始まらない恋

吹井賢(ふくいけん)

始まらない恋



 七時一〇分発、市営一二号系統。大学に通う為、今日もぼくはバス停へと向かう。

 数年前まで四条烏丸にはバスターミナルがあったらしい。京都産業会館ビルの建て替えに伴って廃止になったそうだが、室町通を少し奥に進むと、今でも殺風景そのものな操車場跡地が残っている。 

 街が変わるのは当たり前なのに、況してや、この街に思い入れなどないはずなのに、妙に寒々しく感じるのは、暦の上では春と言えど、まだ肌寒い日が続いているせいだろうか。もう四月も終わるけれど、始発を待つ一時には缶コーヒーが欠かせない。

 

 入学式が終わり、退屈なオリエンテーションや自己紹介を経て、一ヵ月が過ぎた。

 巷で謳われる「夢の新生活」はぼくには無縁のものらしく、大学生になっても、一人暮らしを始めても、何が変わるわけでもなかった。

 強いて言うなら、生来の人混み嫌いが悪化したくらいのもの。自分で選んだくせに、「どうして私立はこうも人が多いのだろう」と心の中で悪態を吐く毎日が続いている。一限に出るとしても早過ぎるバスで通っているのも、せめて通学時くらいは穏やかな時間を過ごしたいという思いのあってのことだった。

 

 ……いや。少し、違うだろうか。

 今となっては、ぼくは彼女に会う為に、この車両に乗っているのかもしれない。

 

 人の疎らな朝の烏丸。三条だか、祇園だかからやってきた緑のバスは、今日も今日とて空いている。

 市バスはぴたりと停留所の前に停まる。あの気の抜ける音と共に扉が開いて、僕は迷わず一番奥に乗り込んだ。サラリーマンらしき数人に、スポーツ紙を開いたご老人。この時間だと金閣に向かう観光客も流石にいない。

 やがて、彼女がやって来た。

 いつも通り、銀行の角を早歩きで曲がった彼女は、いつものように乗り込んで、いつもと変わらずぼくの斜め前に腰掛ける。「発車します」。運転手の声と共に、ゆっくりとバスが動き出す。

 何もかもいつもと同じ、朝の光景だった。

 

 

 ぼくは彼女の名前を知らない。年も、何をしているのかも。

 パンツスーツ姿を見るに、事務職だろう。毎日疲れた顔をしているから、夜勤明けだと思うけれど、その推測にだって確証はない。いつも北大路で降りるので、自宅はその辺りなのかもしれない。当然、話したことはない。話す機会もだ。

 ぼくは、彼女のことを何も知らない。

 ただ毎日こうやって、彼女の綺麗な横顔を眺めている。

 それとなく、気付かれないように、ずっと。

 

 きっと向こうはぼくの存在さえ知らない。

 でも、それでいいと思っている。

 

 

 四月最後の月曜日。

 いつものように僕はバスに乗り、いつも通りに彼女は来たけれど、いつもと違う点が一つあった。彼女がいやに、晴れやかだったのだ。

 いつも眉間に皺を寄せ、頬杖を付きながらスマホとにらめっこをしていたものだから、はじめて見る笑顔に驚くと共に、妙にドギマギした。ぼくに向けられたものでもないのに、全く我ながら気持ち悪い。

 

「次は千本北大路、千本北大路です」。アナウンスが社内に響く。今日もお別れの時間が来たわけだ。

 彼女が立ち上がって、バス前方へと向かう。

 鞄を置きっぱなしにしたままに。

「あ、あの!」

 思わずぼくは声を掛けていた。

 振り返った彼女は一瞬間、不思議そうな顔をするも、すぐに「あぁ」と納得したように声を漏らした。

「鞄か、ありがとうね」

「いえ……」

「ま、もう要らないんだけど」

 どういうことですか。問い掛ける前に答えは返ってきた。

「辞めたんだよね、仕事。だから、捨てるつもりなの。その鞄も、中身も」

「……そうなんですか」

 そう言うしかなかった。

 それしか、言えなかった。

 ぼくの気持ちなど素知らぬように、快活に笑って彼女は続ける。

「君は大学生? 毎日早くから大変だね。勉強、頑張るんだよ。私みたいにブラック企業に就職しないようにさ」

 バスが停まる。後ろ手に右手を振って、彼女が降りる。

 降りて行く。

 ぼくは、何も言えなかった。

 

 言えなかったけれど、嬉しかった。

 彼女が幸せそうで、そして、彼女がぼくのことを知っていてくれて。

 二度と会えないとしても、それだけでぼくは満足だった。

 

 

 四条烏丸から金閣寺方面に向かう市バス、一二号系統。

 始発の時間は七時一〇分。

 五月になり、夏が近付いてきても、朝の停留所は寒々しい。

 

 きっとそう感じるのは、もうあのバスに彼女はいないからだろう。


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