神様への手紙
moe
第1話 神様への手紙
―――神、悪魔、運命、そんなもんはくそくらえ。
私は、お前たちを、絶対に許さない。負けて、なるものか。
私の息子を返せ。
***
「大樹、寒くない?」
私はクリーム色のカーテンを閉めながら、大樹に訊いた。彼はベッドに横たわったまま、首だけをぐいとこちらに向けて、「寒くないよ」と言った。
「お母さん」
「ん? どうしたの?」
「カーテン、閉めなくていいよ」
「そう? でも体を冷やしちゃだめじゃない」
「大丈夫だよ。僕、外の景色を見ていたいんだ」
大樹はにっこりと笑って言った。前歯が一本欠けた歯列がのぞく。
私は、その無邪気な笑顔に、上手く笑い返せただろうか。
カーテンを開けると、葉の落ちた裸の木が枝を細々と垂らしていた。
***
大樹が小児がんに侵されていると知ったのは、二月を迎えたばかりの凍える日だった。
朝から、大樹は咳をしていた。こほこほと小さな体を揺らしながら何度も。今年買ったばかりのランドセルも彼の背でかたかたと揺れた。
インフルエンザが流行っていると、ニュースで報道されていたのを思い出す。大樹に、「今日、病院行こうか」と尋ねると、大樹は盛大に首を振った。
「やだよ。今日は給食がハンバーグなんだもん」
なんて子供らしい理由だろうと一瞬呆れたが、大樹は意地でも行くと言って聞かなかった。私はついに折れて、マスクとカイロを渡し、彼を送り出した。
その行動が間違っていたのだろうか。あの時私は、何としてでも大樹を病院に連れていくべきだったのだろうか。そうすれば、大樹はこんな目に遭わなくてすんだのだろうか。
学校から帰ってきた大樹の咳は酷くなっていた。
そして、彼の足はふらついていた。
「お母さん…ハンバーグ吐いたぁ…」
顔のほとんどを覆っているマスクの上から覗く瞳が、危なげに揺れていた。
インフルエンザでも死ぬことがあるのだという事実が、何故かその時頭をよぎった。
でも、インフルエンザだったら良かったのにと、今なら思う。軽視するわけではないけれど、そのほうが彼の人生は狂わずにすんでいたかもしれない。
私は慌てて近くの大学病院に大樹を連れて行った。
インフルエンザの検査では陰性。それなら、ただの風邪か。ほっと胸をなでおろした瞬間だった。
「お子さんは小児がんを患っています」
「……え?」
聞き間違いだろうか。
目の前の医者は淡々と繰り返した。
「風邪やインフルエンザかと思って診察を受けたら、小児がんだと発覚するケースは少なくありません」
「……ちょっと待ってください。……息子は、大樹は、……がんだって言うんですか……?」
「残念ながら」
冷酷にも思えるその声に、私は呆然とした。何が起こっているのか、分からなかった。
その隣で、大樹は私の腕に寄り掛かりながら、こほこほと咳をしていた。
大樹のがんは、ステージ4だと宣告された。
***
―――どうして、大樹なの? どうして、私の息子なの? 何も悪いことしていないじゃない。天真爛漫で、無邪気で、人に優しくて、純粋で、天使のように可愛らしいあの子が。どうしてがんなんて病魔に侵されなければならないの? これは悪夢? 私がいけないの? ねえ、神様。なんでもします。私の身はどうなっても構いません。どうか、あの子を助けて下さい。あの子の為なら、何でもします。どうか、お願いです。
荒々しく手帳に書き殴った手記は、涙でよれよれになっていた。
それから私は、気が狂ったように、毎日手記を書き続けた
―――治療は効いていない。医師の返答からも思わしくないことが分かる。ねえ、神様。まだ、小学一年生よ、あの子は。そんな齢で死ななきゃいけないのなら、あの子は何のために生まれてきたの? どうして? 大樹は、周りのみんなが当たり前に謳歌している日常を味わうことができない。もう、友達と笑いあうことも、大好きなハンバーグを美味しいと食べることもできない。外に出て走り回ることもできない。あの子から、何もかも奪うの? ねえ、神様。教えてよ。こんなのむごすぎる。私からあの子を奪うばかりか、あの子からは全てを奪うの? どうして、こんな……。酷い。酷すぎる。
―――呪ってやる。神も、悪魔も、運命も。人間を見下して、私たちを狂わせて笑っているお前たちを心の底から呪ってやる。
―――呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。
呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。呪われろ。
***
手記を夫に見られた。書いているうちに眠ってしまっていた私の様子をうかがおうとしたときに見てしまったのだ。
「疲れているんだよ」
彼はそう言った。
「大機の傍にずっといて、気が張り詰めてるんだ。そんなこと書くほど、追い詰められてるんだよ。だから、今日は俺が仕事休んで大樹についているから、お前は家でちょっと休め」
「嫌よ」
私は掠れた声で、それでもきっぱりと言った。
「あの子は今も病気で苦しんでるのよ!? 私があの子の傍にいてあげないと、あの子はっ……」
最後まで言うことはできなかった。力が入らない。『呪われろ』の文字に全てを注ぎ込んでしまったのか。それはそれで癪だった。私が恨むものに、負けてなるものか。
「大機は、死なせない……」
私は声を絞り出した。自分の声かと疑うほど、地の底から湧き上がってきたかのような声だった。
「いい加減にしろ!」
夫の怒号が響いたかと思うと、頬に激痛が走った。彼に頬を叩かれたと分かるのに、時間がかかった。
「母親のお前が現実から目を背けてどうするんだ!」
夫の言い分に、私は頭をがつんと殴られたような衝撃を受けた。何、それ。
「現実って何!? 大樹が死ぬってことが現実!? そんな現実なら受け止めたくもないわ! 変えてやるのよ! 何としてでも!」
「それができないことくらい分かれよ!」
両肩を掴まれた。強い力だった。彼は真正面から私を見据えて、言った。
「大機の母親だから現実を受け止めなくちゃいけないんだ! 大樹は何も分からない。自分がこれからどうなっていくのかも、幼い身で抱えられるほど軽くないんだよ、大樹の現実は! だから大樹の分も俺たちが背負ってやらなくちゃいけないんだ!」
膝から崩れ落ちた。
大樹が死ぬ。それを受け止めなくちゃならない。
そんなの、できない。
私の心が、もたない。
どうしていいか、分からない。
静かに涙を流す私を、夫はそっと抱きしめた。
私たちは、抱えなくてはいけないのか。大樹の苦しみを。理不尽な現実を。
赤ん坊の大樹を抱いたこの手で、受け止められるだろうか。
嗚咽が、静かに響いていた。
***
「お母さん、ありがとう」
呼吸器の奥で、大樹の声がくぐもった。その落ち着いた声に、私はどきりとした。
「……どうしたの? 急に」
声が震えないようにするので精いっぱいで、大樹の顔を見ることができなかった。何故、今、「ありがとう」というのか。ついさっき、医師から「長くても、あと一カ月」だと告げられたばかりだ。
「お母さん、こっち来て」
大樹に呼ばれ、私は無理やり笑顔を張り付けながらベッド脇へ立った。
すると大樹は点滴の針の刺さった手をそっと持ち上げ、私のほうへと伸ばした。
「手、握って?」
黒目をきらきらと輝かせて彼は言った。可愛らしい、我が子だ。
私はぎゅっと大樹の手を握った。これでもかというほど強く握った。
「あったかいね」
大樹は呼吸器の奥でにっと笑った。その笑顔は、とても無邪気で、愛らしかった。
「……大樹の手も、とっても、あったかいよ」
―――ねえ、神様。あんなに、いい子なの。あんなにも、愛らしい子なの。私にとって、大樹は唯一無二の、かけがえのない子なんです。奪わないでください。お願いだから。あの子と一緒にいさせてください。さよならなんて、できません。あの子の笑顔を見させて。温もりを感じさせて。
***
「ねえ、お母さん」
大機が私を呼んだ。幾重もの管に繋がれ、身動きの取れない彼は、もう自分で起き上がることさえもできない。
「どうしたの?」
私が傍によって大樹の顔を覗き込むと、大樹は小さい声で「あのね」と言った。
「僕ね、神様に手紙を書いたんだ」
私の心臓が跳ねた。表情が強張る。私が手記を書いていることを、この子は知っているの……? 思わず、同行していた夫を振り返る。夫は驚いたような顔をしながら首を横に振った。
大樹の視線は私には向いていなかった。もし私の顔を見ていたら、何かあったのだと悟られてしまっていただろう。彼は「引き出し開けて」と、か細い声で言った。
ベッドの脇に設置されているクローゼットの引き出しを開けると、なかには折りたたまれた紙があった。
「まだ、開けないでね」
私が紙を手に取ったのを見て、大樹は呟いた。
「……見てもいいの?」
「いいよ。でも、まだ駄目」
「……じゃあ、いつなら見てもいいの?」
かさりと紙の擦れる音がした。
「僕が、神様のところに行ってから」
その言葉を聞いて、私は紙を落としそうになった。
大樹が、どんな想いで、言っているのか。
想像することが、私には出来なかった。
大樹が、どんな思いでいるのか、分からなかった―――。
***
それから、着替えを取りに家に戻って、タンスを漁っている間、私は放心していた。
『僕が、神様のところに行ってから』
大樹の言葉が、頭から離れない。
私は、大樹の母親なのに、ずっと一緒にいたのに、あの子の気持ちを分かっていなかった……?
私は震える指で、持ち帰った大樹の手紙に触れた。
そして、開いた。
『 かみさまへ。
かみさまってなんでもかなえてくれるんでしょ?
じゃあ、ぼくのねがいごとをかなえてください。
ハンバーグをおなかいっぱい食べたい。
ともだちとあそびたい。
がっこうに行きたい。
テレビを見たい。
いえにかえりたい。
そとに出たい。
はしりまわりたい。
じゆうにうごけるようになりたい。
びょうきをなおしたい。
かみさま、今までのねがいごとはなかったことにしてください。
ひとつだけでいいから、ぜったいにかなえてください。
おかあさんを、おとうさんを、えがおにして。
ぼくがいなくなっても、ずっとえがおでいてほしい。
おねがいします。
だいき』
最後の5行は、筆圧もめちゃくちゃで、線はぐにゃぐにゃで、書いた時にどれだけ手が震えていたのかを物語っていた。動かない身体で、この文字を書いたのだ。
涙が止まらなかった。私は、手紙を握りしめながら、その場にうずくまった。
「大樹っ。だいきっ。大樹っ……!」
私は我が子の名を叫び続けた。
***
「おかあさん」
「ん?」
「ありがとう」
「大樹、私もね、ありがとう」
***
春の暖かい風が、私の髪を撫でる。
最後に見た大樹の表情は穏やかだった。棺の中で、眠っているように、今にも目を開けて、「おはよう」と無邪気に笑いかけてきそうなほどに。
私は、あの手紙を大樹の耳元にそっと置いた。
「いいのか」
夫が私の隣で尋ねる。
「いいの」
私は大樹の愛おしい顔を見つめながら言う。
「そのほうが、大樹の願いが神様に届くと思うから」
夫は、一瞬沈黙し、「そうか」と呟いた。
棺が霊柩車におさめられていく。これから火葬場へと向かう。私たちは別の車に乗り込むことになっている。
霊柩車の向こうに広がる空は、澄み渡っていて、雲一つなかった。これなら、大樹と添えた手紙は、空の向こうにいる神様に、すぐ届くだろう。
私の手記は、家で燃やした。
恨みを書き連ねていた文章の最後に、「大樹がそちらでずっと笑顔でいますように」と懇切に願いながら書き足して。
大樹は、灰になった。遺骨だけが小さな箱に納められた。
でもここに、大樹はいない。
私は、空を見上げた。
ありがとう。大樹。
私の子どもでいてくれて。
私のもとに、生まれてきてくれて。
優しい子に、育ってくれて。
私の大切で、かけがえのない子。
ずっと、愛しています。
青空に、白い桜の花びらが舞い踊る。
堂々とした樹木は、今日、天へと枝を伸ばしながら、満開の桜を咲かせている。
神様への手紙 moe @moe1108
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