GoodBye GoodNight

夏祈

GoodBye GoodNight

 いつからか、世界には夜しか存在しなくなった。それは唐突で、防ぎようも無く、まるで太陽の存在を忘れてしまったように。起きてまず部屋の電気を点けるこの作業にも、すっかり慣れ切ってしまった。太陽を忘れたのは、私も同じなのだろう。テレビを点けて、キッチンへ向かい朝食の用意をする。本日は休日なり。なぁんて、ふざけたように一人の空間に溢して、冷蔵庫を開けた。完全な休日なんて久しぶりのことだった。平日は大学の講義、土日はバイト、時間があっても課題に追われ。趣味の読書やら音楽鑑賞、ショッピングにかける時間なんてほぼほぼ無く、最早何のために生きてるのかも見失いそうな日々だったが、いま、今日、やっと自由な時間を手に入れたのだ。人生万歳。もっと人類休め。社会を回すのをやめろ。一日くらい大丈夫でしょう。だって、世界は回ること自体をやめているのだから。

 油を敷いたフライパンで、ベーコンを軽く焼いてからその上に卵を一つ、落とす。水を注いで蓋を閉めて、そうしているうちにケトルにお湯が湧けたと訴えられる。トースターからこんがり焼けた食パンを出して、マーガリンを塗ってからテーブルへ。インスタントコーヒーを淹れて、カット野菜を盛っただけの簡素なサラダと共にこれもまたテーブルに。あぁほら、いい具合にベーコンエッグが完成したから、これも持ってテーブルにつく。休日の食事は頑張らなくていいから好きなのだ。さくり、とトーストに齧りついた時、テレビが深刻そうにニュースを告げる。世界が闇に包まれて、そろそろ半年が経とうとしているのだと。咀嚼して、嚥下した、その口の中に残る甘さをコーヒーで流して、テレビを消した。

 日本は朝を忘れた。じゃあ地球の反対ではずっと朝なのか、と問われれば、違う。世界が、地球が、全てが暗闇に閉ざされた。太陽はどこにもいなくなってしまった。かつて朝と呼ばれていたこの時間も、今では暗い空と共に在る。それでも皆が朝と、昼と、変わらない空の中呼び分けているのは、存在を忘れたくないからなのだろう。

 薄いコーヒーで食事を締めて、今日の予定を考える。欲しい本があるから、それを買いに行くのが良いだろう。ついでに冬ものの洋服も見て行きたい。時刻は九時を少し回ったところ。さて、と一人呟いて、片付けと身支度をすべく立ち上がる。


 準備を終えて、お気に入りの靴を履き、玄関先の姿見で格好を確かめて。下駄箱の上に置かれた梟の置物が、愛らしい瞳でこちらを向く。進学の時に母がくれた贈り物。幸福を呼ぶとか、知恵の象徴とか言われるけれど、きっと母のことだ、可愛いからなんて単純な理由で選んだのだろう。そのセンスは私も同じだったようで、こうして現役で玄関先を彩る役割を担わせている。二つセットであったそれを、実家の母と進学した私で分け合って、こうして飾っているのだ。私はそれに微笑みかけて、そっと一撫でしてから外へ出る。



 ひんやりした冷たい空気に少し震えて、相も変わらず暗い空を見上げる。欠けた月が煌めいて、それと共に星々も光を零す。街は一日中その明かりを消すことも無く、まるで皆この状況にとうに慣れてしまったようで。とは言っても、それは私だって同じだった。もう、カーテンを開けば朝日の射し込む朝も、灯りが必要ない昼間も、覚えていない。遠い昔のおとぎ話のように、他人事のような記憶。人は酷にも、忘れてしまう生き物だから。

 ヒールが鳴らす小気味いい音を響かせながら街を歩いて、大きなショッピングモールへと向かう。ここであれば目的のものも揃うし、好きな服屋も入っている。とりあえずはと本屋へ向かった。欲しい小説は決まっているけれど、それだけを買って立ち去るのは少し勿体ない。タイトルや背表紙に惹かれて中を覗いてみるその時間こそ、愛おしいのではないだろうか。自分の学んでいる専門分野の本をぱらぱらと捲ったり、友人の分野を覗いてみたり。ぶらぶら歩いては手に取ってを繰り返すうち、写真集のコーナーで手に取った本の中に、私の忘れた世界を見つけた。それは、世界が闇に沈む前に発行されたらしい写真集。煌めくような朝があって、眩しいほどの昼があって、そして穏やかな夜があった。当たり前のように巡っていた、今はもう無き時間の変遷が、そこにくっきり映っていた。朝日の昇る複雑な空の色と太陽の光。地平線に消えていく燃ゆる熱と、いっぱいに輝く紅い、あかい空。晴天の空のキャンバスは他の何者も真似できない程鮮やかに青く、雲が空を駆け巡る日には、夜とはまた違う影が落ちる。もうどこにも無い、世界の姿。そう在った、これからも在るはずだった世界の姿。どうして、誰もがこれを忘れてしまったのだろう。なんで、今のこの世が当たり前だったかのように、平然とした顔で過ごしていられるのだろう。私は酷く泣きそうな気持ちになって、その一冊を抱えたままレジに向かった。他の写真集はどれも、夜だけを写していた。



 服を見に行く道中の雑貨屋で足を止めた。淡い色で作られた、ふんわりとした雰囲気のその空間に呼ばれたように、ふらりと店内に立ち入る。手触りの良いふわふわのぬいぐるみ、可愛らしいアクセサリーや食器なども充実している。こんなところに雑貨屋などあっただろうか、と首を傾げてみたが、その答えも特に見当たらないため諦める。近くにあった大きな梟のぬいぐるみを抱き上げて、そっと頭を撫でた。可愛い。さすがにこの大きさは邪魔になってしまうけれど、もう一回り小さなサイズなら平気だろう。私は手にしたぬいぐるみを元の場所に戻して、その隣にいた少し小さな梟のぬいぐるみを持ち上げた。梟なんてなかなか見かけないのに、珍しいこともあるものだ。愛らしい顔つきと大きな瞳に思わず頬が緩む。さてお会計、とレジの方へ振り向いた瞬間、寒気が背中を走り抜ける。知らぬ間に細く開いていた唇から、意味も持たない言葉が零れ落ちる。さっきまで、うさぎやらくまやら様々な動物の雑貨が並んでいたはずの棚が、一面梟だけになっていた。梟のぬいぐるみ、梟の柄のブランケット、食器も、ペンも、置物も、全部。こんな短時間で、商品を全て換えるなんて出来るわけがないし、していたとしても、この近距離で気付かないのもおかしな話だ。額を冷たい汗が流れるのがわかる。せめて誰か、誰かに縋りたい気分だった。見知らぬ他人でもいい。店員さん、と声をあげようとしたところで、果たして今日、私は自分以外の人に出会っただろうか、と思考が過る。左手に提げた、本を入れた袋。この本、一体どうやって買ったのだっけ。レジを打ってくれた店員さんは、男だった? 女だった? そんな単純な問いにさえ、答えが浮かばない。おかしい。

 ──スマホの着信音が、静寂を裂くように鳴り響く。


 抱いていたぬいぐるみを落っことしながら、鳴りやまぬスマホの画面に指を滑らせた。着信は、母から。

「……も、もしもし」

『──……やっと、見つかったの。もう半年も経ったのね』

 泣きそうに震えた母の声。その言葉の意味は、理解も出来なくて。

「お、かあ……さん……? 何の話してるの? 見つかったって、何、が、」

『あなたが出てくれれば良いのにと思ってかけてみたけど、そんなわけないわね』

 会話は噛み合わず、まるで私の声などひとつも聞こえていないように。──いや、聞こえていないのだろう。これは、母からの一方的な電話。声を張り上げて母を呼んでも、返る言葉は無く。

『……どうか安らかに。愛してる』

 決定打。否応なしに気付いてしまった真実は、両足で立つ地面を崩すのに十分すぎた。切れた電話はもう何も発することは無く。落として転がした梟のぬいぐるみに近付いて、それを拾い上げ、そっと抱きしめた。梟は、決して太陽を見ることのない鳥。商品紹介のPOPに、まぁるい文字で書かれたその言葉。あぁそうか。私を捕らえたのは、夜に生きるこの鳥なのか。嫌に明瞭になった思考でそう考えて、ぬいぐるみを元あった場所へ戻して帰路に着く。帰る場所。いや、この場合は、還る場所と言った方が正しいのかしら。


 世界が変わったんじゃない。私が変わってしまっただけなのだ。私がもういないあの世界は、きっと変わらず夜が明ける。そうであって欲しいと、願っている。


 自宅に着いて、玄関先の梟の置物を一撫でした。そして掴んで、振り上げて。いつの間にか頬を伝っていたいくつもの雫が鬱陶しい。今更感情が流れ出たとて、遅すぎた。夜しか知らない鳥が、ずっと私を捕らえていた。蛋白質と別れて、ただ二十一グラムになった私を。離れていても、これを見て思い出してねと笑った母の顔が思い出せる。ひとりでに漏れた謝罪の言葉が、とうに届かない場所に来てしまった。この子が、少しだけ時間をくれたのだろう。全てに気付く時間を、あの言葉を貰う時間を。あぁ、ねぇ。安らかに、逝くから。さいごに、私の言葉だけ、連れて羽ばたいてくれないだろうか。

「──私も、愛してる」

 降り下ろした手からそれが離れて、私は久しぶりの、光を見た。

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