げた。

 なんだ、鏡に映る俺の肩のあたりに何か見えた気がした。目の前に鏡があるのに振り返って確認する。気になる物は何も無い。なんだったんだ。再び視線を鏡に戻す。

「!」

 鏡の中にいたのは俺ではなく、死んだ恵だった。白目の無い黒い目が、俺を見つめている。あまりの驚きに歯ブラシを落とし、足にぶつかった。

 どういうことだ。なんで恵が映っている。俺が口をパクパクさせると、鏡の中の恵も口を開いた。

「どうしたの純ちゃん」

 心臓が口から飛び出るんじゃ無いかと思うほどの悲鳴を上げた。すると俺の背後からも悲鳴が聞こえた。澄子だった。

「びっくりした……。大きい声出さないでよ。怒られちゃうじゃん」

 今鏡の中に恵が、そう言って指さそうとすると、鏡には俺と澄子しか映っていなかった。まさか澄子を恵と見間違えたのか。そこまで疲れているとは思えないが、そうだと思い込むしかない。とりあえずこの場から逃げたくて、俺は乱暴に澄子をベッドまで連れて行った。

 電気を消してベッドに二人で潜り込む。まだ心臓が早鐘のように鼓動していたが、なんとか眠るように意識した。あれが夢に出たらどうしよう。そう考えてしまうと、なかなか寝付けなかった。

 どれくらい時間がたったのだろう。眠れる気配がないまま、尿意を催してしまった。我慢しようとしたが、時間の経過するほどつらくなってくる。洗面台とトイレは近い場所にあって、あまり近づきたくない。恥ずかしいが澄子を起こして、ついてきてもらおう。無音の中、物音を出し伝い雰囲気に負けずに澄子に呼びかけた。しかし揺すっても声をかけても彼女は起きない。仕方が無いと舌打ちをして一人で向かった。

 トイレに向かう途中、何かを踏んだ。柔らかいような、弾力があるような。気味の悪い感触が足の裏に広がり気分が悪くなった。一体何なんだ。スマホのライトで足下を照らす。足下には小さな水溜まりができており、赤い何かのかけらが落ちていた。なんだこれは。よく確認しようとすると、ベッドの方から、クチャクチャという音が聞こえた。音に反応し、ライトを向けた。

 俺はその行動を後悔した。二つの大きな丸い目を持った何かが、澄子の顔に覆い被さっていた。光に反応して何かが俺を見る。何かの正体は分からないが、澄子の顔が大変なことが起きていた。彼女の両目が無くなっていたのだ。本来あるはずの目玉がなく空洞になっている。俺は短い悲鳴を上げた。何が恐ろしいって何かの口のあたりに、 目玉の一つがぶら下がっていたのだから。何かが俺に向かって目玉を投げてきた。俺の手前で目玉が転がる。澄子の目だったものと目が合うと、俺は声にならない音を吐き出して逃げ出した。 玄関に向かったがなぜか開かない。勿論鍵もドアチェーンも外した。なのに開かない。とち狂った俺はどこかに隠れたくてトイレに向かう。トイレに籠城し、ガクガクと震えて座り込んだ。

 一体何が起こっている。澄子は死んだのか。頭をどうにか冷静にしようとしていると、トイレの蓋に何かが落ちる音がした。俺は情けなくも声すら出ない。蓋の上にはノートが乗っていた。どこから落ちてきた。天井には通気口しかない。ノートが通る隙間じゃない。

 不思議に思いノートを手に取り、パラパラめくると恵の字だと気づく。内容からして日記だと分かった。

 日記にはどう思って俺に接していたか書かれていた。少し意外で態度以上に俺のことを気遣っていたのだと分かった。読み進めるたびに彼女への罪悪感が生まれていくのが感じた。しかしある項から内容は一変する。恵は俺の浮気に気づいていたのだ。澄子との出会いから一週間後にはばれていた。俺のことを信じ、深く追求しないように耐えている描写があった。そのまま一ヶ月、二ヶ月たつと、感情が抑えられなくなっていったのか、文章がおかしくなっていった。

 読み進めるたびに、手が震え汗が流れた。言葉の一つ一つを俺は否定した。

 言ってくれれば良かったんだ。浮気を止めろと。何も言わなかったお前が悪い。

 文章の中、狂っていく恵。最後にこう書かれていた。

『私の想いをフクロウに託す』

 そう書かれた日付は、記念日の日だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どこまでも愚かしい 東谷 英雄 @egorari28

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ